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 幼いころ『なるほど!ザ・ワールド』というクイズ番組で、スペイン家庭の台所には必ずあるこの白い道具はなんでしょう?

 という問題が出た。

garlic

 正解はニンニクの皮むき器。

 大人になってから、ニンニクが好きな自分に気づき、毎日の料理に欠かせない食材となったとき、その問題を思い出して、それを買ったのだが、残念な結果だった。
 この器具を、洗うのが手間なのである。
 薄い皮が貼りつくし、漂白しないと匂いが取れないし。

 不思議なことに、手についた匂いというのはひと晩もすれば消えるものだが、調理器具に染みたりした匂いは、本当に取れない。新陳代謝がないからだろうか。まあ、新陳代謝があるニンニクの皮むき器というのも気持ちが悪いけれど。

 毎日のように皮を剥いていると、この器具を使うにしたって、まずはまな板の上で包丁を使って、根元の硬い部分は切り落とす必要があるので、だったら、もうひとつ器具を引き出しから取り出すという行為が、面倒。だいたい、ゴム素材で挟んで転がして皮が剥けるならば、手のひらでもできるんじゃないかとやってみたら、これが普通にできたりするし。スペインの家庭に必ずあるというのは、ちょっと大げさなんじゃないだろうか、あのクイズ番組をやっていたのはそういう時代だったしなあ、と遠い目をしてみたり。

 遠い目をしながら、自動的にニンニクが下ごしらえできるようになったなら、一人前。

 それにしても、私は比較的肌の強いほうなので、素手でさわって平気ですが、ちょっと弱い人だと、ニンニクというのは、一、二個皮を剥いただけで、痛痒くなってくるらしい。一方、そういった敏感肌に、ニンニクのエキスが効く、という論文もあって、さわれば痛いのに、飲めば治るって、それは実に毒と薬は紙一重というよくできた話だなあ、と感心してしまいます。

 私にとっては、別に元気のためとか、活力だ免疫力だ、というのを期待しているわけではなく、たんに好きだから食すのですが。
 ここで問題になるのが、匂い。

 客商売しているので、それは気をつかいます。

 経験上、スライスして炒めたり、焼いたり、というのは大丈夫。
 醤油とかポン酢に漬けてあったりすると、生でも翌日までは残らない。

 まずいのは、中途半端に熱が通った場合。
 最悪なのは、タコ焼きのなかに生にんにくを入れるの。
 次に最悪なのが、ラーメンにすりおろした生ニンニクを入れるの。
 どっちも、大阪では国民食ですけれども。
 休みの日には食べません。
 休みの前日にしか食べられない。

 ナマよりも、熱い生地を通してとか、スープの熱でとか、じんわりと温かくなった半生状態が、どうもいけない。
 朝。
 うわ、全身からにんにく臭がする!
 と自分で気づくくらい。
 口じゃないくて、汗腺から立ちのぼっている。

 というわけで、ニンニクを剥くのは自動的にできるようになった私なのですが、たとえば煮物とか、揚げ物とか、下味としてニンニクを使いはしないけれど、好きなので具材としてあとで入れたい、という状況が多々発生し、そのたびに「でもここで生ニンニク投入は自殺行為」と、思いとどまり、でもやっぱり食べると物足りなくてがっかり、なんてことを繰り返し。

 いろいろ、試してみました。

 そしてたどりついた。
 簡単なことです。
 火を通しておけばよいのです。
 蒸して、それを冷凍する。
 時間があるときに、やまほど蒸しあげて、急速冷凍です。

Garlic

 匂いません。
 便利です。

 唐揚げ粉をまぶして、こやつを揚げると、そうとう上級なおつまみになります。
 餃子に薬味として添えるのも良い。
 ラーメンには、まるのまま投入しましょう。   
 タコ焼きのレシピはこちら

 いやまあ、それだけのこと。

 生で冷凍するのもやってみたのですが、これはただたんに食感が悪くなるだけで、多量にニンニクをもらったからやむなく保存するといった状況でしかおすすめしません。

 10分ほど蒸す。

 そのひと手間が、実に重要。
 栄養的にどうなのかは、わかりませんけれども。
 冷凍食品として売っているガーリックチップスなんかを料理にばらまくより、確実にニンニク好きを納得させる存在感。

 我が家の冷凍庫に、欠かせないもののひとつなのです。 



 昼出勤で、ゆっくり寝られる日曜日だったのだけれど。
 目覚まし時計もかけていないのに、私はその時間にテレビの前で正座して、観終わって、二時間ほどキーボードを叩き、しかし、この続きは第二回の放送を観てからにしようと決めて、ツイッターでつぶやくだけにした。

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戦う理由はないが成りゆき上でライダーキックとか…仮面ライダーオーズ…この時代における「正義」のありかたを問うてきた。考えてみる日曜の朝。
10:11 AM Sep 5th

実際に、ドラマチックに垂直に立てて収納できるバイクをHONDAさんが発売してくれないものだろうか。駐車場には入れず、駐輪場ではデカすぎる。都会のバイク乗りにとって壁に立てかけられるってのは夢。
10:36 AM Sep 5th

特徴的な太いアームが、たぶんシャドウファントム( http://www.honda.co.jp/SHADOW/ )。前傾姿勢じゃない余裕を感じさせる。が…仮面ライダー仕様( http://bit.ly/aoFB6k )のほうがカッコ悪いと思う(笑)。
10:34 AM Sep 5th


twitter / Yoshinogi

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 K・W・ジーターの大ファンなのです。
 彼の小説に育てられたと言ってもいい。
 そんな彼のベストは、実はこれではないかと思っている。

K.W. Jeter

 私は、映画の『ブレードランナー』には想い入れが薄い。それはたぶん、映画をもとにした公式続編を書いた、ジーターの描く混沌の世界に対し、映画の世界は、きれいすぎるからなのだと自己分析している。荒廃した近未来世界を描いているのに、リドリー・スコット監督の「映像美」なんていう売り文句が光るのを見るにつけ、もういっかい観ようかという気が醒めてしまう。いつだって、観返した映画のブレードランナー世界は、私の記憶よりも、ずっと清潔でのっぺりしているから。

 そんな私だが、テレビで、吹き替えで放送されているのは、つい観てしまう。

 寺田農。

 その人が声を当てると、レプリカントのボス、哀愁の咆吼バッティ(ルトガー・ハウアー)の人生(?)を想い返して、それだけで涙腺がゆるんでしまうのです。
 ほんと、そういう声だと思う。
 悪だけれど、狂気で動いているのではない。なにか、信念をもって、むしろ仲間たちの未来のため、自分の想いを昇華させるため、悪と呼ばれる存在にならざるをえなかったという……

 寺田農がカッコイイから吹き替えの『ブレードランナー』は好き。
 きれいすぎる映像も、一種の寓話、絵本を読み聞かせてもらっているような気になって。低くてこもるようなルトガー・ハウアー本人の声よりも、寺田農の、吠えているのにどこか醒めた声は、きれいすぎる絵に、似合うのです。

 『仮面ライダーW』のキャスティングに寺田農を入れたヒトは、きっと吹き替え『ブレードランナー』のファン。そして狙ったとおりの演技を、彼は魅せてくれた。炎に包まれる屋敷のなかで幻影の娘とダンスし、仮想の世界で地球を背景に家族愛を語る。ちょっと、人間離れした存在感がないと、できない役です。そこに違和感を感じさせなかった。寺田農というヒールによって、仮面ライダーWという作品の多くの部分が、深みを増した。日曜の朝から色眼鏡でワインを傾ける寺田農で子供が興奮している国って大丈夫か、という気もしないではないですが。それこそが仮面ライダー。ウルトラマンとも、スーパー戦隊とも違うところ。

 一種の寓話。

 仮面ライダーは、悪の改造人間なのです。
 Wも、厳密には改造人間ではないけれど、図式は踏襲していた。
 ガイアメモリという人間を怪物に変えるイチモツによって起きる事件を解決し、そのイチモツに魅了された悪なる人類の一派と対決することになる、仮面ライダーW自身が、ガイアメモリの能力によって変身し、強さを得ている。この構図。

 悪とはなんであるかということを、語っています。
 ナイフは、林檎も剝けるし、鉛筆も磨げるけれど、ヒトも刺せる。
 悪とは、できるからとやってしまう、歯止めのなさ。
 悪とは、チカラを、なんのために使うかという選択の是非。
 するどく磨いだ鉛筆で、またヒトを刺すこともできるけれど、それで嘆美な小説だって、ギャグマンガだって、書くこともできる。とても絵の上手いヒトが、さらさらっと描いたかわいい女の子のカット一枚で、至福な気分になれる男子はいっぱいいるのです。

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『仮面ライダーダブルと次なる十年紀』の話。

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 ハードボイルド、という設定が最初にありきで、私はそこにとても期待していたのですが、後半、思いのほか、ハードボイルドというよりも、ヒーローってなんだろうという普遍的なテーマに、観ながら考えが向かっていた。

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『仮面ライダーアクセルとヒーローというもの』の話。

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 アクセルが出てきてからは、仮面ライダーは正義であるという当たり前のことに揺さぶりをかける脚本も書かれはじめ、あらためて、ヒーローとは自己犠牲もいとわない正義の人のことなのだと、生身の左翔太郎が叫んだセリフが、私の心に突き刺さって残った。

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「カラダひとつになっても喰らいついて倒す!!
 その心そのものが仮面ライダーなんだ!!」


 ドラマ『仮面ライダーW』
 
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 その叫びのあと、真夏の主人公は、ハードボイルドに極めてくれた。

「この街に、仮面ライダーがいることを忘れるなよ」

 せったい忘れない。
 ダブルは、昭和ライダーに正義のおっぱいをもらった私にとって、育んできた正義の方程式は、いまも有効なのだと信じさせてくれた、平成ライダーのひとつの到達点である。原点回帰をうたっていたが、回帰するにしたって、仮面ライダーには歴史がある。一号が悩みもせずライダーキックで怪人を爆発させていたころ、ブラックRXがそれでも剣を突き立てていたころ、あのころとは状況が違う。世界で売れた村上春樹の『1Q84』は、米同時テロが執筆の契機だったという。多くの作家が、そういうことを言う。たしかに、あの日を境に世界は変わった。けれど、その発言は正義なのかと、あれがなければこの作品は生まれなかったと語るのは、屈していることにはならないかと、首を振ってしまう。この時代に。

 仮面ライダーは、言いきって許される。

 悪を倒す。
 愛する人を、この街を、守るため。
 暴力を行使する。

 そこには実は、正義も悪もない。
 かなり、仮面ライダー本人のエゴに寄ってもいる。
 だが、正義とは、そういうものなのだ。
 守っているその人が、街が、悪ならば、そのために盲目的にキックを放つ仮面ライダーこそが悪人になる。そこの判断は、けっきょく、観客に許されるかどうか。

 チョウ・ユンファだから、ライターの火を吸って許される。
 萩原健一だから、新聞紙で口をぬぐって許される。
 館ひろしだから、白タキシードでバラの香りを嗅ぎながらの殉職が許される。
 松田優作の演技を、だれかが真似るとコントにしかならない。

 話がズレている?
 いや、帽子を斜めにかぶって許される男しかヒーローにはなれない。

 寺田農は、悪なのに家族愛を語って燃え尽きた。
 炎のなかで幸せそうに踊る最期。
 もしも寺田農が仮面ライダーとして許されているならば、そっちが主人公でも、成り立ちかねなかった。だが、仮面ライダーダブルは勝ったのだ。間違いなく、こっちが正義だった。

 すべてが終わった余韻にひたりながら、私は一週間を過ごし。
 そしてオーズを観た。
 
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「いけますって!
 ちょっとのお金と、
 あしたのパンツがあれば!!」


 ドラマ『仮面ライダーOOO』
 
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 ……これは深い。
 ありそうでなかった探偵が主人公から一転、放浪者である。いや、登場時は、警備員である。日雇いのアルバイトらしいが、小銭とパンツしか持っていない男を警備に雇う面接官は、仕事を投げているとしか思えない。案の定、主人公は居眠り中である。日雇いでも雇われたら一身に尽くすという、金のために命を張るプロ意識さえないらしい。

 だが、彼が今日から仮面ライダーである。

 正義とはなにか。
 彼は、変身して戦う理由をこう語る。

「朝からの長いつきあいだから」

 そのひとを守るために。
 難解な話だ。
 風都という愛する街と、そこに住む愛する人々を守るために命がけだったこの夏までの仮面ライダーが、バカみたい。朝からのつきあいで、名前も知らないし、なんの依頼もされていないし、金銭の授受もなく、口説きたい相手でもない。愛や友情のためではなく、金のためではなく、性欲のためでも、ただ自分のカッコよさに酔いたいナルシストというのでさえない。

 火野映司。

 なにも持たない男。
 なりゆきで戦う。

 今回は、小林靖子サマがメインライター。
 募集もされていないテレビ局への投稿から作家になったかたとしても有名ですが、ついに手がける平成ライダーも三作目。それも『龍騎』、『電王』と、平成ライダーの陽の当たるほうを担当してきた実績からして、『オーズ』もまた、歴史に名を残すことは決まったも同然のはずなのに、これでいいのか主人公設定。情熱のない主人公ほど、物語の進行を萎えさせるものはない。

 これはなにかあるはずだ、初回では話途中になったため、二回目を観てから、判断するか……

 で、観た。
 これはまた、なんという設定か。
 過去二作でSF要素テンコ盛りすぎて子供がついていけなくなった(私も海外版まで観たけれど『龍騎』のライダー相関図はぜんぶおぼえられはしなかったし『電王』のタイムパラドックスはあれでちゃんと説明がついたのか、頭のなかを整理できずにいるひとりです)。それをクレームではなく、もっとやれと彼女は受けとめたようで。

 『W』の左翔太郎と園咲来人(フィリップ)のイチャつき具合が人気だったことに対抗心を燃やしているのがあきらかな、仮面ライダーニコイチ設定。異世界の怪物が、主人公に能力を貸すかたちで変身する……しかし、それは『電王』もそうだった。野上良太郎と、イマジンたちのニコイチ仮面ライダーシステムは、終盤にいくにしたがって『W』ばりの「ぼくはひとりで戦うっ」「ちがうだろおれたちはふたりでひとつっ」な展開になっていき、大団円。

 靖子サマ、しかし『W』に切なさで負けた。

 有名声優をそろえても、やはりそこは着ぐるみ。萌えないとはいわないし、『電王』が腐女子層にアピールしたのも事実。けれど、嫉妬と葛藤と、その後の抱擁を描くとき、やっぱり、人間の肌と肌が触れあわないことには、肺胞のひとつひとつを絞りあげてまで、黄色い悲鳴なんてあげられない。

 エロとは肌。
 いや、仮面ライダーでエロを語るのもなんだが。
 しかし『オーズ』の設定は、そこを考慮したものだとしか読み取れない。

 肉体という器についての不安定さを描くことで、そこに宿る心を描くというのは、『キバ』と『W』で語り尽くした感があったが、さすがの小林靖子サマである。

 アンクという怪物が現れる。
 そしてカラダを貸せ、こちらは力を貸してやる。というのが憑依ヒローモノの王道パターン。けれど今回、正確には、アンクは仮面ライダーに変身させる火野映司のカラダを奪ってはいない。ベルトを与えて変身させる、というのは、キバの変身方法に似ているが、アンクは、映司の変身中もベルトの一部だったりしない。

 泉信吾という刑事のカラダに憑依しているのである。
 人としての信吾は瀕死の状態で、アンクに憑依されているから生き長らえている。
 ゾンビだ。
 とはいえ、アンクに憑依された信吾は色白でアンニュイな雰囲気をただよわせ、ゾンビとはいっても、その気だるさが色っぽさに転じている。

 単純な図式ではある。

 映司は変身するためにアンクが必要で、アンクは戦うために映司が必要。
 信吾は生きるためにアンクが必要で、アンクは動くために信吾が必要。

 で、そこに信吾の妹が現れる。
 無駄に怪力、それもあきらかに人類のものではない怪力というところからして、今後、それをお遊びの設定だと流すような小林靖子サマではない。なにかあるのだろう。その兄ということで、信吾にもまた、アンクに憑依されたのは運命だったというような切ない展開が待っているのだろうことは、越えろ『W』を合い言葉にする『オーズ』にとっては、当然のことである。

 当たり前に、伏線が張りまくってある。

 妹が改造人間という最終兵器彼女的な展開を私は期待しているが、順当に進めば、どう考えても、映司と信吾とアンクの三角関係で、妹は号泣である。
 映司とアンクが殴りあっても抱きあっても、そこではモモタロスのような着ぐるみではなく、アンニュイな信吾の生身があるというのは、投稿作家の草分け小林靖子サマが、同人作家たちに与えてくださった、エロの泉だ。活用しなくては、日本が滅ぶ。

 放浪のなにも持たない男。
 でも、朝からの知りあいのために命が張れる。

 その男の目の前で、行方不明になったお兄ちゃんを見つけて妹は笑っているが、その兄は死にかけていて怪物に憑依されている。

 火野映司は、放っておけない。

 それは、ハードボイルドとは違う。
 しかし、確実に、これも正義の在り方。

 放っておけない。

 それは、まだ愛ではないが、ほとんどそこへ至る母乳だ。

 この時代には、もっとも欲される正義でもある。
 困っている隣人に、手をさしのべて力を貸すという、ヒーロー。

 ……正直に言おう。
 仮面ライダー生誕40周年が来年来る。
 『オーズ』は、そこへの布石だと見る。
 私は、希望的観測も込めて、生誕40周年記念ライダーは、アマゾンへの回帰だと信じている。しかし、その前年に、宿無しの風来坊が主人公になってしまった。流れ者が二年連続で主人公などありえるだろうか? それとも、生誕40周年記念ライダーは、私の希望を裏切って、ジャンボとかスカイとか、そういう系譜なのだろうか。宇宙へ行くのか。ブレードランナー張りの、近未来モノかも。
 正直に言う。
 『オーズ』が大化けすると、私は思っていない。
 あまりにも堅実な作り。
 これもひとつの集大成ではある。

 あかるく、たのしく、はげしく。

 それは全日本プロレスの合い言葉だが。
 仮面ライダーも、記念の年の前に、完成度を見せつけるつもりなのだろう。
 メインユーザーの子供はぜったいによろこぶ多フォーム変身。
 同人界では生身がふたりいればエロであり、妹までついてくればおなかいっぱい。
 最初から敵は明白、目的はメダル集め。

 欲のない主人公が、欲望をエサに育つ悪を討つ。

 語るべきことはあまりない。
 これが正義だ。
 これが仮面ライダーだ。
 バイクは今回、あまりかっこよくないが、電車や、下駄や、助手の運転する車に同乗なんていうのまでいた平成ライダーたちを思えば、当たり前にバイクに乗っている安心感である。

 昨年は、碇ゲンドウが叫ぶという新機軸とあいまり、初の夏に初回を迎えるライダーだったため、例年なら年明けの終了を見越して仮面ライダーグッズは処分に入る時期のクリスマス、オモチャ売り場に変身ベルトは姿がなく、ネット上では法外な転売価格が……
 
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『仮面ライダーW変身ベルトの代替案』の話。
 
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 と、いうわけで。
 安心のスタッフで安心の物語、良いプロレスを観るようにたのしめばよい『オーズ』だと思われるのですが、肝に銘じなければならないことが、ひとつ。

 今年は、宇宙刑事シャリバンが歌うベルト。



(もっと代表作はあるのだろうけれど、私にとってはこれ。新聞のテレビ欄を見て、自分でテレビのチャンネルを変えて、正座してヒーローの活躍を観る幼児から小児に成長した時期が、ギャバンからシャリバンへの移行期に重なっていて、この主題歌は忘れられない。宇宙刑事ギャバンが永遠に続くと信じていたのに、新しい宇宙刑事が新しい主題歌で現れて、戸惑って……でも、若さってナンだっ、というようなギャバンの歌詞よりも、男! と叫ぶシャリバンの歌詞のほうが、身に馴染む自分にまた戸惑った……週一のあのハスキーな歌声が響く短い時間こそまさに、私の男性性が、育まれていた刹那だった)

 まだ夏の暑さも抜けきらぬ、いまのうちにクリスマスプレゼントは確保しておくのが夏はじまりになった二年目の仮面ライダーお父さんの作法ではないかと。
 ……すでに定価越えて売っているやからもおります。
 バンダイさんには、クリスマスの主役としての自覚と責任を持って、不眠不休で仮面ライダーの新しい歴史を作ってもらいたい、今年こそなのでした。

KAMENRiderOOO
KAMENRiderOOO

 話があちこち行きましたが、最後に、ものすごく期待していることを。
 今回の能力コンボで変身スタイルが決まるというシステムで、緑色メダルの「昆虫」という区分があり、初回放送からその昆虫が「バッタ」と「カマキリ」。
 そこはもうぜひ一度、三枚とも緑メダルで変身するシーンを描いて欲しい。
 できるだけシンプルな造形で。

「トノサマバッタ・イナゴ・キリギリス!!」

 で変身してください、一回でいい。
 私、仮面ライダーシンのフィギュアを書斎に飾っています。
 仮面ライダーは、やっぱり虫。
 髑髏虫が石森章太郎デザインの原点。
 とにかくせっかくのフォームチェンジ、きれいに組み立てて欲しい。
 赤いタカのアタマ、あんまり好みじゃないです……
 早く昆虫がヘッドにならないかなあ。

 などと楽しみにしている時点で、
 オーズの術中に、すでにはまってはいるのです(笑)。
 

 『デッド・サイレンス』という映画は、腹話術師の怨霊の恐怖を描いたものなのだけれど。その描きかたを見ていると、和風幽霊の描写との違いが如実で、興味深い。

DEAD SILENCE

 なにせ腹話術師の怨霊だから、まずは人形が登場するのである。白い顔で、赤い唇の、両の頬には下顎を稼動させるための縦ミゾが彫られている、ギョロ目の人形。そいつがひとしきり被害者(というのは映画を観ているあなたのことだ)の前で怖いことを言ったあと、真打ち登場である。

 派手な顔の、ギョロ目の人形のうしろから、
 それを操っていた腹話術師の怨霊が、すぅぅーっと。

 現れる、と。
 こうやって文章で書くと、日本の怪談に慣れ親しんだ者ならば、こういう顔を想像する。

 蒼白くて、うつむいていて、でも目だけは上目づかいで、こっちをじっと見ている。笑みはなく、怒りもなく、ただなんの感情もなく、迫ってきて、その眼力で恨み殺されそうな。

 柳の下に立っている、アレである。

 アレは、思うに、足がなかったりもする場合が多いし、文字通り地に足のついていない、死人の肉体ではない、なにかなのだと思われる。精神体というか、見ている側からいうなら、無理からにカタチのないものにカタチを与えた結果のそれ。

 やそべえ君は死んだお花ちゃんに呪われているのだが、お花ちゃんがお花が好きな女性だったからといって、コスモスの姿でやそべえ君の前に現れたって、怖くもなんともない。むしろ、やそべえ君はお花ちゃんの呪いも恨みも誤解して、そんな姿で現れるなんて、おれを許してくれたんだねお花、などと、感動しはじめてしまうおそれさえある。そういうややこしい事態を避けるためにも、幽霊は、生前のヒトだったそのままの姿で、やそべえ君をこれまた誤解させないように、生まれて死んだそのままの全裸などではなく、ちゃんと生きていたころのように服も着て、下着もはいて、そのうえで髪の毛なんかは、ちょっと頬にかかるようにたらしたりして、上目づかいで、幽霊であることはおもに顔色の悪さで伝えるようにするのが作法とされるのであろう。

 そこが、あちらの映画などでは、違う。

 怨霊といっても、造形はゾンビだ。
 腐りかけたヒトである。シェイクスピアも描く、よくある描写としては、鎧甲冑の馬に乗った騎士が現れて、兜を脱いだらシャレコウベ、というような。どう見ても、それは精神体を描いているのではなく、棺桶のなかで微生物まみれで発酵しかけている死体そのものなのだ。だから、古代の鎧騎士なら比較的きれいな白骨だし、新しめの怨霊だと、まだ腐りきっていないので、額や頬にウジ虫が食べかけの肉が残っていたり、半分抜けた髪の毛が風になびいていたりする。

 ギョロ目の派手な顔な人形のうしろから現れるなら、和風な青白い顔の幽霊のほうが怖そうな気もするが、そこは監督ジェームズ・ワン×脚本リー・ワネルのヒットメーカー。あえて昔ながらの、目の落ちくぼんだ、腐りかけゾンビ風の怨霊で勝負して、それに勝っている。

 冒頭で挿入されるウンチクが、映画の後半で、実に効く。

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紀元前6世紀
死者の魂は生者の腹を通して
話しかけてくると信じられていた
ラテン語の“腹(VENTER)”と
“話す(LOQUI)”が合わさり
“腹話術師(VENTRILOQUIST)”という言葉が生まれた


映画『デッド・サイレンス』

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 紀元前六世紀というと、エルサレム神殿が破壊され、バビロニア王国が滅亡したころであり、そんなころの文献が本当に残っているのか、なにかの研究によって「信じられていた」などと断言してしまうことができるのかが、そもそも疑問。けれど、映画の冒頭で、そんなことを気にかける観客はいない。天才リー・ワネルさまがそう書くのであるからには、そうなのであり、まずはそのすりこみをすりこまれてこそ、スイッチが切り替わる。

 へー。
 腹話術って、愉快なものなのに。
 語源をたどると、ちょっと怖いのね。

 無線技術と小型音響装置の発達した現代において、人形がリアルタイムに人間と会話したからといって、なにも驚くべきことではない。しかし、いまでも専業の腹話術師は存在するし、交通安全協会の安全講習に参加した小学生が、横断歩道は手をあげてわたりましょうと諭す両頬に深い縦ミゾのあるオサム君に

「おまえ生きてないだろ撥ねられて死にもしないくせに」

 と暴言を吐いて腹話術師を泣かせたという話を聞くこともない。

 腹話術は、おもしろいのだ。

 たぶんそれは、最近流行りの3D映画のようなものである。ぶっちゃけてトークするなら、あんなものはPC-8801ユーザーが『イース』に接して

「おお、雲が、本当に空を流れている!!」

 と、ただ単に重ねたスプライト(平面画像)をズラして動かしているだけのことに、涙を流して驚愕した状況に似ている。

Ys

 3Dなどといっても、疑似だ。
 疑似とは本番ではない。
 しかしまあ、気持ちよければそれでいいかという客心理を突くことによって、売春は法で禁止されているのに、この国には抱きあって射精できる店がごまんとある。

 腹話術効果という言葉がある。

 たとえば、腹話術人形のオサム君を抱いたアンドウさんが、オサム君の口を操作する棒がぽっきり折れているのにも気づかず腹話術ショーを続けたとしたら。
 マイケル(7歳)は、指さして言うだろう。

「アンドウさんの、おなかがしゃべってるの?」

 紀元前六世紀にどうだったかは知らないが、魔女狩りで腹話術師も狩られたというのは、歴史の事実だ。腹話術とは、そもそもそういうものなのである。だいたい、ショーとして確立もされていない時代に、なぜに猛修行して腹話術などを会得するものがいたのか。なんの得があるのか。

 いや、得はある。
 
 アンドウさんは、オサム君の口を動かしておらず、それゆえにマイケル7歳は、声がしてくる方向を見つめ、しかしアンドウさんの唇は動いていないため、世間ずれしていないピュア感性で想像しただけのことだった。

 動いているのは、アンドウさんの腹だけだったから。

 腹話術師にとって、腹筋は命。いつもはオサム君がケタケタと笑って動いているから目立たないが、動きのなくなった舞台上では、その常人離れした腹筋と横隔膜が激しい運動量を披露している。腹話術師は口を開けないが、かすかな唇の隙間から、叫び声さえ出す。一方、その通常の発音よりも多量の呼気を必要とする発声法により酷使される肺という器官には、いっさいの筋肉はない。肺筋、などというものはなく、ないものは鍛えられない。かわりにヒトは、横隔膜という薄い筋肉板を体内に飼い、それによって肺を呼吸のためだけではない、音を炸裂させるための発射ポンプとして機能させることに成功した。

 横隔膜は、哺乳類にしか存在しない。
 そしてヒトは、哺乳類である。

 なんにせよ、だれが決めたか腹話術師はタキシードを着るものであり、その服は、腹が露出する。ケタケタと笑うオサム君の声を発するアンドウさんの腹は、事実、腹話のための大運動を見せていた。

 マイケル7歳が、誤解するのも無理はない。
 それが腹話術効果だ。
 音を消したテレビでアクションを披露する仮面ライダーの動きに合わせて、幼稚園児の横で、ぼそぼそとつぶやいてみるといい。

「おれは仮面ライダー。金のために働いている!!」

 つぅ、と、園児の頬に涙が流れるだろう。
 仮面ライダーには造形上の唇が存在しないので都合が良い。
 真横から声が聞こえていても、ヒトには関係ないのである。
 目の前で動いている、そこから声は聞こえている。

 疑似だ。疑似とは本番ではない。

 しかし、この融通性があるから、ヒトは映画を観ていても、スピーカーが話しているのではなく、画面上のキャラクターが話しているのだと感じることができる。
 そこが厳格だと、夢を見る余地はなくなってしまうのである。

 そういう術をつかう者だった。

 腹話術師とは、神の声を腹で語る者であり、地域によっては、死者……つまり死体そのものに話をさせる、反魂師であった。近年、恐山の巫女の口寄せには、精神医学上、遺族の心を癒す効果があるという研究がすすめられている。イタコの声が、死んだ娘の声に似ているわけはない。コントでよく扱われるが、マリリン・モンローの霊を召還して、日本語の、しかも訛った言葉で語られるなど、笑止千万である。それでも、ヒトは癒される。

 その技術を会得することは、術師にとって得以外のなにものでもない。

 神の声を、腹から語る。
 腹話術師は、確かに魔女。
 それも持って生まれた能力を有する者ではなく、努力して特殊技術と、演技力を身につけた、正真正銘の術師なのだった。

 で、ふと考えてみる。

 世にすれず、ピュア・ハートを持ち続けていれば、ヒトとは、その本人の声でなく、その本人の口から聞こえていなくてさえ、癒され、神のお告げだとまで信じることができるということの、これは証左だ。
 それは、能力。
 しかも、ほとんどだれでも努力のみで手に入れられる。
 利用して、幸せになるのがいい。

 ろくでなしの男に殴られて、腫れた頬を撫でながら、酔いつぶれた彼の胸の上下にあわせて、自分で言うといい。

「おまえを愛してる。しあわせにする」

 いや別に、相手は実在さえする必要はない。
 実害がないぶん、そのほうが幸せだともいえる。
 壁に貼ったポスターに、すがりよって言えばいい。

REBORN!

「おまえ……咬みころすよ」

 言わせれば、咬み殺されて昇天できることでしょう。
 真に熟練した腹話術効果師は、自分の口から出た言葉さえ、自分への贈り物だと受けとめられるようになる。
 そこに至る道は険しそうでもあるが。
 腹話術の特訓よりは、簡単そうな気もする。

 なんてことを、このあいだ、探偵ナイトスクープで「彼女にフられたからアニメ少女にそっくりになってその自分を愛したい」と語っていた彼の姿を見ていて、考えていた。鏡に写った自分に勝手なセリフ話させて萌えられるナルシストこそ、この世でいちばん幸せに違いない。

(それにしても、黒目コンタクトっていうやつの破壊力はすごいなあ。女子がみんな着けて歩きだしたら、実にサイバーパンクで良い街風景になる気がします。でも、瞳孔が開いているように演出すると可愛く見えるというのは、これもまたホラーで興味深い話。こっちに興味持っているように見えるからこっちも興味がわくのか、それともたんにイッちゃっているから人形扱いできると本能が訴えるのか)

Angel Color