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 年末です。

 わたくしごとですが、クリスマスからこっち義祖母の家から火が出たりでなんやかんやで。ブログも放置でXbox起動させることもなく(四日起動させなかったのはたぶん今年初)心配かけましたが、元気は元気です。ツイッターでちょっとつぶやいたように、ノロウイルスで下ってはいますけど。

 プロレス大賞はNOAHがいただき。
 三沢光晴に続く二人目の最優秀選手賞受賞選手ということで、真の第二章のはじまりを感じずにはいられません。



 杉浦貴よりアントニオ猪木より、内舘牧子が男色ディーノを絶賛する映像が目に焼きついてしまいました(笑)。先生、ぜひとも書いてくださいよ、ただのイロモノではないゲイレスラーの一代記。私はかぶりつきで観させていただく。

 

 そういう時期。
 というわけで、今年も発表。

『2010 タイムが選ぶ今年の発明』(The 50 Best Inventions of 2010)

 昨年までベストオブベストが発表されていたのだけれど、なぜだか今年は順位付けが廃止。しかし記事のトップはやっぱりテクノロジー部門「iPad」……順当すぎてなんのおもしろみもありません。それでもやっぱり杉浦を抑えて男色ディーノがMVPになったりはしないものなんですよね総括っていうのは。

 で、ベスト50をざっと見て。
 目にとまったのは。
 画的になんだそれという、Transportation部門の、

『The Straddling Bus』

 中国で承認待ちの状況にまでいっているという。
 マジで?
 急速な自動車の普及に道路の整備が追いつかず、慢性的な渋滞を起こしている中国の状況に対し「発明」したエライ人の発想ときたら……

 道路作るより、背の高いバス作ったらいいんじゃね?

 1000人乗れるバスにもかかわらず、タイヤは両の路肩を走行。バスの下部では二車線がふつうに使えるというのだが。確かに未来予想図では素敵に見える。でも、整備が追いついていない中国の道路を走るんだぞ? 日本の高速の路肩だって、バイク乗りの私はなんども怖い目に遭っているくらい。そういう目の届かないところは凸凹しまくっているものだ。ていうか純粋に怖いよこれ、バイクが下走ってるの、バスの運転手認識不可能でしょ。

 いやもちろん、計画ではモノレールのように新しく造る道路でレールの上を安全に走行するのであろう。いまから道路を新設しまくるなら、もっと人を運べるようにしようぜという思想なのはわかっちゃいるんですが。第一印象って大事。私これ乗りたくない。大事故が起きる予感がひしひしとします。

 んー。毎年のことですが、こういう未来技術というのは、どうも不安が勝って、素敵な未来が夢見にくいものです。

 ほかのも、外国人は全員ロボットから英語を教わるようになるとか、牛の脂身で機関車を走らせるとか(バイオ燃料原料のトウモロコシが高騰しはじめたから、うちの国は牛が多いし、それ燃料にすれば、という発想が確かに発明以外のなにものでもない。人類ってスゴいや)。読めば読むほど、つっこむこっちも辛口になっていってしまう記事の多いなか……

 これもTransportation部門ですが。

『Martin Jetpack』

 すでに実用化されているジェットパックが、ついに、ついに、本当に、本気で、個人消費者向けの売り物として発売される近未来がやってきたぜオーイエェー。三十分も飛べるという。それはもちろん、暗黒騎士な視点で見ればセグウェイでセグウェイ社オーナー事故死な今年だったし、空なんて飛ぶ新しい乗り物で、電線にからまって一面トップなんてこともあるかもと憂うことはできましょうが、しかしそこはそれ。
 今年はマスターチーフが空を飛んだ年でもあったわけで。

 去年はまだキネクトという名前も発表されていなかったXbox技術が受賞していたのですが、今年も、こんなのが選ばれるというのは、あのプロモーションの影響に違いありません。

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『2009 タイムが選ぶ今年の発明』のこと。

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 だって、今年、私、ジェットパックの映像って、受賞したマーティンのではなく、この『Halo:Reach』の販促でしか目にしなかった。あいかわらず日本では少数派ですが、世界ではそれほどXboxでありHaloってことなのだと思います。ゲームの中で、高く飛びすぎたら燃料切れて落ちて死ぬこともおぼえましたし。
 まかせてマーティン、ぼくなら飛べる。

 ゲームの販促で命を張る。
 その気概がものを売るんだとほんと思う。
 自信があるモノ作って、自信もって売る。
 当たり前でむずかしい。
 特に日本でそれやると、自画自賛って醒める、という反応が返ってくることが多くて、売る側も「手前味噌なんですけれども」なんて前置きをしちゃうから、よけいに寒々しいことになる。

 そういう意味で、杉浦の恐縮しながら受賞しつつあとになって「ぶっちゃけ自分だと思ってた」という発言は、勇気をくれた。鍛えて、限界までやって、作りあげた作品たる自身を「おれがチャンピオンにふさわしい!」とみずから買う側の客にアピールするプロレスとか格闘技の選手のありかたこそ、まっとうにモノ売ってる形態のような気がして、近ごろますますとても好き。「お買い上げありがとうございます」とモノ作っている源流に行けば行くほど弱くなる業界にいるせいかもしれない。だからこそ、自分で作ったモノを自分で売るときは、もっと。声おさえちゃうところを、イヤそれじゃあダメだとただがむしゃらに、来年は吠えていこう。その前に吠えられる商品も極めていこう……当たり前なのです。

(空を飛ぶといえば、つい先日「ホンダジェット量産初号機が初飛行成功」というニュースも流れました。いよいよ空なんだなあ。ホンダのバイクも静音電気化されていく以上、轟音と速さを求める命知らずどもだって空に向かうしかなく……盗んだジェットで大気圏~、なんてのがロックな世紀になるのであろう)

 あと、今年の上海万博。ぜんぜん興味がなくてニュース映像も観ていなくて、会期が終わってからネット上でそれを観て、おお、と感じた、あれが受賞していた。
 Miscellaneousというよくわからない部門として。

『The Seed Cathedral』

 UKパビリオン。
 種の大聖堂。

 無数のファイバーケーブルが、建物の外から内にのびていて、その一本一本に多様な植物の種が埋め込んである。つまり、人工的な建造物の内部にある種子に、人工的なプラスチックファイバーによって日光が届けられている。中から見ると幻想的。実際にファイバーの中のタネが芽を出したりするわけじゃない。いわゆる風刺系の現代アートの一種だけれど、それを今年の発明だと褒め称える世界初のニュース雑誌の心意気が素敵。見た目は使徒なこの建造物で勝負しようと思ったその国の人たちも素敵。
 日本は紫色の蚕の島だっけ?
 まあいいんですけど。



 前々回のここで触れていたハヤカワSFマガジンの創刊50周年記念アンソロジーの一冊に収められている20世紀の名作『去りにし日々の光』に出てくるスローガラスを想起する。厚みはふつうのガラスほどだけれど、そこには圧縮された光が閉じこめられていて、十年物のスローガラスは、十年間、十年前の風景を映し出す。光とは時間である。彼女の微笑みを私が目にするのは、彼女と私のあいだにある空間を光が走ったからだ。それをいったんせき止めて、好きなときに放出できたら。

SF

 20世紀にそれはサイエンスフィクションの発明だったのだが、今年、私は三台ほどのUSB外付けハードディスクを買った。契約している、ひかりテレビがハードディスク録画できるようになったり、代々東芝のレコーダーを使っているのが、最近の機種は外付け記憶媒体録画が当たり前になって、そんなこんなで。毎日の帰宅が深夜になる生活なのに、私はふつうにその日のプロレスの生中継を観ている。実際には数時間遅れているが、このデジタル時代のありがたさ、録画して画質が落ちるわけでもなく、私にとっては生放送だ。スローガラスは、昼夜逆転した生活者に、自分だけの昼や夜を窓の外に見せることで、精神の安定を図る商品としても描かれていた。
 いま、私にとっての、テレビはそう。朝起きたときに観るニュースも毎日録画。私が起きたときが、いつだって一秒の狂いもなく、一日のはじまりで、ニュースのはじまり。些細なことだけれど毎日のこととなると、実際的にも、精神的にも、二十世紀のビデオデッキ文化とは安定感が違う。

 技術とは善です。

 当たり前に 移動するトンネルなバスが走り、ロケットを背負ってヒトが飛び、地下で植物が育つようになる。コピーした食肉と、食べても太らないクスリの話もついこのあいだしたっけ。

 言いかえれば、善とは、時間、なのかもしれない。
 渋滞を解消すること、飛ぶ必要、二倍の速さで成長するサーモンと、あらゆる情報に対する双方向性。
 急ぐこと。
 私を中心に世界が回ること。

 だれもがそう思っているなら、この世に衝突は絶えないはず。

 だが、科学が世界を丸くする。
 さあさどうぞあなたさまのために道を空けましたお急ぎ下さい好きなだけ。
 道が混んでいるなら空を飛べばいいのです。
 十年前の私は、こんなに週に何冊もネットで本を買ったりしていなかった。
 食料品をクリックで買うなんて、未来のことだと感じてた。

 そう考えると。

 インターネットって、よくもまあこんな薄っぺらい文字と画像だけで、こんなに普及して衰退もせず続いているものだ、と最近よく考える。
 基本、黎明期と変わっていない。
 なにかを伝えるには言葉しかなくて、それを伝達する速度は上がったかもしれないが、影響力というのは、あんまり変わったように感じない。ツイッターで数万人が即座に知った一文も、その一文に言霊が宿っていなければ瞬く間に消滅する。
 逆に、あの、あれ。
 (ネット上で書くのが怖い単語ではある)
 零八憲章なんていうのも。
 発表と同時に言葉を発した本人はとっつかまり、それどころか発せられた言葉そのものが消されてしまったというのに、それからゆっくりと二年ほどをかけ、この年の瀬に、ひとつの言霊が成し遂げた成果を見せつけられた。
 電脳空間は地上をすべて覆っている共有された皮膚なのだということを、まさに肌で感じる今年の出来事だった。当たり前のことを、命がけで発信した。そのときから、生まれたものは消えない。消しても消えない。当たり前のことなんだけれど、言ったか、言わないか。

 言わないほうが善ということもあるじゃない、とあなたは助言してくれるかもしれない。しかし、私は今年、本当にそんなことばかり考えていた。そしていまの段階では、総じて物事は、失言や誤解があったとしても、言葉として届いたほうが実がある、と思ってしまう。

 というわけで。
 まとまりないままですが。
 まとまりもしない言葉を発し続けていられたこれを、もっと。
 もっと、すべてを。
 もっと、あなたにも、あのひとにも。
 叫んでいこうと、明日こそは好きだって言うんだと願って眠れない14歳みたいに。来年のことを思っています。玉砕するにしても、もっとはやく、もっとカラダごとでなら……高熱を出したほうが風邪の治りは早いと言うし。だらだらとしんどいのは、だれもにとって悪。

 はやく!
 もっと突き抜ける大声で!

 叫ぶこと考えつつ、また来年です。
 今年も一年ありがとうございました。
 言葉を交わすことなく、そっと私のダメさを見守ってくださっていたあなたにも、陰口叩いていたあなたにも、奇跡のように今夜出逢えたあなたにも(朝ですか?)、こいつが届いていればいいなと願いつつ。

(いちおう年の変わり目的なこと書いてますが、私自身は仕事柄、元旦しか休みはないので、まったくもって特別のことなどない日常。特別なことなどなにもないから、今週の感情が来週は変わっている、なんてこともありえないという、これは堅牢さなのか惰性なのか。善か悪か。答えなんてものも出ず、一年なんてあっという間。無理から自分で叫ぶ日を決めて、そこから次をはじめないと、なんにも生まないのですよ。まったく。発明とは、打ち破ることです、この腐れたおのれの脳みそを。掻き回して、変わった味になるとおもしろいなあ……そんな初夢が見たい)
 
 愛してる。
 今年もでした。
 来年だっていっしょなので、特別、言うこともありません。
 当たり前のことなのです。

 良い年越しを。


Angel

 Devilfish。
 というと、タコを指す言葉で、髪の赤いガイジンは食べないんだなんてことが言われますが、ケーブルテレビで外国の料理番組など見ていると、ふつうにマリネとか作っていますから、それはたぶん、大昔に日本へやってきた赤い髪の外人さんなんていうのは何ヶ月とか船に揺られて来るわけで、やっとついた島国でチキンorビーフorフィッシュもしくは活きの良いタコのにぎりなんかもありますが、と訊かれれば、焼いた魚もタコも食い飽きた船上生活の果てに、喰い慣れない生の魚介なんてだれが喰うかよステーキ持ってこい鶏モモ丸焼きで頼むよジャパニーズっ。
 てなことだったのではないかと。

 そもそもはDevilfishとは、ユダヤ教における食べてはいけないとされる禁忌の魚……旧約聖書によれば「ウロコのない魚」全般のことを指し示しているという。というと、嫁の実家が和歌山県、という私にとってみれば、ぴんと来るのはたぶんそういうことだったんだろうという推察。その言葉はタコよりも、エイとかマンタとか、クジラとかイルカとかを指す意味のほうが強かったのではなかろうか。

 イルカなんかの脂肪には水銀が溜まるという通説があるけれど、私がそれよりも気になるのはクジラ肉業者がさかんに言う「クジラ肉にはビタミンAが豊富」というところ。ビタミンAは足りないとお肌カサカサになりますし鳥目になりますが、より問題なのは過剰摂取。特に妊婦におけるビタミンAの過剰摂取が胎児の先天的奇形率を高めるというのは現代では解明されていて、近ごろのビタミン剤にはそういう注意もちゃんと書いてある。

 とはいえ、現代でこそこの日本でニンジンもカボチャもホウレンソウもいっそ節約料理の代表格みたいなことになっていますが、むかしは白身魚の目刺しと米だけで生きていた人々も多かったため、古代日本でビタミンAの過剰症になるなんてことはまずなく、歴史的に見て最初のビタミンA過剰症患者の日本人は、現地民からふるまわれたアザラシのレバーを食べてしまった南極観測隊の隊員である、という先生もいらっしゃいます。本当か嘘かは定かではないものの、そんな国だからこそ、その貴重なビタミンを多く含むウナギだとかクジラだとかに、胃袋が反応してしまうのだというのはもっともな説であるように感じるのです。

 しかしこれが、そもそも血筋が狩人であり、肉食万歳である土地の人々であった場合。アザラシはもちろん、クジラとかイルカとか、そういうものの肉だけならまだしも内臓まで食した日には、ほぼ間違いなくビタミンA過剰症に陥ります。その症状たるや、髪が抜け、皮膚がべろんと剥がれ……それでいて、死には至らない。

 リアルゾンビです。

 奇っ怪なその病気。訊けば、ウロコのない魚を食べたという。
 あっちの家に悪魔の子が生まれた。
 母親が、身ごもりながら、ウロコのない魚を食べたという。

 Devilfish。

 タコを食べてなにかの過剰症になるというのはまずないので、実害のあるウロコのない魚の一群に、見た目のグロいタコもついでに入れられてしまったのではないか、とか。

 そういうことを、きらきら光る天使のオブジェを見つつ。
 天使を見ていると、悪魔のことばかり考えてしまうのです。

 Konjacというと、読んでそのまま、コンニャクの英語表記なのですが、これがなぜだか。

 Devil's tongue
 = 悪魔の舌。

 そういう表記で記されることがある。
 これも聞くからに聖書の教えのうんぬんとか、そういうタワゴトっぽいところに起源を持っていそうだが、調べてみればなんのことはない。というか、英語のコンニャクwikiに乗っていた写真を見れば、文章の説明などいらない。

Konjac - Wikipedia, the free encyclopedia

 コンニャクの花が、悪魔の舌なのだ。
 コンニャク農家の窓から畑を見てみたい。
 羅列する極彩色の悪魔の舌……生子(きご)と呼ばれる苗を植えて五年目には花が咲くとか。外見からして熱帯観葉植物マニアにウケそうなものだけれど、そのあたりの店で見かけることがないのは、育てるのが難しいということなのだろう。

 いまウィキペディア読んで初めて知ったが、現代のコンニャクが灰色で黒いぶつぶつが入っているのは、メイクなんだね。原始人はコンニャク芋を皮ごとすりおろして、それを固める作法も手荒だったから、ぶつぶつの残ったグレーコンニャクになっていた。それが丁寧な作法を身につけた江戸の時代あたりには、まっ白なコンニャクが実現できるようになった……にもかかわらず。

 白いと売れない。

 で、昔ながらのコンニャクらしさを出すために、着色して、ヒジキでぶつぶつも再現したとか……なんという本末転倒。なんという無駄。いや、手先は器用になったが頭は未開の島国人だった江戸の民が「白いコンニャクとか、キショっ」となったのはわからなくもないものの、いま、これみんなにちゃんと是を問うべきではないのかコンニャク屋さん。
 私はまじりっけのない白いコンニャク、食べたいけどなあ。

 そしてこれも、いま読んでわかった。

 コンニャク芋は、そのままではアクが強すぎて食べられない。そして、そもそも英語圏では、コンニャク芋からコンニャクを作り出す習慣も、技術もない。
 それゆえに花が咲くのである。
 考えてみれば、コンニャク農家では花が咲く前に根を収穫するのだから、窓から咲き誇る悪魔の舌なんて見えないという道理。

 ところでコンニャクの英語表記はKonjacだとさっき書いたが、正確な学名だと、

 Amorphophallus konjac

 何語だかよくわからないが、どうも造語っぽい響きであるので、分解して検索してみる。

 [Amorpho]をググると「Amorphousではありませんか?」と問われるので、たぶんそうなのだろうと答えれば意味を教えられる。

 「不定形の」

 じゃあ後半。
 [phallus]をググると。
 ちょっとリンクは貼りたくないサイトがいっぱい出てくる。
 これはあれか、江戸の春画にも登場する人肌にあたためたコンニャクはリアル女性器を越える太古からのオナホールというあれか……

mai

(ひどいといえば、↑こういう商品で「クリスマスの贈り物ですか?」と訊いてくるAmazonのセールスロボも相当ひどい。今なら通常配送で12月24日までにお届けしてくれるらしいが。クリスマスイヴに疑似性器を宅配で贈りつけるとか、ただの放置プレイよりもひどい、どれほどサディスティックな女王様とつきあっているんだという(笑))

 いやしかしまて、コンニャク芋をコンニャクに加工できない英語圏で、コンニャクの学名がエロいサイトの冠になっているというのはおかしくないか。食べないけれど自慰アイテムとしてだけ輸入してまで流通しているのかそんなバカな。

 で、phallusを画像検索してみる

 ……なんのことはない。
 コンニャク学名、Amorphophallus konjac。
 直訳すると、

「カタチのさだまらない男根それがコンニャク」

 ひどい。
 なにを考えてそんな学名を。
 ていうか、不定形チンコという言葉の意味がわからん。
 訳しかたが間違っているのだろうか。
 しかし、日本語でもアモルファスシリコンとか、まんま不規則なっていう意味だしなあ。あ、そっちか。不規則な。

「不規則な男根」

 つまり、  
 Devil's tongue
 = 悪魔の舌。
 が、歪曲表現なのではないか。

 そもそもが、食えないアクの強い芋からニョッキリ生えるパッションピンクの細長く尖ったそれ……荒野に、不規則に、天高くそびえる、悪魔のペニス。

「それがコンニャク」

 あの気色の悪い花はなんなの? と、口説き落としたばかりの金髪旅行者に訊ねられ、日焼けした顔を卑猥に歪ませて、原住民の男は答えるのである。

(でもまて、好き勝手な方向に生えやがるくそったれファルスだなんてことをいま言うわけにはいかねえよな。あれが悪魔のチンコでないなら、そうだな……)

「嘘つきな、悪魔の紅い舌さ」

 そういって男は、自分も舌をつきだして見せた。
 彼女が頬を染めてキュートな鼻頭にシワを寄せたのを、こっちを野蛮なカウボーイだとあきれているわけではなく、好ましいワイルドさだと感じているようだと計算しながら。おれのは、あのコンニャクの花よりでかくて尖ってるぜなんて、口にしなくてよかったとほくそ笑む。まったく、旅行者ってヤツは、変わってるものが大好きだからな。

 ……えっと。

 そうそう。
 悪魔の舌。
 悪魔の魚。
 そこで言う悪とは善の対極ではなく、奇妙さを言い表す言葉が見つからなかったときに使われる、擬人化の手法。

 だからこそ惹かれる部分もある。
 というのは、私が聖書の国で暮らしてきたわけではなく、悪魔についておどろおどろしい洗脳を受けたわけではないからだろうか。

 天使の奏でる音楽よりも、悪魔の鼻唄のほうが聴いてみたい。
 クリスマスが近づいて、部屋のオブジェを光らせると、いつもそういうことを思う。

 除夜の鐘が鳴るのを聴くと、ヒトにはこんなにも多くの煩悩が詰まっているのだなと思い知らされるように、天使も、悪魔を想い出させるために存在している。
 天使は外に、悪魔はいつだって自分の指先に。

 メルクリウスプリティ。

 間違えた。

 メリークリスマス。

 どこでなにやっているか知りませんが。
 あなたの悪魔を可愛がってください。
 光り輝かすべきは、奇妙さなのです。





 もちろんアクセスの過負荷もあるのだろうけれど、根本的なサイトの構造に問題があるような気がするなあ……私の母校もそうだが、芸術と冠する団体のウェヴ作法というのは、なにかにつけムダにキラリンと光らせてみたり、そういうのをこっちがいかにすばやくスキップできるかこそを掲示しろと声を大にして言いたい。ていうかマシンガンクリックしながら実際に罵っているわけだが。しかしまあ、閉じこめた観客に苦痛をおぼえるほどの退屈さを頭ごなしに降り注ぐのこそがアートだというのも、わからなくはないのですが。そぎ落とせないのは、そぎ落とすと薄っぺらくて安っぽくて、愚鈍で無知な本性が現れる(なんてことを他人は思わないにせよ)のが怖いから、なにより本心では、退屈なのよりもねっちゃりしたたのしいのをなにもかんがえずにせっしゅできるのがいちばんであるのではなかろうかとうすうすきづいてはいるから……

 そんなクソ重いページで発表されている、本年度、

『第14回 文化庁メディア芸術祭 受賞作品』

 いっこいっこ話そうかと思ったけれど、重すぎてこのサイトを中心に話すのがイラついて仕方ないので、かいつまんだ別の話にします。こちとら師走で重たいサイトひらくの待ってる時間も惜しいんだよっ。

(と書いた翌日のいま、ぜんぜん重くありませんが、もはや語る気が失せたのでもとには戻りません)

 アート部門のあれやこれやをここで話題にしてもだれも読まないでしょうし、キャッチーなエンターテインメント部門の大賞受賞作に直リンク。

 『IS Parade』

 師走の走りで数日つぶやくことさえできていませんが、私もツイッターやってます。もう一年ほどになる。それをやっていないと参加できないパレードということで排他的ですが、それでも「あらおもしろいわね」と文化庁がつぶやいてしまうほどに、そもそもつぶやくだけのはずだったところから、つぶやかないでおもしろいことになっているというところが、くすぐったい感じ。
 ふーん。これだけ。
 という感じがするのも事実ですけれど。
 ものすっごい高度な技術が使われているわけでもないんだけれど。
 自分の名前入れたら、見知った人たちとパレードできる。
 それだけ。
 でも、へえ。
 確かに、そこからいろんなものがはじまりそうな気分は上々。
 にやりとさせる、それがアートだっていうとらえかたは、好きです。

 オンラインコンシューマゲーム機の草分けドリームキャストにおいて、この私のサイト『とかげの月』は製作されました。物心ついたときからキーボード叩いていたベーマガ読者の小学生というマイコンユーザーではあったのですけれど、いまここでこうしてくだらないことを書き続けている、こんなことをはじめたのは、それがゲームだったから。その後、サイト運営はやっぱりパソコンのほうが便利だねとそっちに移行しましたが、自分のウェブサイトを作る、という行為が、ゲーム機でおこなうことができなければ、せがた三四郎や、湯川専務がいなければ、少なくとも『とかげの月』の発生は、もう数年遅れていたでしょう。

 きっかけって、大事。
 きっかけをさがすための、無駄は無駄じゃない。

 そういえば、昨年の文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門大賞受賞作は『サマーウォーズ』。 

SummerWars

 この一年のあいだに、地上波でのテレビ放映があって、そのときツイッター上では非公式ながら「ナツキにみんなのアカウントを送ろう!」というイベントがおこなわれていました。仮想の世界で戦うアニメーションのヒロインに仮想のツイッターを仮想のOZに見立て実際の放送にも映画の内容にもまったく影響もないのに大量のアカウントを集める……その高揚感って無駄じゃない。
 
 なんだかわからんがナツキの衣装が変わった!

 その高揚感に受賞させた昨年の決定も、なかなかです。
 どうでもいいですが、前述のようにセガっこの私は、コイコイ(『サマーウオーズ』でナツキが他人様のアカウントを掛け金にしてやっていた花札ゲーム)と聞けば『サクラ大戦』を連想してしまいます。ちゃんとルールを知ったのは、あのゲームでなのです。
 そういえば、最近観ているアニメ化された『おとめ妖怪ざくろ』でも『サクラ大戦』を想いだしてしかたありません。

otome

 AKBの子の家に泊まってすっぱ抜かれていた広井王子氏ですが、ずっとミュージカルミュージカル言っていたヒトだもの、リアルな少女歌劇団を手中に収めたいま、そりゃ演技指導も徹夜になるってものでしょう。それでも仮想の帝国歌劇団だって忘れずにいて……そう願うほど、歴史改変モノにおける『サクラ大戦』の描く太正のインパクトは強かった。現実の大正時代のパラレルワールドが、あれ以降、すべて太正浪漫のサクラ大戦時代に思えてしまうほどに。

 似て非なる世界。
 別世界だけれど、変わらないものもある世界。
 以前にもクーンツ作品で、そういうこと考えました。

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『サイレント・アイズ』の話。

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 そういう設定、とても好き。
 というわけで本年度の文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門大賞受賞作。
 同賞初のテレビアニメシリーズ。

 『四畳半神話大系』

otome

 録画したのを、ちょくちょくと巻き戻したりもしながら、集中して観ていました。とても好き。大賞受賞おめでとうございますと心から。女性向けにハチクロのだめ西洋骨董洋菓子店などでぶいぶいいわせてきたノイタミナ枠(実は関西では「あにめわ~く」枠になっています。あにめわ~くっ、ていう歌もはじまるときに流れるのです。恥)で、こんなに乙女の萌えどころがないものを延々と放送していていいものなのだろうか、いやまあ原作そのものに萌えるというのはあるかもしれないが。

yojyohan

 くだらない事件の起こるくだらないこの世界の、隣にある世界もやっぱりくだらない。別世界ではないのだから当然です。生命保険に入るときに考える。自分が死んだあとにも世界とかあるわけ? いまここで世界を観測する私がここにいるから世界は確定されてここにあるのだとすれば、シュレディンガー先生はふざけるなと怒るでしょうが、観測者の「視点」こそが確定される世界のいしずえとなるわけで。

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『シュレーディンガーの猫』のこと。

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 この世界でうまくいかなかった恋が、隣の世界でうまくいくはずがない。
 だって世界が違っても私自身が私のままであるのなら。
 告白する勇気以前に目をあわせることもできず、テンパって電波なことを口走り、悩みぬいて眠れずに充血させた瞳と汗の匂いのする髪を梳かすことさえ忘れて、どこの世界でも同じように近寄らないでと罵倒されることでしょう。

 『四畳半神話大系』に、占い婆が登場します。

 街を歩く主人公を、勝手に占って御託宣を告げ、金を要求する。最悪です。占いの内容は悪くはないのだけれど、ひとつめの世界よりもふたつめの世界、ふたつめよりもみっつめの世界でのほうが、御託宣は短くなり、とられる占い料は上がっていく。

「はい。6000円」

 勝手に占われて、どうとでもとれるひとことをつぶやかれ、あまつさえ前の世界でぼったくられたよりさらに千円上乗せされているのに、彼は払ってしまう。だって彼は変わらないんだもの。三千円だから払ったわけではない。占いの言葉がもっともらしかったからでもない。彼はそういうやつであり、どんな世界に行ったところで、その占い婆の存在を「視た」のが彼であるならば、差し出されたしわだらけの手に、言われるがままにふところをさぐるのです。

「はい。ひざまずいて」
「はい。脱いで」
「はい。目の前から消えて」
「はい。さよなら」

 要求されるのがなんであれ、なにを与えられる代償であれ、彼は躊躇しない。
 並行世界とはそういうもの。

 ところでこんな○○大賞なんてものが発表される年末になりましたが、今年は、その雑誌がなければ日本でパラレルワールドとはなんぞやとか語ることもできずにいたことは間違いない、ハヤカワSFマガジンの創刊50周年でした。
 記念のアンソロジーが三冊。

SF
SF
SF

 今週やっと三冊目が届いて、ほかのすべてを小休止させて読みはじめたところ。

(三冊目の表題作著者グレッグ・イーガンは私にとって神。読んだことなければ、ぜひとも『しあわせの理由』あたりから入ってみて。その短編ひとつで、人生を救われるヒトも絶対いる。イーガンは並行世界や量子力学の遊びも多いけれど、人間そのものを描いたとき、ちょっと吐き気さえおぼえる新しい視点を掲示してくれます。人生で、絶えず考えなくちゃいけないことが一個増える感じ。プレッシャーで不安定にさえなるけれど、その揺らぎからこそ隣の世界がもう一列増える感じ)

 SFマガジン渾身のラインナップとあって、まあ色とりどりです。趣味にあわないものもあるし、絶対に一生忘れられなくなってしまったものもある。そんななかで、一冊目『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』収録の、スティーヴン・バクスター『月その六』が、タイトル通り、並列世界を扱っている。

(表題作『ワイオミング生まれの宇宙飛行士』は、なんとあの宇宙人グレイにそっくりな奇形として生まれた少年が主人公。ハードSFアンソロジーと食わず嫌いせず、ジュヴナイル読者なかたにこそオススメしたい。せつないです。あ、バクスターは前にも触れたけれど、もう聖書のつもりで『時間的無限大』だけは読んでおいて。そうそう、これもアニメ化賛否両論『それでも町は廻っている』でやってた「メイドっ」のバルカンサインというのはスター・トレックネタですよ、ほら、メイドを目指す現代の女子高生だって何気に口にしてしまうべき、それらは一般教養というやつなのです)

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『映画「スター・トレック」2009』のこと。

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 テレポート装置──《スター・トレック》の転送機──を造るには、量子力学の知識が必要だとわかった。とりわけ不確定性原理の。
 ある解釈によれば、不確定性原理が成り立つのは、根本的に無数の並行宇宙が存在しているからだという。すべてはたがいに隣接している──バドが思い描いたところだと── 一冊の本のページのように。ある事象が起きた瞬間に宇宙はまじりあい、そのあと分離する。


 スティーヴン・バクスター 『月その六』
 
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 詳しく話すと長くなるし、私もそれを黒板に書いて理路整然と説明はできない。
 しかし、怖れずに単純化して言いきってしまうならこういうことだ。
 不確定性原理とは。

 同じページはないということ。

 宇宙は一冊の本である。そのすべてのページに私のことが記述されているし、私が活躍するにせよ生来のダメ人間ぶりを発揮しているにせよ、主人公は私なのだから、私の存在なくして私の登場する本は書けず、それはすなわち私=宇宙ということである。そのうえで、その本のページをめくってみる。前のページと次のページは似たことが書いてあってもかまわないが、同じであってはならない。当たり前である。作者が神だろうが作品を世に問うことさえできない自称同人作家であろうが、複数のページにまったく同じものを載せるのでは、それはページを埋めたとはいえないし、本として成り立つ原理を欠いている。同じページが百枚続くのなら、最初の一枚だけでよく、一枚でよいのならそれは本にはなりえず、一編の詩かショートショートだと捉えるにしても、だったらば本の形にするためには、それとは別のページを埋めるための内容が必要ということである。

 昨年、私はテレビを録画したのを観ただけなので「おー」と感じただけ(だいぶんと早送りはした)だったがアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で微妙な差違のある日常が八回繰り返されるというのを本当に八回にわけて放送したあの件。ハルヒのディスクはぜんぶ買う、と条件付けられているファンのかたにとってさえ、二話収録で四枚の微妙な差違のディスクを買わされるという攻めは、おおむね不評だったと遠く聞く。

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 その後、おしゃれノイタミナ枠で並行世界ものをワンクールやろうという『四畳半神話大系』スタッフが苦悶したのは想像に難くなく、それはすなわち、視聴者にとって不確定性原理とはどのラインで成り立つのかということの模索につきただろう。ヒロインの肌の露出が増えるとか、水着の種類が変わるくらいでは、コアなファンでさえブーイングだった。

 やはり、物語を変えないと。
 でも、同じことが繰り返されるのがキモなんだけど……

 その答えが、占い婆なのだ。

 なんど繰り返しても、どのページに行っても。
 占いの結果は変わらないどころか端折られるだけ。
 払う対価は上昇する一方。

 住めば都、という言葉がある。
 私もデザインを学んだ者なので、人間工学的にどれほどすぐれたデザインであっても、慣れには勝てないということを痛切に知っている。いまだに格闘ゲームをプレイするのに適したコントローラーはセガサターンのそれであるという者は多い。
 馴染んだぶん、あばたもえくぼ。
 引っ越し先は不満が先に目につくものだ。

 『四畳半神話大系』でも、主人公は前の週よりも、絶えずひどい目に遭う。傷は傷であり、その傷を負うのが自分自身である以上、ほかの並列世界に逃げ込んでも、傷はけっきょく負うのである。

 変化させること。
 それにより、変わらないことを思い知らせること。
 不確定性原理だ。
 大前提として、隣のページはある。
 しかし記述されていることは同じではない。
 その場合、いまの世界にとどまるのが、確率的にかなり幸せであろう。
 慣れているのだから。
 どうせ、隣の世界でも、自分は変わらないのだから。

 そういったメッセージを込め『四畳半神話大系』は栄えある賞を受賞した。
 テレビアニメシリーズの受賞ということで、ディスクの売上げはこれからこそが期待できる。
 パラレルワールドには可能性がある。

 《スター・トレック》の転送機が実現しないのは、人類が並列世界の可能性をいまだ正確には理解しきれていないから。並列世界で同時に計算をすることで無限の計算結果を取り出そうという量子コンピュータは、ハードウェアこそどう作ればいいのかわからずにいるが、いつかできるということはもはや確信されている。

 隣のページへ、行くべきではない。
 けれど、行ったことがないし、これからもたぶん行くことはないだろう、月の大地を夢想するように、その世界を想うことは無駄じゃない。
 そっちならうまくやれる、なんてことはありえない。
 あっちでも傷つかないくらいに、こっちで強くなる。
 そのために夢を視る。

 占い婆は、見つけた瞬間に口腔に蹴り入れて黙らせるべき。
 今年もあとちょっと。
 己の手のひらを見つめて。
 このページで次になにができるか、考えようか。

(ハルヒのケースもそうだけれど、パラレルワールドをエンターテインメント化して、それをヒトが評価するのを聞くとき、私はいつもアンディ・ウォーホルの名言を想い出します。
 曰く、

「アートとは無駄な空間を埋めるもの」

 その意味では尺が埋まった時点でアートとしては完成しているので、そこになにが描かれているのかは関係ないという……そういう屁理屈に屁を感じず「そうですよねえ」とありがたがることができるかが、良い観客と悪い観客のボーダーだとも考えるのでした。ええ。私は良い観客にはなりえませんが……あっちの世界でそうなれたら、人生はどんなに清々しく爽快なものになるだろうかと夢見ることはあるのです)