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 ケツ汗パット。
 商品名なら、尻汗パット?
 それでもまだ抵抗感あるなら、

『Sweat pad of hips !!』

 なんだかチュッパチャップスみたいな語感。
 ひっぷすぇっっとぱぁっぅ!!
 ジェットセットラジオっ! みたいでもある。
 とにかくクールさが必要。
 なぜなら、これを買うのは性奴な年頃の男子高校生どもだから。

 話は昨日にまきもどり。

 まいどおなじみ決算棚卸しのシーズンということで、数字を眺めては売り場に戻り、ということを一日中続けていたのです。しかし、いつもならこの時期、とある事情によりふらふらに疲労している状態な私なのですが、今回は違う。ご存じの方はご存じの通り、某編集部の粋な計らいによって〆切が変更された某賞レース用の原稿はすでに書きあがり、よって睡眠もとり、毎回、〆切前には五キロ近く落ちる体重も、一週間ほど食べては暴れるを繰り返してすっかり戻り、むしろ平常時三割り増しで元気!!
 という状態だったのですが。

 誤算です。
 暑い。
 秋の昆虫たちの色めいた声なども聴かれ出すはずの時節柄なのに……なにこれ。残暑とかいうモノじゃないでしょう。真夏。ちょっと神さま、もうすぐ九月なんですけど。

 となると、平常時三割り増しのパワーアップが、困ることもある。スポーツやっているヒトなら実感として知っているだろうし、プロレスファンなら観客として知っているでしょうけれども。

 発汗というものは、慣れ、なのである。
 上手い下手がある。

 そもそも暑いときの汗というのは、その気化によって熱変換を起こすという、電気を使わない冷房効果を求めて肉体が起こす反応であり、これが上手にできるならば、肉体の表面そのものが絶えず打ち水されている地面と同じこと。もっといえば、エンジンがオーバーヒートしないように水を循環させている、自動車や大型バイク、ハイパワーのパソコンなどでおなじみの、水冷式冷却装置をカラダに積んでいるのと同じこと。

 乗っていなかった車のクーラントが漏れ出すというのは、非常によくある故障で、日常的に走っていれば、初期の段階で漏れ止め剤を入れればすむことですけれど(余談ですが、よくある勘違いで、漏れ止め剤入り不凍液をそれと意識せずに買ったお客さんが「液に砂が混ざっている!」と怒鳴り込んでくることがあります。天井照明に容器を透かして、ほら見ろテメエの店はと顔を赤くするのに「あ、それ、漏れ止め剤です」という、あのやりとり、互いに恥ずかしいので、お気をつけ下さい。重ねて余談ですけれど、新品の蛍光灯も、振ると砂が入っているような音がします。お気をつけ下さい)。

coolant

 気づかずに拡がったサビや穴は、もうどうすることもできません。復帰あけのスポーツ選手が、真夏の熱さで簡単にヘバるという状態も、同じようなこと。汗腺の慣れなんでしょうね。上半身裸のプロレスラーが、上位選手ほど、暑いときにありえない量の汗をかいているのをよく見ます。むろん、上位選手ほど筋肉も脂肪もついていて、それらは熱発生器であり保温材なので、単純に体温がおそろしく上がってしまうという理由もあるのでしょうが。

(先日、結婚が発表されたNOAHの小橋建太。

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『小橋建太という答え』の話。

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 お相手が、細身の元アイドル演歌歌手だということで、プロレスリングNOAHファンがまっさきに思ったこと……小橋って確か、真冬も冷凍庫みたいに冷房効かせて寝るって言ってなかったっけ……新婚生活が心配です)

 とにかく、汗。
 昨日の私の汗は、ハンパなかった。
 なんだかもう暑すぎて、踊り出したくなるくらいに逆にテンションが上がっていて、倒れられたら幸せなんですが、なまじか調子が良いもので、ペットボトル片手に、飲んだ水が直結されているように全身の汗腺から吹き出しているのがわかって、こりゃあ拭っても無駄だとあきらめて噴き出るにまかせていたら、うしろから声をかけられた。

「えー。それ汗? 大丈夫ですか」

 いや、いたって平気。

「なんか上半身、シャワー浴びたみたいになってますよ」

 ごめんなさい。汗くさくて。

「いいえ、うちの息子、いま高校生ですし、あら、そういえば」

 ちなみに、私はそのとき、上下ともに濃い色の服を身につけていた。

「ヨシノギさんて、ケツ汗、かかないんですね」

 ちょっと、絶句した。
 ヒトの全身をうしろから眺めて、なにを言っているのだこのおねーさんは。ふだん、言葉づかいの荒いひとではない。あわてて、あらごめんなさい、と口をおさえていたけれど。

 ケツ汗って(笑)。

 なんですかそれ、と、訊かずにいられるわけがない。 
 で、現役男子高校生の母親が、笑いをおさえられず、頬も染めながら、語って聞かせてくれたのは、こういう話でした。

 彼は電車通学で、しかも、ベッドタウンから大阪市内に向かう満員電車を日常的に使用している。彼の通う高校の夏の制服は、上は白いシャツだが、下がグレーのパンツ。これが、問題なのだという。ある夏、サエキアキヒト(仮名)という男子生徒が、学校にたどりつき、朝のホームルームにぎりぎりで間に合って席に着き、駅から走ってきたので息をととのえ、ホームルームが終わり、一時間目までの短い休みに、教室後方のロッカーから私物を取り出そうと立ちあがったら、後ろの席の女子が、短い悲鳴をあげた。なに? と集まる視線のなか、何人かが口をおさえ、何人かはサエキアキヒトを指さして笑った。

「サエキ、漏らしてんの?」

 サエキアキヒトは状況が飲み込めず、みなの視線を追い、自分の背中に原因があるのだと、手でふれた。白いシャツは、汗で背中に張りついているが、それは夏だもの、当たり前のこと。腰回りは、腰履きの下着を着けているし、ベルトもしているので、汗がにじみ出すなどということはない。つまりは、臀部。大量の汗をかき、木の椅子に座る。そのとき、グレーのパンツには、丸く黒い染みができて……

「い、いや、これ、ケツ汗だってばっ」

 というわけで。
 その場では大爆笑したものの、すべての男子は、自分のケツに触れ、翌朝から自戒したのだという。

 ケツ汗に気をつけろ。

 で、具体的に彼女の息子と、その周辺、サエキアキヒトの惨事を目撃したギャラリーたちは、どんな自衛策をとっているかといえば。

 下着をぴっちりめのサイズに変える。そして、登校前に、下着のなか、ケツの割れ目の部分に、数枚のティッシュを挟んでいくのだという。汗でボロボロになってしまいそうだが、電車通学での運動量程度ではそうはならず、朝のホームルーム前には、抜きとる。トイレの個室は満員で、鏡の前で堂々とケツからティッシュを取りのぞいている者も多いことから、彼女の息子によれば、相当数の者が、この作戦を遂行しているらしい。

 つまり、電車通学の男子高校生の多くが、ぴっちり下着とケツのあいだに数枚のティッシュを挟んで登校していることになる。

 私は、素朴な疑問を持つ。
 母親が、生活雑貨を扱う店で働いているのに、なぜティッシュ。
 訊いてみた。

「あせワキパットじゃ、ずり落ちるらしいの」

Sweat padSweat pad

 尿漏れパットは試していないが、生理用ナプキンは試したという。そうまでしてケツの汗を隠したいか、男子高校生。ホームルーム前に、トイレでナプキンをケツから抜き出してゴミ箱に捨てる絵ヅラもモテのため。まさに性奴である。

 たどりついたのは、一周まわってティッシュだった。というか、推察だが、男子同士のなかでも、女性用の衛生製品を使ってまで本格的にケツ汗対策をおこなうということが、ヒくのではないかと思われる。ティッシュは、まあ、許容範囲というか。

 プロレスラーを見習って、汗染みのできないズボンをはけばいいのだが、制服ではそういうわけにもいかず。まだ紺色なら救いがあるけれど、灰色というのは、濡れに最悪。椅子に座ったりしなくても、ケツの割れ目を流れる汗が、みにくい染みを作ることさえあるらしい。

 冗談めかしてだが、彼女は息子に言われた。

「なんでこんなカラダに生んだのさっ」

 新陳代謝が激しい年頃なんだからしかたないと思うの。でも、確かに、あたしも、ヨシノギさんみたいに上半身に汗かいていたら、下半身もひどいことになっているから、体質もあるのかもしれないわねえ……と。彼女は笑って、言ったのでした。

 ふーん。
 言われてみれば、私は、新陳代謝が激しい年頃のときにも、下半身にかく汗で悩んだことなど記憶にない。しかし、それはたぶん、十代の私が軟弱なヒヨッコで、長髪の痩せっぽちだったから「ちょっとあんたそっち男子トイレっ」なんてよく後ろ姿で止められたくらい運動とは縁がなく、汗腺自体が、慣れうんぬん以前に死んでいたのだと思い返すしだいです。
 制汗スプレーや汗ワキパットがデフォ装備になったからこそ、とめどない細胞の死滅と産生を繰り返す真夏の思春期を迎えた少年を越えて青年にならんとする青き獣どもは、みずからのケツになぜ汗腺などがあるのかと、もぎとって喰ってしまいたい思いに駆られているのかも。股間に制汗スプレーとか、ジェルとか、良い影響があるはずないですし。

 彼女の息子いわく。

「ケツ汗パット、発売されたらバカ売れやねんけどな」

 なんですって。
 どうですか、そこの製薬会社の企画に悩むあなた。
 世の男子高校生を救える仕事になるかもしれません。



 祖母の初盆が終わりまして。
 別段、キュウリもナスも用意せず、灯籠流しもせず、おじいちゃんもおばあちゃんもいなくなった空き家の仏壇に鎮座まします、彼女の骨の前に8月15日だけ集まって、せわしなく迎えて送るという。精進料理どころか、たまに集まったのだからと、肉だ魚だと食べまくり飲みまくり、情緒よりも義務感のほうがずっと勝つ、お盆だったのですけれど。

 余談ですが、、あのキュウリ。
 爪楊枝で立てるのは乗り物ってことなわけですが、迎える人数が何人であっても、相乗りしてくるので、車は一台で。ただし、乗り捨てなので、帰りのぶんも用意する必要があり、ともかく何個並べてもかまわないけれど、かならず偶数でなければ、片道の馬に乗って帰れなくなったご先祖様が家で暴れるんだとか……そういう話を、ご住職に語ってもらいました。

 聞きながら「それは怪談に使えるネタだなあ」と脳裏でプロットを組んでいた私も罰当たりですが、海が汚れるから灯籠を流さず、野菜が高級品な街ではキュウリの馬を用意しなくなったという現代のお盆のありかたは、そりゃあもう充分に罰当たり。

 思ったのですが、チョロQとか、仏壇に飾ればいいのではないかと。
 罰当たりですかね?
 でも、キュウリに爪楊枝刺してウマ、っていうのも、伝統だからスルーされるけれど、充分にふざけたおこないで。おばあちゃんが「もうちょっと若かったらタクミのバイクの後ろに乗せてもらえたのになあ」なんてはにかんで言っていたのを想い出し、田宮のバイクのプラモデルとか、置いておいたら、あっちじゃ足腰も元気なころに戻っただろう彼女は、嬉々としてぶっ飛ばしてくるのではないかなあ、などと夢想しておりました。

ZZR1400

 ところで、これは、私の仏教観というか、神道観、死後観、なんでもいいですが、そういうものが幼稚であるというところから来ているのでしょうが……

 祖父が逝って、いわゆる先祖代々の墓というやつに入ったのです。そしてすぐさまあとを追うように逝った祖母のお骨が、いま空き家の仏壇にある。一周忌を迎えれば(奇しくもそれは、私の誕生日なのですが)、彼女の骨もまた、その墓に入る。

 と、いうことが、起こる以前。
 私は、手を合わせると自然に願っていた。

 「祈っていた」のではない。
 ご先祖様の冥福など考えたこともない。
 墓に向かったときの心もちも、神社で手を合わせるときの心もちも、ほとんど変わらないものだった。具体的にいえば、おおよそ、こういった具合に。

「こんど大きな仕事があるんだ。
 おれも全力出すけれど、
 そのうえでちょっと力添え頼むよご先祖さま!!」

 ……みたいな。
 初詣と、墓参りと。
 手を合わせるという行為はおなじで、私のなかでは、その行為の意味合いも、大きく違ったものではなかった。神社も、神棚も、墓石も、願えば耳をかたむけてくれる、なんだかチカラを持った存在の棲む場所。もしくは、そういう存在と、交信することのできる電波出力装置。線香の煙なんて、いかにも、インディアンチックに遠くのだれかに向かって信号を送っているつもりになっていた。

 のですが。

 生々しく、目の前で死体を見て、触れて、泣いた、彼や彼女との交信装置だとあらためて考えてみれば。おじいちゃんは勢いのヒトだし、おばあちゃんは余計なことを言いすぎる。そういう性質が、死んだからといって神々しく別人格になるとも思えず、だとしたら。

 手を合わせ、いつものクセで、ねがいごとをしながら、思ったのです。

 ヘタなことを頼んで、大事な仕事に、あの人たちが余計なちょっかいを出した日には、うまく回るものもしくじりそうな気がする。

 黙って見ていることができないヒトたちなのです。
 ううむ。
 墓石をにらむ。
 ご先祖様のことは個人的に知らなかったから、みんな遺伝的に私につながる歴史上の偉人たちのようなものだったのだが、おじいちゃんとおばあちゃんとなれば……

 そうして、私は、唇を引きしめて脳裏でつぶやいたのでした。

「ふわふわおれについてきて、やさぐれた日常などを覗いたら、ふたりとも理解不能なことが多すぎるし刺激も強すぎると思うので、そこがどこかはわからないけれど、ふたりで仲良くのほほんと。興味本位で覗いて、なにバカなことやってんだタクミと思っても、いらぬ手は出してくれませんように。どうぞおだやかに、おとなしくそこにいてくださいませ」

 ……私は、物心ついてはじめて「冥福を祈った」のである。
 思えば、幼いころに亡くした母方の祖父にも、若くして亡くなった学生時代の友人にも、私は、ことごとく「願って」ばかりだった気がする。それが、なんだか。

 私はまだ起きていて、ごそごそとやっているけれど、あなたは気にせず。
 先に寝て。ぐっすりとね。
 おやすみ。

 そんなふうに「祈った」。
 たぶん、これが本来、墓の前で思うべきことなのでしょう。
 ともかく隙あらば、だれもかれもに願っていた、私は恥じる。
 なにが「おれも全力出すけれど」か。
 なにを言っているのだ。
 みんな死んだんだ。
 私は生きている。
 私は私で完結している。
 私の全力が、私の全力のすべてなのである。

 あたりまえのことなんだけれども。

 墓のなかに骨のカケラがある。
 霊魂がどこかにあるかどうかは知らないが、あっても私は自分の頭のなかもハードディスクのデータも覗かれたくはないし、そんなことを想像するのもイヤだ。

 おじいちゃんは死んだのだ。
 おばあちゃんも死んだ。
 神はいない。
 私はいる。
 私が触れる、だれかもそこにいる。
 言葉が届いた、あなたもそこにいる。
 灰になったおじいちゃんよりも、まだあなたに願ったほうが、実際的な効果もあるというものだ。という意味では、私にとっては、あなたこそ神である。

 願うのは、神に。
 祈るのは、もういない私の遺伝子の記憶に。

 祈って。
 さあ、おれも死ぬまで続けようか、と。

 それだけのこと。
 それだけのことだけれど。
    
 ああ、つたわっているかなあ。
 自分でもよくまとまっていないで書いている。
 なにか、このお盆の一日で、あの墓の前で、私の想いかたが、少しだけれど確実に、変わったのです。たぶんつたわっていないなあ。つたわらなくてもいいものだ、とも思うのですが。

 よくわからない話で、すいません。

 生きていきます。
 毎日、生きることが、たのしい。
 そのうえ、無垢なる精霊に向かってまでなに願ったりなんかしているんだよ、なにかほしいんなら自分を鍛えろっ!!
 そんな感じ。
 鍛えましょう。
 またしくじったけれど。
 つぎ、やってみせればいいんでしょう。

 ねえ神さまたる、あなた。
 見ていてください。
 私も見てる。
 生きているあいだは、私もあなたの神だから。

 うーん。
 散文詩のようだ(笑)。
 まとまったら、またつぶやきます。


 原題は『Bliss to You: Trixie's Guide to a Happy Life』。
 直訳ならば、『トリクシーが説く幸せな人生』。
 しかし、日本では、

「トリクシーって?」

 となるので、犬、と諸行無常な響きになったのだと思われる。

 残念なのは、クーンツのファンなら迷いなく買えるこの本を、日本のクーンツファンは人に勧めるときに躊躇するだろうということ。エッセンスが詰まった良い本だ。しかし、レストランに行くのをいっかい諦めて買うのなら『オッド・トーマスの霊感』を勧めたい。『犬が教えてくれた幸せになるヒント』の代筆者紹介にも書いてあるように「犬好きなら涙なくして読めない名作として有名」な『ウォッチャーズ』さえ、この国では、「くんつ? うぉっちゃーず?」という認知度なので、だったら千円ちょっとの薄っぺらいトリクシーの本よりも、ブックオフの105円コーナーにたぶんある二十世紀の名作を(あなたが犬好きなら特に)ぜひ読んでいただきたい。

 それでも、これはいい本だ。
 これを聖書のように、何度も読みかえしてしまう人は確実に存在するだろうし、実際に幸せになる人は多いだろう。事実、私はディーン・クーンツ・マニアでなかったら、どんな悪人になっていただろうかと、ときおり考えることがある。

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あなたがいちばん尊敬するのはどんな人?
その人たちのしていることが、あなたがすべきことなのかもしれない。


トリクシー・クーンツ
『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』

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 私が文章を書くのは、クーンツに出逢ったからだ。
 それで、どうこうしたいわけではない。
 どうこうしたい気持ちも、もちろんあるが、私がクーンツのことを尊敬するのは「書く」という行為によって、あきらかに自身の精神世界を深化させているところ。

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自分には世界を変えることなんてできない、自分がいるすみっこを明るくすることができるだけなんだって、わかるから 


トリクシー・クーンツ
『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』

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 そういう話は何度もした。

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『サイレント・アイズ』の話。
『対決の刻』の話。
『一年でいちばん暗い夕暮れに』の話。
『オッドトーマスの救済』の話。

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 そうなのだ。
 同じような話、けれど、前とは違う部分。
 多作であり、かつジャンルに囚われず、物語には囚われている。
 もがきながら作品を生みだしていることが如実に伝わってくる、その作家性こそを、私は愛す。

 このトリクシーの本は、だから、長年にわたってクーンツを読んできたものにとって、さまざまなことを思い返し、ああ、これぞクーンツだと肯ける、言葉のスナップ集である。ぱらぱらとめくっているだけで、クーンツ作品に救われた自分の人生さえ振り返ってしまう。

 だから、もし、あなたが、たんに老犬の表紙だとか「幸せになる」とかいう文言に惹かれてこの本を買ったけれど、うーんあんまり、と思ったならば、ちょっと待って。いったんこれは本棚に並べておいて、せっかくあなたの出逢ったディーン・クーンツという小説屋の小説を、何冊かゴミのような値段で買ってきて。幸せになる? 幸せじゃないのですか? だったら、ここにクーンツに人生変えられたとまで言っているのがひとりはいるわけだし、秋の夜長に、グダグダ考えている時間を、慣れない翻訳物の一冊でも読んでみたって、損にはならないと思う。そこは出逢いだから、読んだけれどやっぱりぴんと来ないという可能性はある。でも、それふくめて、触れてみないと。

 私も人見知りなほうだが、別に選ぶ言葉が似ているというわけでもないのに、なんだか妙に馴染むヒトというのに、ときどき出逢う。趣味はあわないんだけれど、嫌いではないヒトというのがいる。友だちとか、恋人とか、夫婦とか、絶対そうだと思うのは、同じものを見て、同じ感想を持たない、その多様性こそが、出逢う意味で、世界を彩る原動力なんだと思う。私のまわりにクーンツファンはいない。読んだことはあっても、私のように、それ無しで生きていけない、という人はいない。本棚に置いておくと、やってきた友だちや、妻も、読んではいるが、ふうん、といって本棚に戻す。ああ、あなたはこういうのが好きなのね。いや、好き、なんて言葉で表現されると、そうじゃないという気になるのだが。聖書が「好き」なんてヒトがいるか? それは、ただ触れて、己の血肉にするためのものだ。

 というあたりで気づく。

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ケーキは食べたらなくなるなんてウソ。あなたの一部になるの。


トリクシー・クーンツ
『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』

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 クーンツは私の一部。
 それは私の小指のようなものである。
 特徴であり、ああ、あの小指の変わったヒト、と記憶される部分。
 まあ、それでいい。

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匂いだって、ひとりひとりみんな違う。


トリクシー・クーンツ
『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 というわけで、私は延々と勧め続ける。
 だからといって、あなたがクーンツを読む必要はない。
 トリクシーは死んだ。
 犬だ。
 彼らの書いた本を読み、幸せになれるかといえば、それはあなたが、そもそも幸せになるためのなにかを持っているか、ということであり、無からなにかを生みだせる者はいない。

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インターネットのサイトをあたってもだめ。
これさえ読めば、なんていう本もない。
『富と名声と世界制覇への30日』なんていうタイトルのCDも。
役には立たない。

みんな自分なりの方法を見つけなきゃいけないのよ。
読んだり、調べたり、考えたり、祈ったりして。


トリクシー・クーンツ
『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』

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 なにもないや、あたしからっぽ。
 という夜にこそ、この本をお薦めしよう。
 け、とツバを吐く部分もあるだろう。
 後半、オッド・トーマス・シリーズを自ら引用する、根っから貧乏性なクーンツにも辟易するだろう。
 しかし、これは。
 一匹の犬と出逢って、人生変えられてしまった男の書いた聖書であり、私は、彼の書いた他の本も追ってきたので、彼にとって、その一匹の犬が、どんなに重要な意味を持っていたかを知っている。私にとっても、これは、本棚になくてはならない一冊なのです。

 『犬が教えてくれた幸せになるヒント』

 その紅い背表紙が、ときどき目にとまり、

「トリクシー。きみのおかげだ」

 と、つぶやく。
 それだけで、この本が私に買われた意味はある。
 生涯で初めての、犬が筆者の本。
 そんなのが手もとにあるだけで、ちょっと幸せです。

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あなたは幸せか不幸かを選ぶことができるし、それは周囲のできごととは無関係。


Trixie Koontz

トリクシー・クーンツ
『犬が教えてくれた幸せになるヒント ~Bliss to You~』