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 まず、グレリンがあります。
 グレリンというのはグレムリン(イタズラ妖精)に似ていますが、成長するという意味のgrowを可愛らしく呼んでいるのであって、むしろ、ゆうこりん(小倉優子)とか、りかりん(花祭果凛)などの仲間です。ご婚約おめでとうございます。

 グレリンは体内で生成される分子の結合体で、ヒトの食欲に関係しているらしいということは判明している。端的な実験結果でいえば、グレリンを注射されたヒトはぶくぶく太り出すのである。

 どうしても太ることのできない一部のD級痩せ型プロレスラーになら需要はあるかもしれない。もしくは、病後の回復期などに、どうしても食欲のない患者に投与すれば、ばくばく食べるようになるかもしれない。しかし、それらの利用法はあまりに限定的だ。

 そこで逆の方向から見てみる。
 食欲を増大するグレリンを商品化するよりも、もっといい考えがあると膝を打つのは、逆転の発想でもなんでもなく、先進国における必然である。

 グレリンを働かせない物質を合成しましょう!!

 これがまた、できてしまうから文明開化の恐ろしいところである。かつてエイリアンに学んだ知識では石造りのピラミッドくらいしか造れなかった人類が、いまや独力で自分たちの肉体を思うがままにコントロールしはじめている。背中から天使の羽根が生える遺伝子変化薬とか、猫耳とか、発売すればタトゥやピアスよりもきっと流行るのに。

Eris

 で。グレリンを働かせない、それ。
 できたので注射してみた。 
 そのヒトはどうなるか。
 みごと、痩せる。
 いや、正確には、太る幅が少なくなる。

 そういう成果が、先日のサイエンスで発表されていた。

『Glucose and Weight Control in Mice with a Designed Ghrelin O-Acyltransferase Inhibitor | Science/AAAS』

(↑元ネタとしてリンク貼っているけれど、サイエンス誌のサイトでは購読登録しないと詳しいことが読めないから、各自、ニュース検索でもしてください)

 この実験結果。
 しかし、おかしなことが起きている。
 動物実験がなされているのだが……片方には、合成したグレリンの働きを抑える物質を投与し、もう片方には自然体でいさせる。そして、高カロリーな食事をたっぷり摂らせる。むろん太る。太るのだけれど、その太り具合に差が出る。

 与えたカロリーは同じ。

 ん? その実験、なにそれ。
 グレリンの働きを阻害すれば、食欲を抑える効果があって痩せられる、という方向性で、はなから実験されていない。この実験が示しているのはそういうことだし、はじめから、その結果を証明するための実験構成である。

「グレリンの働きを阻害すると、脂肪がつきにくい。」

 書きかえると。

「グレリンの働きを邪魔するために合成された物質を投与すると脂肪燃焼効果がある。」

 同じことのようでいて、これは微妙にニュアンスが違う。
 そして、サイエンス誌に発表されている内容は、どちらかといえば、後者。
 あきらかに、

 やせ薬できた。

 ということを匂わせたいみたい。

 しかしここで、格闘技好きとか、自分でも食事と体格の相関関係には興味があって実践している、なんていうヒトなら、ちょっと待てよその実験、と言いたい部分があるでしょう?

 そもそも、実験動物には、カラダを鍛えるという概念がない。
 食わせたら太った。
 その太り具合を比べると差があった。

 だが、グレリンとは、食欲を増大させると同時に、成長ホルモンの分泌を促進するものでもある。ヒトが痩せすぎるとグレリンの血中濃度が高くなる、それは「このまま痩せていくとあぶない。太らないと死ぬよ」というグレタンからのメッセージなのである。間違えた。グレリン。しかし、リンだとポニーテールで、タンだとツインテールを思い浮かべてしまう私は、なにに洗脳されているのだろうか。

twintail

 いや、わかんないですよ。私がいま直感的に感じていることを書いているだけで。けれど、感覚として私は、

「食べているのに体重が増えない」

 隣のあいつよりカラダが大きくならない、という状態は、筋トレ不足ではないかと思ってしまうのです。だって、食べている量がいっしょなんです。同じちゃんこを食って、寝てたら二人とも太ったが片方だけはそんなでもない、というのは、昔なら体質の差といわれたところ。そこに、グレリンの作用があってだね、キミ、というようなことか解明されていくのはすばらしいことなのですが、しかしぜひ、そのグレリンの働きを阻害する合成成分を注射された二人に、激しい筋力トレーニングをつませたいのです。本当に感覚だけでモノ言っているんですが、そうすると、昔でいうところの太りやすい体質のほう……グレリンを阻害されていないヤツのほうが、筋肉量も増えるような気が……しませんか? 小さいころから肥満体質のヒトが相撲業界にスカウトされるのって、筋肉の量、関係ないじゃないですか。でも、実際に、大きく育ちやすいヒトは、猛練習を積むと、筋肉も脂肪もついてさらにデカくなる。成長ホルモンって、筋肉や骨も増やしますよね。違うの?

 その痩せ薬、投与されると食べてもカロリー即燃焼。
 けれど成長ホルモンの分泌を止める……

 だとしたら、それって。
 創作のためのテンションを自分でハイにできなくなったシンガーソングライターが、薬物に手を出す図式と同じ。蘇ったかのように良い曲ができて、人気が戻っても、次の曲を作るために、またクスリが必要になる。

 完全に一時しのぎで体重が減っているのであって、薬をやめた途端に、脂肪を燃焼させようにも、もう腕立て伏せする筋肉さえなくなっているという……ああ恐ろしい。
 それ、まさにリバウンドするためのクスリ。

 でも科学的根拠のもとに、確実に体重を減らす効果があって、それを飲み続ける限り、いくら食べても大丈夫。
 副作用として、ちょっと筋肉が落ちますし、骨も弱くなるでしょうけれど。
 そんなの気にしないヒトは、多いはず。
 少なくとも、己の才能の枯渇に悩んでアッパーなブツの売人をさがすロッカーよりは、飲みはじめたらけっしてやめるわけにはいかない痩せ薬の中毒者によろこんでなろうという二の腕のタプンが気になるお嬢さんたちのほうが多いのがこの世の真実。

「良いブツありますよ、ねえさん」

 売人は言いながら、あなたの二の腕をたぷたぷ触ってくるのです。
 効くの? それはもうサイエンス誌のお墨付きで。
 一本いくら? あら、安いのね。

 そして一か月後には、スレンダーな薬物サイボーグができあがる。

 重ね重ね書いておきますが。
 私の憶測です。
 科学的根拠皆無な感想を、科学誌の記事を読んでくっちゃべっているだけです。

 しかし、やっぱり、こうやって、そういうことが現実にできかねない段階にまでなってくると、直感というのも無視してはいけないのではないかと思えてきます。

 成長ホルモンを働かせなくする痩せ薬。

 なんど口にのぼらせてみても、毒の響き。
 それ飲みはじめて、依存せずにいられるヒトなんているのだろうか。

 なんだか、科学も結果が売れるかどうかですすめられているような気がします。
 もちろん、飲み続けなくても効果だけおいしいとこ取りできる大丈夫なものに、すぐにバージョンアップするのでしょうが。それでも、途中経過で垣間見えてしまった以上、世の中には天才というものが意外に大勢いるもので。君達の姿が見えないのは単に僕が遅いだけ。追いついてみれば天才なんて大したことない。って『エアギア』のブッチャ君も言っていました。

airgear

 売れるだろうから、グレッパー合成してみっか。

(グレリンオーアシルトランスフェラーゼインフィビターなんて売人さんや薬中さんの頭ではおぼえられなくて売りにくいので、グレリン・ストッパー略してグレッパーで闇の商標登録しましょう)

 そういうヤカラが、近未来に現れることは必至です。
 大学の研究室でできることは、マンションの一室でもできる。
 大学の研究室では、そんな中途半端なものを世には出せないが、食べても太らないという効果がすでに発現してしまったいま、彼らは副作用など、むしろあったほうが売りやすい。

 幼稚園児の哲学として。

「たべるとおっきくなれる」

 というのはもう普遍の真実ではなくて。
 食べたいなら食べても太らないクスリや、視床カードを埋め込んで。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『Halo3ベータテストと仮想うつつ』の話。

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 食って飲んで動かず、でも、太らず老いず。

 科学がそれを実現したとき。
 ヒトの世は、どんなに幸せになっているんだろうな。
 あはは。
 たのしみだ。


 椅子がかたい。
 ケツがいたい。
 確かに、好きなところに連れて行ってやるから、と誘ったのはこっちだし、リュウイチと一緒にいられるなら、どこだっていい。でもそれにしたって、これは悪意あっての選択ではないのか、と。だったらどうして誘いにのったりしたんだよ、と。おれは、まだ疑いながら、遠いリングの攻防を眺めて集中しようとしては、また横を向いてリュウイチの顔を見る。
 笑っている。
 本気でプロレスが好きなのか。
 おれが男なのに男のおまえを誘った(注1・頬を染めて)ことに対するからかい半分の嫌がらせで、裸の男と男が組んずほぐれつする会場にならかまわないけど、と答えたのではなくて?
 当日券の二階席は、男同士や女同士の、試合を観に来たのか、おしゃべりに来たのかわからないカップルも多いが、おれみたいに、無言でまじまじと隣の相手の表情から真意を読みとろうと凝視している、気持ちの悪いやつはほかにいない。

「ティッキー! ほらあれ、ハシゴから跳ぶよっ」

(注2・リュウイチはおれのことを、名前をもじってティッキーと呼ぶ。ホラー映画の話をしていて、呪いの人形チャッキーが「鼻血る」というポスターがあったというのに爆笑して以来のことで、しかしいま、告白とお得なセットになったデートの誘いで友情を破壊したおれに対し、かわらずそうやって呼ぶことに関しては、違和感をおぼえざるをえない)

「うそだろ。三メートルはあるって」
「すごいよね」
「ちょ、下に、椅子置いてあるんじゃ……」

 二階席から見おろしていても気が遠くなる、ありえない高度から筋骨隆々としたレスラーは飛び、お約束のように、敵レスラーによけられて折りたたんで積み重なっていたパイプ椅子の山にダイブすると、そのひたいから紅いものを噴き出した。
 リュウイチは、目を輝かせている。
 どうやら、演技では、ない。

「は、は。すごいや、ラルディクマール」
「ラルディ……なに?」
「ラルディクマール。あの選手。インド出身」
「インド……」
「ラルディクマールは、ダンボールに隠れてメキシコに不法入国して、アメリカに流れ着いたあげく、プロレスラーになったんだ。移民ていうやつだね」

(注3・リュウイチの話につかみどころがないのはいつものこと。いつだって、なにかを伝えようとしていることは感じられるのに、本当にはなにを伝えたがっているのか、わからなくなる。そうこうするうち、おれは、その奥にあるものを見てみたいと、うずくようになったのだ)

「移民……よく、プロレスラーになんてなれたな」

 リングの上では、ランディクマールがフェンシング競技に使うサーベルを振り回している。ああ、そういえば、昔、そんな外人レスラーがいたのをテレビで観たことがある気がする。あの選手もインドの人だったのだろうか。

「人が人をおそれる原因はなに?」
「……え?」
「だれかが、だれかを拒絶する、その理由」
「拒絶……」
「インタビューで、ランディクマールが言ってた」
「なんて」
「未知への恐怖心なんだって」

 未知への恐怖。その言葉はしかし、おれには淡い希望に聞こえる。恐怖心は、越えられないものではないはずだ。わからないから怖いなら、わかってもらえばいい。いや、ことは、そんなに単純ではないと、それもわかってはいるけれど……

「相手が何者なのかわからない。相手がなにを信じているかわからない。それってこわい。だからランディクマールは、大きな団体でチャンピオンにまでなれたんだって」
「こわい、から?」
「こわがるのはお客さん。ターバン巻いて、剣を振り回して、意味不明な言葉で叫んで、なに言われているかわからないけれど悪意だけは伝わってきて、もしもランディクマールが勝ったりしたら、自分たちの信じているものが間違っていると証明される気がして、だから、みんな、自分と同じ人種の選手を応援するんだって」
「……悪者として、移民は最適、ってことか」
「でも、プロレスにはね、ストーリーがあるんだ」

 遠いリングでは、むかしは大きな団体のチャンピオンにまでなったというサンディクマールが、こんな島国で、島国の選手と合体技を披露していた。
 リュウイチはまた、わあ、と歓声をあげ、拍手をして言う。

「サンディクマールは、いまではアメリカ国民で、みんなのヒーロで、今度はこうやって、よその国でも胸をはってプロレスしている。すごいよ」
「好きなんだ?」
「インド人だからね」

(注4・意味がわからなかった)

「四分の一だけど。あんまり特徴的に出ていないから、言わないと気づかれることも少ないんだけどさ」

(注5・いや、おれはずっと前から、そのアジアンな目元の力強さと黒髪の美しさは、ただものではないと気づいていた。そうかインドか。ひとつ謎がとけた)

「おじいちゃんが、移民で。仕事なくて、この国に来て。なんていうか、国籍もらうためにおばあちゃんと結婚した、みたいな話なんだけど。でも、おぼえてるんだ。おじいちゃんとおばあちゃんは、本当に、愛しあってた」

(注6・どんな意味でも、リュウイチの口から「愛」という言葉が出るのを聞いたことはなく、それが聞けたのは、血まみれのランディクマールのおかげであり、それはすなわち、おれも彼のファンになったということである)

「へえ」
「ティッキー、どう?」
「……なんの疑問形?」
「疑問形に疑問形で返すんだ」
「うーん。えっと、じゃあ。よけいに気色悪いと思われるかもしれないけど、インドの血が流れてるっていうのは、なんかエロい」
「はは。ヨガとか? できないよ。ていうか、やっぱり、そういうことなんだ……困ったな」

(注7・だったらおれにどういう発言ができた? エロいじゃないか。エロいぜ! ……もう、どうにでもなれ!)

「ティッキー、ごめん」
「こっちこそ」
「あ。そうじゃなくて、気づけなくて」
「……はあ?」
「ダメだ、ティッキーはぜんぜん動じない。インド人だ、っていじめられて育ったんだよ、これでも」
「そうなのか。けど、それこそ、ガキはプロレスの奥深さを理解できねえってやつなんじゃ」
「奥深さ、って解釈していい? ティッキーのも」
「えっと。それは、どういう……」

(注8・やぶれかぶれだった。おれはじっとリュウイチの目を見た。気づいてみれば、なんて漆黒だ。行ったことのない国の、神秘の色がまじった黒。口笛を吹きたい。いや、指をのばしてさわりたい)

「帰り、部屋よって」
「うそだろ!」
「あぁっ、違う。そういうのはまだ無理、ちょっと、理解を深めたくて」
「恐怖心の除去?」

 まだ、って言っただろうか、いま。
 それって、いつかがあるってことだろうか。
 そうだ、おそれてはならないっ!!

「ランディクマールのビデオ観て、ティッカ食べて、帰って」
「わかった」
「すなおだし」
「覚悟してたより、だいぶましだった」

(注9・ほとんど天国。また頬が染まっているのが自覚できたが、それは注1のときとは、かなり違う理由によって。自制しないと。だいなしにならないように。大切に)

「ビデオ、DVD二枚組だから」
「血まみれ?」
「けっこうワンパターンな展開多いし、退屈かも」
「いっしょに観られるなら、なんでもいい」
「……そういう発言、こわい」
「わかった。ティッカってなに?」
「ちょっと、そっちぜんぜんおそれなくなってんじゃん。ずるい。言っとくけど、よその国にオンナ狩りに来た移民の孫だからね。オンナ好きだから。男とか考えたこともなかったんだから」

(注10・いまは、多少は考えはじめている、と受けとめる。おれは負けない)

「わかった。ティッカってカレー?」
「偏見だよ、それ」

Murghtikka

Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy
 Song 10
 『Murgh Tikka as test』

(吉秒匠
 BL料理哀歌
 10曲目
 『踏み絵ムルギティッカ』)

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○材料

鶏肉 500グラム
レモン果汁 大さじ1
塩 小さじ1
ヨーグルト 1カップ
オリーブオイル 大さじ3
きざみにんにく 大さじ1
おろししょうが 大さじ1
一味唐辛子 小さじ1
ガラムマサラ 小さじ1/2 
クミン 小さじ1/2
ターメリック 小さじ1/2
コリアンダー 小さじ1/2
食紅 小さじ1/2


○作り方

①鶏肉以外の材料を混ぜあわせます。
②鶏肉を適当な大きさに切り漬けます。
③半日以上冷蔵庫で寝かせます。
④液を拭わず蒸発して焦げ目がつくまで焼きます。
⑤食べます。

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 Chicken tikkaが英語表記で、タイトルのMurgh Tikkaはヒンディー語。ムルギ・ティッカと読むのが正確に近い。

 ちなみにチキンティッカはカレーではないが、チキンティッカを煮込んだスープはチキンティッカマサラと呼ばれるカレーに分類される料理となります。

 チキンティッカよりも、タンドリーチキンと言ったほうが通りはいいのでしょうが、タンドリーチキンはおもに骨付き肉で作られるのに対し、ティッカは骨を取りのぞいた胸肉を調理したものを指し、野菜に合わせて前菜で出てくることが多い。が、私がティッカを選択するのは、骨付きだと手で食べざるをえず、香辛料を多量にまぶして焼く料理でそんなのは、つまらないプロレスの試合を早送りしながら観るさまたげになるため(リモコン、べたべたになりますから)。そして、チキンももちろん、モモ肉増量です。前菜などではない。これひとつで晩ご飯。山盛りのチキン。クリスマス・パーティにもいいね、ということで。

 今回はさらに手抜きして、野菜といっしょにホットプレートで焼きます。焼き肉です(写真は見目麗しく皿に盛った状態ですが、実際の食卓は油とび散りティッカソースがタマネギを染め、混沌の様相をていします。焼き肉はエロです。見知らぬ人とは食べられません)。

 前述のように、ティッカの基本は胸肉ですが、私は鶏モモ好き。スライスしたバゲットにのっけてガツガツ食うにはジューシーな部位が、やっぱり良い。写真に映っている左側の丸っこい肉片は、砂肝。内臓のたぐいは、水から沸騰するまで下ゆでして、それを流水で冷ましてから漬け込みます。それというのも、たっぷりねっとりヨーグルトの白と食紅の赤が染みわたりまとわりついた肉は、焼けているのかどうだか判別が難しいので、生焼けが怖いから。

 材料の最後に並ぶ香辛料関係は、ガラムマサラとクミンはあったほうがいいけれど、残りはあれば入れたり、コリアンダーもパウダーではなく生葉を使えば別物になるし、パンチを効かせたいならオールスパイスやクローブなんてのも選択としては、あり。小さじ1/2というのも、計って入れるわけではなく、それくらいの量を使うというおよその目安。そこらにあるものぶっこんでヨーグルトでまとめる料理なので、結果、そこに生まれるものが不味いのかエキゾチックなのかの線引きも難しく(笑)、逆説的にはどうなったところで成功と呼べるため、最終的にはお好みの問題です。だいたいこんな感じの料理、という認識で、勢いで作ってそれでよし。そういう意味では、チキンティッカの象徴、赤い色をつける食紅こそが、もっとも省いてはいけない材料かもしれません。食うほうにも勢いを与えないと、味を吟味されてしまいます。
 うっわ、なにこれ、赤っ、というのが肝要。

 調べてみると、チキンティッカ(タンドリーチキン含め)を赤く着色するのは、近ごろでは本場インドの料理店でも減少傾向にあるらしい。このあいだもインド料理屋さんでティッカを頼みましたが、ヨーグルトの白い色がそのまま見えるものだったから、日本でも赤いティッカはなくなっていっているのかも。しかし、強烈に私の脳には刻まれている、この赤いチキンのイメージはなんなのかといえば、たぶん、十代の終わり頃、この国に吹き荒れたインド映画ブームのさなかに観た映像たちのせいなんだと思う。焼かれたチキンはインドでは赤い。インドには行ったことがないけれど、たとえこれから行く機会があって、そこで赤いチキンを食べることはなかったとしても、私のなかでは、このイメージは消えることはないでしょう。

 それは、多くの自然が過酷な国々で、傷みかけた食肉を味も色もわからなくなるくらいの香辛料で調理する作法があるように、インドでは一歩進んで赤や黄色の着色料までもぶち込んだむかしの名残。いまではインドにも冷蔵庫はあるし、だったら指が染まる食紅なんて使わなくなるのは当然といえば当然のことですが。こういうのはね。歯が染まるような駄菓子を子供よりも味わって食べられる、二十世紀の生き証人である私たちの特権です。チキンを赤く染めるのは、インドでは赤い色が御祝いカラーだとかいう説もあるのだけれど、だったらあれはどうなんだと、日本人の私たちは想い出すことがある。

 タコさんウインナー。

Vienna sausage

 ジャパニメーションの台頭で、世界に知られることになった萌え女子高生キャラの特に天然系においては小さな弁当箱の中にかかせないタコさんウインナー。ソーセージの飾り切り自体は世界各国にあるのですが、あの茹でられたタコを想起させる、真っ赤な着色をほどこされたウインナーソーセージというのは、日本発祥になる独自の文化。その起源をたどると、まさに戦後、良質な肉が手に入らず、とても見られたものではないましてや口に入れるのもおぞましい傷みかけた肉を叩きつぶして詰めたのまる出しなウインナーに似たものに、肉屋が食紅を使って鮮烈な色をつけたのがはじまりなんだとか。

 ほらね。
 きっとインドでも、それは御祝いカラーなんてのはこじつけ。
 だれが好きこのんで着色された肉など食べたいものですか。
 そう想うのは、そう。
 夢を信じている国の人たちだけ。
 赤く染めた時点で、傷んだ肉なのはわかっている。
 でも、すすんで騙されて、おいしそうねと信じられる心の美徳。
 映画とプロレスが愛される国では、着色料だって愛される法則。

(インドは古来からヨガ要素の入ったインド式レスリングが各地で盛んであり、タイガー・ジェット・シンやグレート・カリといった世界に誇るプロレスラーを排出した夢追い人の国でもある。アメリカで知らぬ者はいないまでになったカリは現在、故郷インドで大規模なプロレス興業を開催するべく奮闘しているとか。インド式レスリングがあまりにも独特であるため、オリンピック・レスリングではいまだ銅メダルに甘んじているが、ヨガの国の人たちがアメリカ流の空飛ぶプロレスリングに目覚めたとき、エンターテインメントの世界では大きく勢力図が塗り替えられるに違いない)



 現在、各社から、天然由来の着色成分を使った、真っ赤なウインナーは販売継続中です。昭和の食糧難を想い出すのではなく、赤いタコさんが弁当箱にいたのを懐かしむ人たちが買うのです。だからインドでも、同じことが起きるでしょう。すべてのチキンティッカが赤くなくなり、そして幾年月。人々は、新鮮な肉を赤く染めて「なつかしいねえ、こんな時代もあったねえ」と言いながら泣いて食うときがくる。

 というわけで、先取りなのか時代遅れなのか、どちらにせよ、私は赤くて酸味のある焼き肉を死ぬまでティッカと呼び、白いのはヨーグルトBBQソースに漬け込んだほかの国の料理だと認識します。

 いや、まあ、写真のインパクトというのもありますし(笑)。
 みなさんは、気にせず食紅抜きで作ってください。
 ええ、味は変わりません。

 そうなんですよね、味つけ自由のバーべーキュー料理において、正確な区分なんて存在しない。インドや、インド料理店で食べるのならともかく、自分で作って焼くならば、それがティッカであるかどうかは、夢を見る能力があるかどうかの問題。

 江戸の町で、内田五観(うちだいつみ)が開いた数学塾を指して、記憶が定かならば三浦しをんさんだったと思うのだが「そんな塾に私も通いたいっ」と萌えていらっしゃったのを読んだ。
 Mathematics(数学)に五観は漢字で当て字をしたのだけれど、町の人々はひらがなで呼ぶその名は、

 瑪得弟加塾(まてまてかじゅく)。

 そりゃあ「まてまてか塾、行ってきまーす」なんて、どんなに楽しい塾だろうという感じがするのは理解できなくもないが、もちろんそこで教えられていたのは、当時最先端の数学という学問。
 でも思う。

「おれ、まてまてか習ってんだぜ」

 そのマテマテカがなんだかよくわからない響きだからこそ、よくわからない異国から来た学問を学ぶことが、実際に楽しくなっていたような気もするのです。

 だからやっぱり赤く染めて。
 口のまわり、ピンクに染めて。
 エキゾチックなバーベキューチキンとか呼ばないで。

 Murgh Tikka
(ムルギ・ティッカ)

 おぼえましたか?
 最後に、調理前の漬け込まれた状態がこちら。

Murghtikka2

 味よりも、こんなボールを持ってこられて、焼き網の上にひろげられ、さあ食いたまえとすすめられて目玉をぐりんと回す、愛すべき同じ食卓に座っただれかの表情を楽しんで。
 それこそが、だれかのために料理を作る醍醐味だってわかるから。 

(小説にある、レスラーのインタビューというのは、実在するインド移民の選手サンジェイ・ダット氏の発言を参考にさせていただきました。未知への恐怖心が差別の原因であり、それをエンターテインメントとして昇華させるプロレスというものに誇りを持つ彼は、半生において食うに困り飢えた時期でさえプロレス以外の仕事をいっさいしたことがないというプロ意識の持ち主です。日本マットにもたびたび参戦していますが、作中のようにハードコア戦をおこなうよりも、正統なレスリングを得意とする選手)



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Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy

9曲目『ひとくちだけカトルカール』
8曲目『春節の静かな賞品』
7曲目『ナンを焼くと両手がつかえない。』
6曲目『タマレってなに?』
5曲目『あらいぐまのすきなもの。』
4曲目『ピッツァみたいにぼくを食べてよ!!』
3曲目『クリスピー・プロ・フライドチキン』
2曲目『青くてカタいアボカドのパスタ』
1曲目『春餅/チュンピン』



 あっちでベストセラーになった『ベロシティ』も、『オッド・トーマス』のシリーズも、むろん『フランケンシュタイン』も、すっ飛ばして昨年の『ハズバンド』がやってきた。想像することは難しくない。

 そう書いた2007年。

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『ハズバンド』のこと。

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 その『ヴェロシティ』(日本語表記は「ヴェ」が採用されました)がやってきた。

2000『From the Corner of His Eye』
2001『One Door Away from Heaven』
2002『By the Light of the Moon』
2003『The Face』
2003『Odd Thomas』
2004『The Taking』
2004『Life Expectancy』
2005『Velocity』
2005『Forever Odd』
2006『The Husband』
2006『Brother Odd』
2007『The Good Guy』
2007『The Darkest Evening of the Year』
2008『Odd Hours』
2008『Your Heart Belongs to Me』
2009『Relentless』
2009『Breathless』
2010『What the Night Knows』

 例によって衰えぬ毎年刊行のなか(書く時間と、書く量を決めている小説職人クーンツにとって、それは当たり前のことなのでしょう。そのせいでクーンツ知らないヒトに勧めると「なにあのやっつけな後半!」とか怒られることもあるのですが。私にとっては、そこが好きなところ。調子が悪い日も年もあるのに、書き続けることだけはできるというのは、長期間にわたってモノを書いたことのある人ならば、それこそがいかに偉大なことかがわかるはず)、近年のクーンツは、また旧作の改稿に着手したり(生きている限り、時代にあった最新の内容に整えておくのが書いた者の義務、という思想を師はお持ちなのです。二十世紀のサスペンス作品に携帯電話とインターネット検索が入り込むと、アリバイも謎もいちから構築しなおすハメになるのは素人目にもあきらかなこと。で、直したら「名作を本人が色あせさせた」なんて言われることだってあるのも明白なことなのに。やらずにいられないクーンツ先生。変態です)、アメコミ原作を乱発したり、デジタルブック作ったり、絵本(おもに犬とサンタクロース)も出したり、テレビ化失敗したのにノベル化は続いているフランケンシュタインのシリーズも、それらのあいだにぞくぞく書いている。

 なんということでしょう。
 確かに、毎日決まった量を書くならば、文字数だけでいえば、それは不可能な数字ではないかもしれないけれど。作品のテーマも心霊から動物もの、心臓移植と、取材が必要な内容で、そこからエンターテインメントに仕立てあげる構想期間だって必要なはずなのに。書きつつ調べ考えてまた書く。それはほとんど漫画家か、ペーパーバックライターの手法です。しかし、ディーン・クーンツはそれをハードカバーの文芸書として仕立てあげ、売る。

 書ける、という自信から、おそらく版元のBantam社とは、一年に一冊は出すという契約で、そのうえで、コミックがやりたい絵本が書きたい、映画化、映画化、映画化できないなら書き下ろすからテレビでも!! ……クーンツが、望んで抱えている忙しさなのは間違いがありません。死ぬまでになにがどこまでやれるか、死神と賭けでもしたのかもしれない。

 アメリカのネットブックストアの批評を読むと、どうも、クーンツお得意のはずのサスペンスで「仕事減らしてでももっと練り込むべきなのでは?」というレビューが、近年の作には目立ちます。目立つので、本屋の側は、売り文句にこう書く。

「あのニューヨークタイムスベストセラーリスト一位の記録をもつ巨匠の新作」

 ……もちろん、ニューヨークタイムスベストセラーリスト一位のところを大文字で書く。詐欺ではありません。真実ですから。Wikipediaによれば10冊のハードカバーと14のペーパーバックでトップに立ったとか。10冊とか。もう、なんだそれって数字です。それも、毎回時刻表トリックとか、そういう作家ではない。ミクストジャンルで売りまくる。

 不評は別に師が手を抜いているわけではなくて、フランケンシュタイン以降、アニメとコミックの業界にパイプが太くなって、本人もそれがたのしくて漫画原作書いたりしているうちに、サスペンス小説をアメコミチックにチカラワザで収束させる傾向に陥っているのだ……と、最初は邪推していたのですが。

 どうもそう単純なことではないのかもしれないと『ヴェロシティ』を読みながら思ったことを書かせていただきます。

 長年のファンだから、言える。
 作品後半の、作者の葛藤がにじみ出た文章と展開こそが、ディーン・クーンツの必殺技だった。
 なんだかわからないが好もしい選手というのはいるもので、その選手が、確信犯的にその好もしさを技として演じはじめたとき、冷めるファンがいるのは事実。しかし、クーンツの場合、そこを理解したうえで、あえて近年、必殺技をより単純化して演じているのではないか? どうも、そんなことを感じるのです。いえ、それでセールスが落ちれば、それは市場原理主義者でもある彼の美意識にはそぐわないだろうから、こう言ったほうがよいのだろう。

 クーンツは、声高にならずにはいられなくなっている。

 書いているものは変わらない。
 サスペンス作品において、悩む主人公もあいかわらず。
 けれど、二十世紀とは決定的に違うことに、書いているクーンツに演技過剰なまでに迷いがない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これまでも、いつだってそうだった。これからも、いつだってそうだろう。行動するか、しないか。待つか、進むか。ドアをしめるか、あけるか。人生から退くか、それとも踏みこむか。


 ディーン・クーンツ 『ヴェロシティ』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 愛する者を守るため、正義のため。
 主人公は自分にできる限りのことをする。

 『ヴェロシティ』は、詐欺まがいの広告表記ではなく、真実ニューヨークタイムスベストセラーリスト一位を獲った作品である。ときまさに2005年。ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が逝き、マイケル・ジャクソンは裁判中、台風カトリーナがフロリダを殲滅し、ロンドン同時爆破テロでは56人が死に、ブッシュ大統領も大量破壊兵器などなかったと認めた年。

 『ヴェロシティ』の主人公ビリーは、小説が書けなくなっている小説屋で、バーテンダーとして食っている。婚約者は植物状態。新世紀のぶっちゃけたクーンツ作品群の特徴的なところとして、彼もまた、最悪な両親に育てられた。その両親は自業自得でもういないが、少年期のトラウマは、いまだ現実としてビリーをさいなんでいる。

 酒と女と暴力のブギーマンだったクーンツの父親のことを考えあわせると、小説屋としての自分を支えてくれた妻がなんらかの事故によって植物状態になり、自らを自らたらしめている小説も書けなくなるという状況は、クーンツが個人的に、もっとも恐ろしい世界を描いているのだとわかる。

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『サイレント・アイズ』の話。

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 悲惨な親子関係の果てに良き伴侶を得て小説を書くことで救われた。
 ビリーの経歴はディーン・クーンツそのひとの経歴である。
 しかし、ビリーは悪夢に棲んでいる。

 そのうえ。
 ある夜、仕事が終わってみれば、車のワイパーにメモが挟まっている。
 メモの内容を要約すると、こう。

 このメモを警察に届けて事件にしないと金髪美人の教師が死ぬ。
 このメモを警察に届けると慈善活動にいそしむばあさんが死ぬ。

 六時間で決めろ。
 どちらを選ぶかは、おまえしだい。

 このパターンは、その後数年のあいだに書かれた作品を思い起こさせる。
 日本でだけ、発売の順序が逆転したから、見えてくる。

『ハズバンド』(なんの罪もない夫がさらわれた妻を助けるために悪と対峙する) 
『善良な男』(なんの罪もない男が暗殺者と間違われて悪と対峙する)

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『善良な男を狙え!!』の話。

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 同じように『ヴェロシティ』を要約するとこうなる。

(なんの罪もない男が殺人の選択者となって悪と対峙する)

 ネタバレになるし、勘のいい人なら上巻で犯人に気づくおそれがあるので、詳しくは書かない。しかしともかく、ビリーはそのメモを起点に、何枚ものメモを突きつけられることになる。どちらを選んでも、結局はだれかが殺される。そのうえ、ビリーは選択しようにも、なんの情報も与えられていないのである。金髪美人の教師も、慈善活動に熱心なばあさんも、そこらじゅうにいるのだから。

 と、ここで考えざるをえない。
 それこそ、クーンツがこのプロットで書きたかったこと。

 選ぶから、罪悪感を持つのだ。

 逆に考えてみれば、金髪美人の教師も、慈善活動に熱心なばあさんも、ビリーの知りあいではないわけで、世の中では毎日、数え切れない人数が亡くなっている。殺人者に目をつけられて殺されるというのはありふれた死にかたではないけれど、だれも朝刊のその手の記事を読んで、悼みこそすれ、殺されてしまった今朝まで名も知らなかったどこかの女教師のために、罪悪感を抱いたりはしない。

 メモを無視すればいい。

 けれど、浅はかな私のこの考えを、クーンツは一蹴する。
 ビリーは、それでもやはり罪悪感を感じてしまう。
 「メモを警察に届けて事件にしないと」という犯人の提示に対して、はっきり答えた……選択した、ことになってしまうというのである。

 最終的に、植物状態の婚約者を殺されるに違いないとビリーは怯える。
 だから、選ぶにしろ選ばないにせよ、メモを無視はしない。
 だが、彼女はもう、死んでいるも同じ。
 ビリーのことを認識できないどころか、自分が生きていることさえわからなくなっている。
 事実、医者からは医学的に生命維持の処置を続けることに意味はないと説得までされている。
 その婚約者を守るために、悪と対峙する?

 『ヴェロシティ』は素晴らしい出来だ。
 しかし、クーンツがその後に、ほとんど焼きなおしといえるプロットで続けざまに書いたのは『ヴェロシティ』でのやるせなさを排除した物語だった。『ハズバンド』で夫が闘うのは健康的な生きている妻のためで、『善良な男』でのヒロインは、あかるく破天荒な生命力にあふれる女性である。

 この三作を年代順に並べると、顕著なことに気づく。
 主人公の側がどんどん悩まなくなり、敵は、どんどん無個性になっていく。
 このことをもとに返って考えてみれば、クーンツが『ヴェロシティ』を書いたことで、なにを悟ったかについて思いをめぐらさずにはいられない。

 そのせつなさに満ちた設定だからこそ『ヴェロシティ』は売れたのだが、作者本人は、物語が世間に及ぼした効果について、納得がいかなかったのではないだろうか。

 だれであれ悪と対峙したときは、戦う選択をすべき。

 そう強く描きながら、最初からわかっていることに、ビリーは婚約者を救ったところで、意識のある彼女を取りもどすわけではない。さらには、自分を翻弄した犯人は、ビリーには理解しがたいにせよ、犯人なりの哲学を持って事件を起こしていた。

 歴史も、関係あるだろうか。
 『ヴェロシティ』がヒットした年末には、なかった大量兵器のために戦争を起こして、そのせいで自分たちの国はドン底に落ちたと、大統領がつるし上げにされている。その次の年に『ヴェロシティ』と同種のプロットを使いながらクーンツが書いた物語は、スキーマスクをかぶってバイクで襲ってくる顔の見えない襲撃者からなんの罪もない自分の妻を救って抱きしめる……さらに次の年には、タイトルからして『The Good Guy』。主人公はレンガ職人のデカブツで、ほとんど抜けていると表現してもかまわない善良な男。

 どう見ても『ヴェロシティ』には深みが足りなかったからそれを足すために書いたということではない。むしろ、これこそが師のおこなう変態作業。生きている限り、時代にあった最新の内容に整えておくのが書いた者の義務、という信念の現れなのではないだろうか。いまや、去年の作品さえ、新たな価値観を提示する物語に書きかえる必要があるほどに、Velocity(速度)は歴史にも満ちている。
 『ヴェロシティ』を書きながら、考えたのかも。

 市場原理主義者としてのクーンツが、そう考えたのなら受け入れやすい。
 自分たちの国で失業者があふれ餓死者が出ているのに、自分たちの家族が、よその国に行って人を殺している。その状況で、あまり身内に不幸を抱えた主人公は人気が出ないだろうし、同情すべき悪役も嫌われるだろう。勧善懲悪、そうすべし。

 本を売るため、ならば、良いのだが。
 そう言いながら、クーンツというおっさんが、若いころから一貫してそういうヤツではないことを、私たちは気づいているから厄介なのである。

 これが、師が送りたい、世界へのメッセージなのだとしたら。

 考えるな、とディーン・クーンツは言っていることになる。

 この三作のあとに出た、トリクシーの本にも、書いてあった。

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『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』のこと。 

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 幸せになるには他人のために生きればいい。

 愛犬の死のあと、売るために書いたことだとは思えない。クーンツは、心底、それを信じていて、もっと単純化しなければ伝わらないと『ヴェロシティ』で感じたのではないだろうか。植物状態の妻を救うために命を投げ出すべきか、見ず知らずのだれかが殺されるのを防ぐためにカフェインの錠剤を噛みくだきながら悪と戦うべきか。そういうことが言いたかったのではなくて。
 単純に、それだけを。

 悪はある。
 それを見過ごすことも、悪。

 他人のためうんぬんではない。そこに悪があるのだから、人として戦うのは当たり前であって、それは、その行動によって自分がなにを手に入れられるかと天秤にかけるものではない。

 『ヴェロシティ』は売れた。だから、いまでも世界中の個人サイトをサーフィンしてみれば、わかる。私にわかるくらいだから、クーンツはもっとわかっているだろう。多くの人が、何枚ものメモに書かれた文章を引用し、こう問うている。

 おれなら見ず知らずでも金髪美人教師を救うね。

 ……そこは、まったく、クーンツの議論して欲しいところではないはずだ。死を待つばかりの意識のない彼女のために戦うかどうかということも、そう。犯人に、犯人なりの動機があり、そこに理解できるものはないか、という問いも、そう。
 違う。
 そこじゃない。

 犯人が何者であれ、悪であれば戦わなければならない。
 だからこそ、クーンツはビリーという作者を投影した主人公を設定した。悲惨な男だが、悪ではない。そのビリーが、悩んだ果てに悪を討つのは、殺人ではなく、正義である。

 けれど『ヴェロシティ』の大ヒットでクーンツは、別バージョンも書いておくべきだと考えなおす。

 単純に妻を救いに行くと考えてくれ。
 犯人は最後まで顔もわからない、ただの悪。

 きみが善良な人間だということはわかっている。
 だが、あきらかな悪が目の前にいて、きみの手には拳銃が。

 さあ。正義について考えてみろ。
 自分たちのおこないに、誇りをもて。

 ディーン・クーンツは、政治的な発言をしない。だから、これらは、私の勝手な憶測である。だが、時代の娯楽小説が後の世で文学と呼ばれるのだという信念を持つ師であれば、ただの賑やかしに殺人を描いているとは考えにくい。書けない小説家であれ、夫であれ、善良な男であれ、そうあるべきなのだと、伝えている。他人のために命まで投げ出す行為を、正義のためにおこなえ、と。いまの時代に、叫んでいる気がしてならない。

 そのことが、クーンツのサスペンスを変えた可能性は、ある。
 『ヴェロシティ』は『オッド・トーマス』シリーズと並行して書かれている。

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『オッド・トーマスの霊感』の話。

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 私は書いた。

「二十一世紀になってからのクーンツもそうだ。
 ほかの作品では、まぎれもなくそうである。
 しかし、オッド・トーマスだけは違う。
 彼は最後の最後まで、いつでもやめられる。

 死者が見える。
 彼らの望みはわからない。
 死の予兆ボダッハが見える。
 見えるが、それが誘うのは他人の死なのである。
 むしろ、ボダッハを見たら、その場から逃げるのが正しい。
 でも、彼は。」

 書いたけれど『ヴェロシティ』と、その後のクーンツのなかに、疑念が生まれているのを、私は見逃していたのではないか。正義と悪。その図式を、新世紀が十年も経ったころから、過剰に単純化して見せようとする彼の姿は、まだ伝わらないのか、これでもかと叫んでいるように見える。

 私がオッド・トーマスなら、可愛い恋人をつれて逃げる。
 私がビリーなら、むしろ良いきっかけだと婚約者を安楽死させる。
 私が夫なら、愛する妻を救いに行かず逃げるかも。
 私は、善良な男だと、自分のことを言いきれない。

 いや、むしろ自分のことを悪ではないかとさえ思う瞬間がある。

 現代の、多くの読者が、クーンツの新作を読んで、主人公のあまりの善良で不屈な悪との戦いっぷりに、まったく自分を投影できなくなっている。
 正直、もうよその国のことなんてどうでもいいから、私が幸せで豊かに暮らせればいいの。
 よその国どころか、友人が飢えて死んでも私は私のパンを守るためになら戦えるかも。
 
 だからクーンツは、もっと声高に叫ぶ。

 で、近ごろのクーンツには感情移入できないと、酷評が並んでいるわけではないのかと、信者のひとりとして私も叫ぶのであった。

 ディーン・クーンツは、幸せを描く小説屋だ。
 絶対のハッピー・エンドが、約束されている。

 『オッド・トーマスの霊感』も。
 『ヴェロシティ』も。
 これがハッピー・エンドなのです。
 やることをやった。
 正義をなした。
 それで足りないのなら、そう感じる私が悪。

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 これ以上ないほど細く薄青い銀色の月は見あたらない。それはきっと、ビリーの背後にあったのだろう。

VELOCITYVELOCITY

 ディーン・クーンツ 『ヴェロシティ』

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 どんなに細くなっても、見えなくても。
 月が消失することはない。
 信じているかぎりは。

 そのことを、信じるどころか、疑うことさえ、すべきではない。
 考えるひまもない、こんなVelocityの時代だからこそ。
 屈するな、と。