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かりにきみが今どこだか知らない場所にいるとする。するときみが本当に知らないのはほかの場所がどこにあるかってことだ。あるいはそれがどれくらいの距離にあるかってこと。だからといってきみが今いる場所について何かが変わるわけじゃないけどね。

No Country for Old Men

コーマック・マッカーシー 『血と暴力の国』

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 その小説は、言わずと知れた2008年アカデミー賞四部門独占作『ノーカントリー』の原作で、日本では映画のタイトルは縮められ、小説のタイトルは意訳されているので別物になっているが、どちらも原題は、

『No Country for Old Men』

No Country

 老人のための国はない。
 美しい想い出を語りたい人のための清廉な国など、ない。

 映画では、おかっぱのハビエル・バルデムの独自ルールで動く怖すぎる殺人者の演技が全体を引っぱっていて、保安官役のトミー・リー・ジョーンズが語ってはいるものの、それが記憶に残る構成ではない。だが、タイトルのような想いを抱くのは、事件が終わって引退を決意したその保安官。そこかしこで人が死に、緑色の髪をした若者が街を歩くようになったら、もう世界は後戻りできない。

 コーマック・マッカーシーは、引用符(もとの英語では“”日本語だとカギ括弧「」←これ)を使用しない小説屋で、そう聞くと「セリフがないの?」と思ってしまうかも知れない。でもそうじゃない。そう思うのはあなたがそういう小説を読んだことがないだけであって、読んでみればわかる。そもそも日常会話にカギ括弧なんてついていないのだから、小説だって、そんなものなくたって誰が話しているかわからなくなるようなことはない(少なくとも、マッカーシーの場合は間違いなく、ない。ちゃんとキャラを立てられない人が書けば読みにくいのかもしれないので自覚のある人は真似しない掟)。それどころか、血みどろのアクションものであってさえ、すべてが淡々とひとつの風景のように進み、終わる。

 いや、終わらない、のか。
 世界も、人生も、そういうものだと、読んで、ため息が出る。
 そこのところの雰囲気は、さすがのコーエン兄弟(前にも書いた気がするが、何度でも書く。好きな映画の話になると私は『バートン・フィンク』を推すコーエン兄弟好きである。『ノーカントリー』がオスカー獲ったときには興奮しきりだったが、いま読みかえしたらそのときのブログは恥ずかしくて読めたものではなかったのでリンクは貼らない)。サスペンス・アクション超大作でありつつ、音楽を極力ひかえめにし、ほとんど無音のシーンが連続する。そこに銃声。観終わったあとも、時間の流れが妙な感じにスローモーションがかかったような、あの感覚。このまったりしたアクションものがアカデミー? と言った人もいたけれど、私は、そのコーエン兄弟らしい強気な作風が、素晴らしいものだと拍手されたことに、老人が語るべき二十一世紀の映画の国も、まだあるなと感じた。

 ところで、そこにも関係してくるが、原作に惚れて、その雰囲気を忠実に映像化した監督だからこそ、映画のキャストで、あきらかに原作と違って、観た瞬間に「え?」となった、あの部分は、計算づくであったのだ。

 ヤバい金を拾って、妻を実家に帰し、単身で追っ手から逃げる男。
 この話の主人公、モスを演じたのはジョシュ・ブローリン。
 ギラついた目のイイ男ではあるのだけれど、どうも原作を読んでから観ると、イメージが違う。小説にその描写があったかどうか憶えていないが、私の頭のなかでは、モスにヒゲはなかった。シャツも違う。なんだか髪もボサボサだし。私のなかで彼は、トレーラーハウスで暮らしながらも、ブーツにはこだわりを持ち、小綺麗で身だしなみ行き届いた男であったはずなのだが。

 妻が出てくる。
 金を拾ったので危険だから俺と離れていろと言い渡される可愛そうな妻だ。しどけない仕草で、ホットパンツで、彼女の身だしなみは崩れ具合をふくめ、私のなかで違和感はない……だが、あれ?
 19歳?

 彼女は16歳で高校を辞め、スーパーマーケットでバイトすることにした。

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で初めて出勤する日の前に夢を見たの。ていうか夢みたいなものを。あれは半分、起きてたんだと思うのよね。それでその夢だかなんだかわからないものの中であそこに行けば彼に会えるとわかったの。ウォルマートへ行けば会えるって。彼といっても誰だかわからないし名前も顔もわからない。でも見ればすぐわかるはずだった。


コーマック・マッカーシー 『血と暴力の国』

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 で、客のモスと一目惚れ同士で結婚して三年目。

 演じているのはケリー・マクドナルド。
 96年の『トレイン・スポッティング』で、まさにそういうお年頃の気だるくセクシーな少女を演じていたので、その十年後の『ノーカントリー』撮影時には三十路入りしていたはず。いや、それでもぜんぜん、すべすべの脚と、よく動く首と、挙動不審な目の動きが、やさぐれた少女の感じを出している。でも、保安官にはもっとずっと若く見える19歳、という設定で観るには無理がある。
 というか。

 脚本を書いたコーエン兄弟は、その設定を省くことに決めたのだ。

 モスは、けっきょく死ぬが、その直前にヒッチハイクの家出少女と出逢う。15歳の彼女に運転を任せ、モーテルに泊まって、少女を諭す。冒頭引用は、その一部。家出を止めているわけではない。どこか知らない場所で新しい自分になって生きるんだという少女に、金さえわたして、気をつけることが大事だという。

 きみは自分がどこにいるか知らない。
 どこかに行きたいなら、そっと動け。
 痕跡を残さず、ぱっと現れたみたいに。
 もうヒッチハイクはするな。
 金をやるからバスに乗れ。

 36歳なの?
 そんなオジサンと思わなかった。

 そう言いながらモスを誘うが、彼は毅然と言い放つ。

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ダーリンきみはちょっと遅すぎたよ。もう買い物はすませたんだ。今のものを手放さないことにするよ。


コーマック・マッカーシー 『血と暴力の国』

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 でももちろん、15歳の家出少女といっしょにモーテルで殺されたと保安官から伝えられ、16歳で彼と出逢った妻に、彼が実際にそういう態度をとったのだと信じるべき、というのは酷である。まあ、実際そこでなにがあったかなかったかは別段大事なことではなく、出逢いとはそういうものであり、出逢うのが、コインの裏表で殺すか殺さないかを決める殺人者か、手放したくない買い物であるかは選べるものではない、というところこそ、原作の深い味わいだった。

 映画では、その部分がばっさり切られている。
 モスと妻の年齢を上げたのも、逆に、そのくだりが印象的であるがゆえに、観客の脳に必要以上に残さないことを配慮してのことではないかと思われる。十代の少女にまっすぐ話し、貞節を誓い、彼女たちから「見ればわかる」と一目惚れされる36歳の男には見えないように、映画のモスは私のイメージとは違う、やさぐれた雰囲気をかもしだしているのである。

 私は、コーエン兄弟の『ノーカントリー』が好き。
 ただし、モスに関して。
 原作の彼が忘れられない。

 きみがどこへ行くべきかなんてどうしておれにわかるんだ?

 自分のほうこそ、すませた買い物を置き去りにして、安モーテルで殺されるのを待っている。
 けれど、モスは。
 なぜ金を持って逃げようなどと思ったのか、とは悩まない。
 逃げると決めたからには、逃げられるところまで逃げる。
 迷いはない。
 ちょっとでも迷えば、いくらでも生き延びる道はあったのに。
 あったのに、とも考えない。

 前回、『レスラー』について話していても、そういうことを考えた。

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映画『レスラー』の話。

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 選択なんて、けっきょく、あるんだろうか。
 その人にとって、選択すべき状況にたどりついてしまったときには、いつだってそれはすでに決定事項ではないのか。

 モスの妻は、なんど人生を送っても、16歳でウォルマートを歩くモスのような男に一目惚れするはずだ。その先、トレーラーハウスで金を拾ってひどい目に遭うか、子供でも生まれて、トレーラーハウスさえ売り払う身になってまたウォルマートで働くことになるのかはわからないが、それのどこかで、なにかを選ぶことなんてできるのか。ヒッチハイクで、拾ってくれたオッサンと添い遂げたら、かつて15歳で家出した彼女にとって美しい国の想い出は、よくぞ家出して知らない男の車に乗ったわ自分、ということになる。それを、選択と呼べるだろうか。

 コインを投げる。
 裏が出たら殺される。
 表が出たら恋される?

 かなりうなずける真実に近いゲームだから、笑えない。

 出逢い、ということに特化して考えよう。
 小売り業をしていて痛感することがある。
 お客さまと、商品を出逢わせること。

 ぜったい売れないと確信できるものでも倉庫に眠らせない。
 売り場に出せばぜったい売れる。
 趣味の悪い人というのはいるものだから。

 数年前の型で、箱は汚れて破れていて、でもそれが。

「え、あれまだ値下げしていなかったのに。あの値段で売れたの?」

 きっと、出逢ってしまったのです。
 おしあわせに。

 『ノーカントリー』とは逆の例を、いま観た。
 いつものことなんですが、録りためていたドラマを、遅ればせながら。

『美丘』

 原作がコンパクトな小説なのを、連続ドラマにした時点で別物にならざるをえないのだけれども、それによって恋人同士の周囲……家族やら、友人やら……を描き込んだ結果、恋人を失った主人公が、まっすぐに陽の当たる道を歩いていく、というラストが涙を誘うという。なるほど、主人公に親近感がわいちゃったから、観客も、原作通りの展開だと納得いかないことになったのは自明の理。

 なにより吉高由里子嬢が。
 『蛇にピアス』に見えなくなりました。

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『般若心経というタトゥ』の話。 

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 いま彼女、某シャンプーのキャンペーンガールになっていて、大きな販促看板が店にも飾ってある。毎日、それを見るたびに「美丘だ」と思うようになりました。あそこまでがっつりとヒロイン重視の物語でありつつ、最期は動けなくなって逝く役なので、それなりの哲学を持って演じてくれないと失笑モノになってしまうところを、彼女はちゃんと引き込んでくれた。原作のように、蹴りで他人の歯をぜんぶ折ったりはしない、おしとやかな美丘だった。でもだからこそ、吉高由里子本人に重なる部分が多かったのか、「美人じゃないけど魅力満載」な美丘というキャラを、美丘のままで自分寄りにシフトさせるという、絶妙なさじ加減でした。個性的なキャラに飲まれちゃう俳優は多いし、逆に自分の個性でまったくの別キャラにしてしまう人も多いなか、彼女は、これまでのところ、脚本上のキャラクターと女優としての自分のキャラクターをどちらも殺さないラインで折り合いがつけられるという、良い役者っぷりを私に見せてくれています。
 こういう演者、好き。

 家族も、友だちも、関係ない。
 熱く生きて死ぬ。
 お互いのカラダのぜんぶを舐め合って、つながりあって、ほかのなんにも見えなくなってしまえば、ほかに欲しいものなんてない。
 買い物はもうすんだのだから。
 しゃぶりつくすだけ。

 そういった原作と、そうじゃないドラマ版。
 それぞれに、そうでしかありえないヒロイン像とラストシーン。
 で、私は、そこでも『血と暴力の国』の映画化を想い出していた。

 映画のモスは、誤解もされない健全な逃げっぷりで死ぬし。
 ドラマの太一は、胸に美丘の頭文字と誕生日のタトゥを入れた赤い髪の男じゃない。

 原作の小説と、まるで違う。

 どうにも客層がひろがったところを狙った改編で、まいど、まっすぐすぎるから好きだった主人公が、必要以上になにも選ばない男に描き換えられている、というのが気になる。

 15歳の少女に一目惚れされるオッサンと、明日にも死のうかという自暴自棄の少女に一目惚れされる同級生には、共通項がある。 

 基本、なにも考えていない。
 考えていないから、ガキ相手でも真剣に語ってしまうし、逃げる理由は考えないし、屋上のフェンスは乗り越えるし、髪でも赤くしたらと言われたら赤くする。

 なにも考えていないからこそ、すでに一人目を選んだのに二人目を選ぶ気はないし、彼女が死んだらすべてを失ってしまうことも気にしない。逃げると決めたから逃げている途中で、愛すると決めたから愛しているさいちゅうなのである。

 死んでもリングに上がると決めたレスラーみたいに。
 だれかを愛するのも。
 選ぶ、と表現すべきものでは、ない気がする。

 私自身、なにかを選んだことがないわけはないのだが、振り返って、なにかを選んだ気はしない。生きるってそういうことか。けっこうなりゆきだ。逆に言えば、仕事とか趣味とか、愛とか恋とか、友人も肉体関係も、ぜったいに置きかえられないものだ、という感じもしない。と書くと、ひどいことを書いているように読めてしまうが、そう実感する。

 その日、コインのどちらかの面が出た。
 それで手に入れたものと、うしなったもの。
 コインには表と裏しかない。
 作為もない。出たから、出た。
 それだけのことだとしたら。

 美丘が言う。
 生脚は、見せたくないから見せないというならいいけれど、見せられないから見せないというのはダメ。

 プロレスファンが嫌うことのひとつ。
 Tシャツ着て戦うの。
 本人に、鍛えるの怠けているって意識があって、それが透けて見えるのなんてのは最悪。こっちはそんなのわかってんだよ、と。いいから脱げ、と。そうして醜いカラダをさらけ出して戦うD級プロレスラーには、それなりにファンがつく。いっそブヨブヨのカラダでふんどし一丁で血まみれになってみたら、後楽園ホールも埋まってしまったというレスラーも最近いた。

 いつ、どのタイミングで好きになったのかまったく記憶にないので、選んだはずはないが、いまの私はプロレスという競技のファンです。しあわせ。それでいい。さっきも食堂で「ヨシノギさんて、どこのチームのファンですか?」と訊かれたが、野球を好きだったら、えー観ないんですかー、とか言われなくてすんだのかな、などと考えても仕方ない。

 選択などという個人の意志は、出逢わないときにしか機能しない。
 出逢いとは、すでに結果。

 露出は重要だと思う。
 熱く語らないと、熱く語るやつが好きな人に惚れてもらえない。
 物静かな自分を露出するには、キャラ付けが必要だ。
 生脚が好きな男子は多い。いや、生肌全般、男女問わず有効。
 プロレスにやってきた横綱・曙が、肌を隠すようなコスチュームを着ているが、あれは肩紐がないとズレて股間が剥き出しになるからである。あの体型ではボクサーショーツは無理だ。でも、あそこまで目立つ巨躯になると、曙好きはほぼ開拓されつくしているだろうから許される布地なのである。

 ウォルマートで、レジのコと目があって恋に落ちることなんてあるだろうか。
 ということを考えるとき、私は実証で知っていることがある。
 大型店の店員は、日々、数千人と出逢う。私が今日会話したのも、一時間に10人はないが、5人ということもなく、平均して一日たぶん50人前後。壁に穴空けちゃった人から、コウモリに困っている人まで。一日50人とすると、一ヶ月では1000人を越える計算になるが、年に一万人以上と出逢いながら、私はお客さまに恋したこともなければ、恋心を告白されたこともない。憎まれたことは多々あるかもしれないが、こっちが憎んだことはない。そういうこと。

 選択はない。
 しかし、意識の土台は必要なのである。
 
「あそこに行けば彼に会えるとわかったの」

 わかっていたから、出逢ったのであって、出逢ったから向けた視線は、レジっ娘がオッサン客に向けたものではなかっただろうがために、向こうもその気になった。そういうのを一目惚れ同士というのかといえば、それこそをそういうのだ。

 店員を口説くつもりで店に来る客が増えれば、そこで生まれる出逢いも確実に増えるはずである。それが良いことかどうかは別にして、近所の本屋で、くじけずにアピールを繰り返している彼を、私は好もしく眺めている。

 すべてを見せるからファンになれ、という意志を、レスラーは忘れるべきではない。
 闘うとは、そういうこと。

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 夏が終われば、秋がくる。
 それは単純な事実かもしれない。だが、熱帯のような夏の日ざしに打たれている最中、誰がこの夏がすぎ、つぎの季節がやってくることを信じられるだろうか。今の、この瞬間は永遠に続く。乱れた胸の鼓動も、伸ばした指先も、大切な人がむけてくれるやわらかな笑顔も、明日だってきっと続くのだ。ぼくたちは周囲にあるすべてが変わらないままだと仮定して、なんとか不確かな命を今日につなぎとめている。

mika

 石田衣良 『美丘』

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 夏が終わった。
 今年は特に信じられなかったが、終わってしまった。
 嘘みたいだ。
 寒くなって、また暑くなる。
 ミサイルでも降ってこないかぎり。
 
 しかしまあ、どこかの国のミサイルが発射されたり、宇宙人が攻めてきたりするよりは、個人的になにかを失うことのほうが可能性は高いだろう。それは自分自身かも知れないし、愛するなにかかも知れないし。失うのが「出逢う可能性」だとしたら、私は失ったことにさえ気付かないかも知れない。
 怖い。

 赤、もしくは、緑の髪の毛にするとか。
 ヒゲを剃るとか。
 いいブーツを履くとか。
 なんでもいいから、つぶやく?
 ヘアピンを十字につけてみる。
 はじめまして、と言ってみる。
 どのチームが好きですか?
 ブレーンバスターに興味はありますか?
 私はあります。

 買ったものは、なくさないように。
 手に入れたものは、愛でるように。

 前回から連鎖で語った作品群で、私は私の傾向を知る。
 選べないで愛し続けて破滅するやつらが、愛おしい。

 そうありたいものです。
 耽溺して人生を忘れることこそ人生。
 破滅はしたくないが。
 時間が限られているのは全員に平等。
 いま出逢えるかも、とりあえず脱ぐか。
 外を、走りまわってみようか。
 でも雨だ。私はかまわないが見てくれる人がいない。
 明日が来る前提でやってちゃこぼれ落ちるに違いない。
 とりあえず、書こうか。
 あのひとに向けて、あのひとに向けて。
 届けないと、届かないことだけは絶対。

 大衆映像化には向かない指向らしいですけれども。
 考えないこと。
 決めたら選ばないこと。
 心がけたい。


 映画『エクスペンダブルズ』の宣伝で来日していた、シルヴェスター・スタローンをテレビのなかに見て、つぶやいた。

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だれかひとり持って帰っていいならねえ…オースチンとミッキー・ロークで悩む。リーを水槽で愛でるのも捨てがたい。

Sep 26th

twitter / Yoshinogi

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 でもやっぱりミッキー・ロークかなあ。
 この並びだと、どうにも色物キャラに見えてしまうし、実際にそうなんだろうけれど、そうであるがゆえに、映画『レスラー』のスペシャル・エディション・ディスクに収録されている特典インタビューで、はにかみながら言った顔が思い出されて。

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俺は14年間 干されていた
数年前に 俳優業に復帰したが
1日や2週間の仕事ばかり
俺は態度が悪かったから
それは自業自得だった
R・ロドリゲスが数日仕事をくれた
T・スコットやスタローンも拾ってくれた
S・ペンの「プレッジ」はいい役だったが一日だ


『レスラー』インタビュー

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 ここで言っている「スタローンが拾ってくれた」作品というのは、2000年の『追撃者』のことだと思われる。スタローン監督作ではないが、スタローン好きのあいだでは評価の高い一作(私も、ミレニアム前後の渋めなスタローン作がむしろ若いころの作品よりも好き)。

 ミッキー・ロークは『エクスペンダブルズ』に出演を決めたことについて、あの一件の恩返しだと公言している。14年間干されていた自業自得な男の口から出るとは思えない上から目線なセリフだが、アーティスト同士の口撃あいというものは得てしてそういうもので、尊敬する相手の作品だからこそ断固として消費者として上から見る、と心がけることは大事。まあがんばりたまえよキミ、というスタンスを崩したとき、馴れ合いがはじまるのである。

 とはいえ、ミッキー・ロークがコンスタントに作品を発表し続ける大物シルヴェスター・スタローンにビデオを借りて観た兄ちゃんのような口がきけるのは、『レスラー』の成功があったからである。『レスラー』はプロレスの映画。私はプロレスファンだが、格闘技やボクシングも好きで、スタローンの『ロッキー』シリーズも、ご多聞にもれず好きだった。

 ええ、好きだった。いまでも、好きでは、ある。
 しかし、私はやっぱりプロレスラブなのです。
 『レスラー』は『ロッキー』以上に、胸にきた。

 その映画を他人に勧めていなかったと、いまさらに思い出したので、書く。
 きっと地上波では永遠に放送されないし、なんらかの形で万人が目にできる機会があったとして、タイトルもシンプルなので、興味のない人はスルーしてしまうでしょう。
 もったいない。

 続編も、たぶんない。
 だからこれ一本。
 観て。

 勧め忘れていた、というよりも、プロレス好きのあいだではもはや観るしかないと公開前から話題になっていて、公開後は元岩手県議会議員現みちのくプロレス社長ザ・グレート・サスケがコスプレして試合にのぞむほど、プロレスを生業とする人の心にまで染みわたり、別に勧めなくたって、それはいったいどういう物語なのと、まわりのみんなが興味を持っていたため、観ているのが当たり前だと思っていたのだけれども。

 とある機会に、映画の話をしていて。
 『レスラー』のことをつぶやいたら、きょとんとした顔をされた。
 それが、ひとりやふたりではないのである。
 ベネチア国際映画祭金獅子賞ですよ?
 アカデミー主演男優賞ノミネート作品ですよ?
 なにより、ミッキー・ロークがポニーテールでやってきて、プロボクサーとして試合した、あの必殺「猫パンチ」の国ニッポンの民として、その彼の華々しい復帰作を観ないってなんなのさ。

 と、いきどおると、ああそういえばミッキー・ロークという名前には聞きおぼえのあるような……という程度。義妹と友人ツキシマユニにいたっては、いくら語ってもピンと来さえもしませんでした。ジョニー・ハンサムだよっ、ハーレーダビッドソン&マルボロマンだよ?

 ちなみに、その二人も『ロッキー』シリーズの何本かは観ていた。

 ここである。
 ボクサーとプロレスラーの違い?
 いや、観客側の愛でる部分の違いとでも言おうか。

 『レスラー』が公開された2008年。
 アメリカの映画サイトでおこなわれた、

「Sexiest Movie Couples of All Time
(すべての映画でもっともセクシーなカップル)」

 という投票において、ミッキー・ロークとキム・ベイシンガーの『ナイン・ハーフ』カップルが優勝した。

 すべての映画、である。
 十年前のアンケートではない。
 つまるところ、ミッキー・ロークとは、いまだ生きるセックス・シンボル男優なのである。『レスラー』公開当時、私は日本のテレビ画面で世界最大のプロレス団体WWEにミッキー・ロークがやってきて、現役の人気レスラーにパンチを見舞うのを観た。巨大な会場を埋めた観客の、だれひとりミッキー・ロークを知らない者はいない。

 セクシー・ボーイではない。
 史上最高にセクシーなカップルの男役でも、たぶんない。
 整形手術で悪い医者に遭ったと本人も言っている。
 ムダにぶよぶよと増えていた体重は、映画のために本当にがんばったらしく、がっちりとしたデカいおっさんに変わっているが、彼のポニーテールを「可愛い」と評する人はもういないだろう。

(あのときは、どうしてロークは妙な髪型に帽子なんていでたちでWWEにやって来たんだろう、私の知らないなにかのコスプレ? と首をひねったが、いま観れば『エクスペンダブルズ』の撮影が始まっていたんですね。自分自身のコスプレだったんだ)

 プロボクサーである自分を誇りに思う気持ちが、いつだってリングに上がるミッキー・ロークを、一種の自己愛過剰なピエロに見せてしまう。
 
 スマートに歳をとったとは、いえない。
 ミッキー・ローク? そークール。
 そんなふうには、とても口笛は吹けない。

 しかし、それにしても。
 まさにそれは年齢の限界を迎えようとしているプロレスラーそのものに見える。

 ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソン。

 『レスラー』で、ミッキーロークの演じた男の名である。
 しかし、彼自身が言うように「監督が俺を起用した理由」は見事に的を射て『レスラー』はミッキー・ローク自身のドキュメンタリーにも見えてしまう。だからこそ彼はこの役に巡りあい、この役で再起を果たしたのだ。

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ドラマチックな映画やラブストーリーとかSFがよかったんだ
元プロボクサーの俺はプロレスを見下していた
展開が決まっているヤラセのスポーツを認めてなかったんだ
だから「プロレスかよ」と思った


『レスラー』インタビュー

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 13キロほどの筋肉をつけ、103キロまで体重を上げたというミッキー・ロークは、完全にヘビー級のプロレスラーの見た目になった。しかし、どんなにカラダがデカくなったところで、彼はプロレスラーではない。では、プロレスラーをプロレスラーたらしめているものはなんなのか。

 観客である。

 そう言うヒトがいる。
 逆説的には、ロークほど鍛えなくたって、観客の前でプロレスをすればプロレスラーになれるということでもある。伝説の人、ジャイアント馬場御大は言った。

「プロレスのリングでおこなわれることは、すべてプロレスである」

 しかし、いまや日本では本物のプロレス団体が、商店街であり、銭湯や、工場、キャンプ場であり、インターネットのなかでだけしか試合をしないといったスタイルまで打ちだしている。観客がいない団体なんて、珍しくもなんともない。興業さえおこなっていないプロレス団体もある。

 私はかつて美大生だった。
 ファインアートな学科で絵を描いていた。
 通っていたのは新設校で、教授は、六十過ぎまで妻の稼ぎで放浪の画家だったが人生ではじめて給料のもらえる職業人になった、というようなヒトばかり。もちろん美術界的には偉大な人たちで、つまるところ、大学教授になるような作家でも、日本では商業的に成功したりはせず、たいていは金にならない絵を描き続け、たまに賞なんかもらって小金が入っても、それで生活が変わるわけでもなく、また描き続けるという。

 うっかり先生になってしまった彼らは、同じことを言った。
 特に絵画科のきみたちには、これだけは心に刻んで卒業して欲しい。
 
「描き続ける限り作家」

 漫画家みたいに原稿料が入るわけではないので、たまに絵が売れたら税務署に行く。職業はなんですかと訊かれて、画家だと答える。売れているのですかと訊かれたら、まったくですと答えるが、自分が画家以外の何者でもないことを自分は知っている。

 だから、やめるのも自分。

 ミッキー・ロークも言う。

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俺はわずかなキャリアを自分でぶち壊した
俺は“過去の人物”になり
14年間は誰でもなかった 


『レスラー』インタビュー

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 14年間ものあいだ誰でもなくたって、アンケートで人々はセクシー俳優としてミッキー・ロークの名をあげる。彼自身が「俺は役者だ」と言い続ける限り、彼は役者だったはずだ。彼のセラピストは絶望的だと言ったらしいが、映画のインタビューの数十分の会話のなかで「元プロボクサーの俺は」というフレーズを数回出してくるのは、過去の人物としてさえ憶えてんのかよキミたち、という不安がいまだに拭い切れていない証拠のようにも見てとれる。その一方で、キュートなハンサムボーイだったむかしの自分には絶対に戻りたくないとも言う。シワの浮いた手に滲んだタトゥ。家族を失い、飼いはじめた犬だけが年老いた男の愛の対象だという。

 それとも、それはセラピーの成果なのだろうか。

 すべてを失ったと感じている者に、セラピストが言う。

「なにかあるはずよ、あなたをあなた、たらしめているもの」
「おれは……」
「ええ。あなたは?」
「プロテストに受かったんだ。ボクシングの」
「すごい。プロボクサーなのね?」
「ああ、年齢制限で、元ボクサーだけど」
「それでも、あなたはボクサーなのよ!」

 というやりとりが、ふたたび主役を演じ、金獅子賞を獲っても、まだ頭のなかでこびりついて離れないのかも知れない。『レスラー』は、当初、ニコラス・ケイジ主演で話が進められていたが、監督がミッキー・ロークで絶対と推しきったという。予算は削られ、街のカフェで、監督はロークの前に自転車で登場し、まっさきに言った。

「勝手なふるまいをしないで欲しい」

 監督の言うことを聞き、監督のことを他人の前で侮辱せず、役者としてお行儀よくしていなければギャラは払えない。
 14年の何者でもない空白の時間のあと、そこで役者は、役者にもどる。

 おれにそんなことを言った奴はいなかった、おれが求めていたのはこういうヤツだ。
 と、ロークは思ったという。
 キレもせず、出演を決めた。
 バカにしていたプロレスの映画に肉体改造して。
 14年間でついた自制心だろう。
 干されるのも悪いことばかりではない。
 アーティストたちは、そういう期間のことを修行期間と呼ぶ。
 自堕落に落ちぶれていたのだとしても、修行は修行。
 ぶざまになっていく自分自身に耐えるというのは、なかなか苦行だ。

 こういう、谷があって山があることを、
 神さまの思し召し、と好意的にとらえる向きもある。
 この映画に関しては、世界中のプロレスファンが神様の存在を信じたといって過言ではない。

 ダーレン・アロノフスキーという監督の才能が、落ちぶれていたミッキー・ロークという個性を配給会社とケンカしてまで拾いあげ、その結果削られた予算によって、プロレス映画なのに、リングがある会場のセットさえ組めなくなった。スポ根もので、街の風景がいくら薄汚れていてもそれはいいが、そのぶん、リング上は光り輝いていなければ、お話にならない。

 そうして、監督は決断した。
 ロークの肉体もムキっとしてきたことだし。
 本物のプロレス団体に、ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンをあげて、それを撮ればいいと思いついたのである。ゲリラ撮影というのはよくあるが、ことはどこかの刑務所の出所門の前でこっそり撮る、などという程度の問題ではない。こっそり本物のプロレスのリングの上で試合のシーンを撮ることなど、不可能だ。

 しかし、アメリカで勢力を拡大しつつ、金もないのに日本で興業を開いたことさえあるプロレス団体ROHの露出できるならなんでもやる精神から発せられた返答は、まさしく監督に対してロークが感じたのと同じ印象であった。

 いままでそんなことを言ってきた奴はいない。
 じゃあやろう。

 三沢光晴が逝ったとき、プロレスリングNOAHと交流の深いROHは、レスラー全員で追悼の10カウントゴングに目を閉じてくれた。ファンもみんな哀しんでくれた。NOAHと三沢のおかげでやってこられているといっていい、私にとって、ROHの全員が心からのブラザーだ。

 普通に試合をする。
 会場があたたまり、ファンが箸が転がっただけでも歓声をあげる状態になっている。

 そこに、ミッキー・ロークを……
 いや。
 ランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンを登場させる。

 だれもやったことがなかった。
 しかし、考えてみれば、これ以上、入場シーンを盛り上げられるエキストラはいない。なにせ、客も本物なのである。この映画のプロレス・シーンで、ミッキー・ローク以外は、全員本物だ。レスラーも、観客も。控え室の選手たちも、本当にその日、試合をやった選手たちである。そしてもちろん、むっきむきのミッキーになったランディ・ロビンソンの、対戦相手も。

 ネクロ・ブッチャー。

 日本でもインディープロレス好きなら知らないヒトはいないほどしょっちゅう日本に来ているし、つい先日は、あのアントニオ猪木の団体でミノワマンと試合するという出世ぶりだった。噂だが、実に信憑性のあることに『レスラー』でミッキー・ロークと対戦したことによって、ネクロ・ブッチャーのギャラはこの一年あまりで高騰しているらしく、もともと日本でも大人気の選手なのに、インディーに気軽に上がる身分ではなくなっってしまったのだとしたら、それがこの映画の唯一の罪である。安っぽく自分のカラダを傷つける損得抜きにした戦いっぷりこそが、ハードコアと呼ばれるインディプロレスの醍醐味なのだが。

 ネクロ・ブッチャーが、ランディに提案する。

「ステープルなんかどうかな?」
「というと?」
「ステープルガンだ」

 試合前の打ち合わせはそれだけ。
 ちなみに日曜大工をしない人には馴染みがないかもしれないが、ステープルガンとは、椅子の張り替えやポスター貼りに大活躍の、ホチキスの大型製品。

garlic  

(まったくの余談ですが、日曜大工、という呼び方は、日曜日だけ大工さんになる会社勤めの人を指す言葉だけれど、日曜出勤が当たり前で日曜こそ忙しい本職の大工さんたちと働く私には違和感がある。日曜日に休みの人たちは、日曜日に自宅の工事がしてもらえず、あらゆるお店が閉まっていたら不便だろう。すなわち日曜日に他人が働いていることは当然のことだとしたうえで、それでも休日=日曜日という設定には違和感を感じずにいられる、というわけで。あまり感じの良い感覚ではない……それは、法事も結婚式も同窓会もプロレスの試合も「土、日だから来やすいでしょう?」……いやいやいや、というのが日常茶飯事なために、生まれた、ひがみ、かもしれませんが)

 興味深いことだが、アメリカン・プロレスではハードコア戦でよく使われる、ステープルガンや、有刺鉄線バットや、バラ竹刀……すなわち能動的に「それを使って」攻撃しなければ相手にダメージを与えられない道具たちは、日本のハードコア戦では、あまり好まれない。

 日本では、リングに設置した蛍光灯(ただのガラスと違い、割れるときにものすごい音がするので大迫力)や長テーブル(実は長くないと折れないので痛い。昭和の時代、小学生が新日本プロレス中継の真似をして、教室の頑丈な学習机にダイブして胸骨を痛めるという事故はよくあったものだ)に「激突してしまった」というシチュエーションが観客を萌えさせる。あくまで選手が放つのはプロレス技である。ドロップキックっ、ああ、よろめいて机に激突!! つまずいて、蛍光灯が炸裂、流血!!
 というのが作法。

 それに対し『レスラー』のなかでも、ホームセンターに凶器を買いに行くシーンがある。ランディたちが選ぶのは、フライパンであり、バーベキュー用点火剤、虫除けスプレー、ロープ……すべからく、それそのもので攻撃する気がなければ凶器になりえないものばかり。ステープルガンに至っては、ガンですからね。引き金を引かないかぎり、針は飛び出ない。

 そうして、熱狂する観客たちの前で、血糊ではない血の染みたリングの上で、ランディ・ロビンソンことミッキー・ロークは、ネクロ・ブッチャーの胸に引き金を引く。ミッキー・ロークのカラダに刺さったように見えるステープルは特殊メイクだろうが、ネクロ・ブッチャーに叩きつけたガラスは本物で、はだしで有刺鉄線の上を歩いているのも特撮ではない。いや、それが特撮かどうかを論じることには、あまり意味がない。

 会場のファンが本物であり、ハードコア・プロレスリングの熱気が狂気が、そして己の肉体と人生のすべてを投じて「演じる」ということの覚悟が、映画のフィルムにきちんと映し撮られたこの奇跡。

 そう、それが『ロッキー』と『レスラー』の違いであり、プロレスが、エンターテインメントスポーツの最高峰と称されることの理由でもある。

 ミッキー・ロークは、この映画のなかで、本物のプロレスラーだ。
 なんなら、プロレスラー名鑑に、ロークの名を載せてもいい。世界中のプロレスファンのだれも異論は唱えないはずである。

 プロレスとは「演じる」ことの究極の形態なのだ。

 ミッキー・ロークがランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンを演じている。しかし、ランディ・ロビンソンもまた、ランディ・ロビンソンを演じている。プロレスラーに限らず、だれもが自分自身という役柄を演じているのだが、ランディであるがために妻に逃げられ、娘を手放し、心が通じかけた恋人には背を向けられる。新聞の人生相談なら、こうアドバイスするだろう。

「あなたは、自分を取りもどすことが先決です」

 だがしかしまて、ほとんど人生のすべてをランディというマスクをかぶって生きてきたのである。ランディがランディを脱ぎ捨てて、それで去りかけた恋人が「なにかにとりつかれたようだった彼の人生にやっと落ち着きが!!」と驚喜したとしても、そこで彼は、なにをするのだ。

 愛が手に入る。

 そのことを、妥協と呼びたい私がいる。
 ランディは鏡のなかの自分のことをランディと呼ぶ限り、すべてを失い、観客さえいなくても、ぶよぶよに太っても、ガリガリに痩せ衰えても、死の間際でさえ、いや逝ってなお、プロレスラーであり続けることができるのである。

 だが、人生には、いろいろある。
 そのたびに、もうイヤになる。
 まして、愛さえなく、まして、ひとりの観客もいない。
 ただひとりだ。

 おれは、なぜ、こんなマスクをかぶってんだ?
 マスクマンだから?
 プロレスラーだから?

 そんなものは、五秒で脱ぎ捨てられる。
 だったら、続けるのは、なんのため?

 答えはたぶん、ヒトそれぞれ。
 多くの友人にこの映画を観せたが、なにも伝わらないヒトも、たぶんいた。そこが『ロッキー』と違う。バレでもなんでもなく、この映画のラストも光り輝くリングの上で、ランディは観客の声援を一身に受けている。だが、ランディには、声援も、今日のギャラも、関係なくなっている。

 娘が、恋人が、ランディという男に向かって叫ぶ。

 あなたはどうしてそういう生き方を続けるの!!

 バカすぎるよランディと、映画の観客も例外なく言ってしまう。

 そして一拍置き。

「でもカッコイイ……ランディ」

 つぶやいたやつが、プロレスファンだ。
 演じ続けることのキツさを骨身に染みている身にこそ響くはず。
 一方、これをカッコイイと感じてしまうことで、自分のダメさ加減をまた骨身に染みさせるバカも多いはず。一方、鼻で笑って「つまんね」と鼻をほじるヤツもいるだろう。

 なんにせよ。
 観てください。
 プロレス・ファンが、なにを求めて血まみれの男たちの試合に声を張りあげ、リングを降りた私生活でもマスクは脱ぐなと強要し、引退してもプロレスラーであり続ける義務を負わせているかが、少しだけでも覗ければ、あなたの世界を視る目が少し拡がるかも知れない。彼ら、彼女たちは、全員が不安なのだ。
 それが、ランディを見ると、ほっと息がつける。

 あそこにも、限界を越えて演じるバカがいる。
 それはいったい何万発目のエルボー・スイシーダ?
 左足を引きずっているのは演技じゃないよね。
 あのひとも、もとの自分はなくしてしまったんだろうか?
 それでも、続けるんだろうか。
 かぶった仮面が、自分自身になってしまって。

 戻ってきたミッキー・ロークに、可愛らしさを感じるのは私だけ?
 目を伏せて笑う、どん底を舐めてなお演者を続ける世紀のスター。
 ミッキー・ロークという人生に熟練したプロレスラーの記録。

The Wrestler

 ところで『エクスペンダブルズ』宣伝に来たはずのスタローンは、ミッキー・ローク・ランディとストーン・コールド・スティーブ・オースチンのコンビについてまったく口を開かないが、プロレス嫌いなんだろうか。かようにプロレスファンは「命がけで演じる」という行為にシビれる種族で映画ファンでもあることが多いので、格闘家ランディ・クートアを観に行く層よりも、オースチンはトレード・マークのビールを飲むのだろうかを観に行く層のほうが厚いと思われるため、興行的観点からのみ組まれた人選なのかもと邪推する。なにせ、ロック様やシナ様(ふたりともオースチン同様、プロレス界の生ける伝説)が出ているだけで内容がどうであれ劇場が埋まる国だし。それとも、スタローンは日本人がアメリカンプロレスを観ているだなんて夢にも思っていないのだろうか……長渕剛と筋トレの話で盛り上がるスタローンは、シュールだった。

『オッドトーマスの救済』の話。で書きかけたことを書きました。プロレスファンが増えると同時に、プロレス好きが勧める小説も手にとっていただけたら幸せ。今月はすっ飛ばされたまま放置されていたクーンツの大作『ヴェロシティ』邦訳がついに来る!! これで明日も生きていけます)