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 去年の夏くらいに、いろんなところで話題になっていたので、ご存じのかたも多いでしょうが、こういう文章。

 こんちには 目が さためら たよいう が まど から さしんこで 
 手を かざたしら けかっん が きえのだ みいたに みえた
 わしたが なにを しべっゃて いのるか わりかすまか?

 単語の最初と最後があっていれば、途中の順番はおかしくても、流し読めてしまうという。もともとは英語での研究なのだけれど、日本語でもできるかというのを試すときには、このように、ひらがなで、句読点を入れずに、文節ごとに区切って書く必要がある。
 英語では、もともと単語と単語のあいだに空白が空くので、日本語の場合よりも、ずっと自然にめちゃくちゃな文章を読むことができる、ということなのだが、

Olny srmat poelpe can raed tihs.
I cdnuolt blveiee taht I cluod aulaclty uesdnatnrd waht I was rdanieg.

 まあ、なんとなくわかるが、日本語ほど直感的に入ってこないのは、私の英語力の問題なのだろう。それはともかく、この能力はいったいなんの役に立つかといえば、文字いっぱいの書類を、チラ見しただけでだいたいの内容がわかるとか。とても遠い壁に書いてある広告の文章が、最初と最後がかろうじて見えているだけで、なにを買うべきかわかるとか。正直、どうでもいいようなことにしか使い道がないような気がする。

(余談だが、『探偵ナイトスクープ!』で、プロ野球選手の球を素人ながらにかっ飛ばした速読者さんが評判を高めていらっしゃるが……格闘技好きとしては、でっかいパネルの前で何時間も視界の隅で点滅する電球を追うという「最先端」な動体視力トレーニングを実践したにもかかわらず、たびたび視界の隅から飛んでくる敵のアッパーは避けられず判定勝敗の多い選手人生の末、ついに今年で引退するK-1選手、武蔵の姿などを思い返すに、その速読動体視力なんかも、やっぱり生まれつきの個体差というものがあって、速読術の本を読んだからといって、劇的に飛躍するものではないのではないかなあ、と思ってしまう。スポーツ観戦好きの弊害だ。努力した選手は勝ってくれないと、こっちの人生まで懐疑的で気の滅入るものになってしまう……黙々と壁を蹴り続けたミスターストイック小比類巻太信もまた、引退すると今週発表した。世界にはとどかなかった、悔しい、と。悔しいのは、あなたに喉をからして声援を送っていた、こっちもなのである)

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 その一方。
 文字仕事にたずさわるならば、そんな能力はもぎとって捨ててしまいたいと願うヒトのほうが多いと思う。いままさに、先日のブログのなかの文章で「わすれらず」というのを見つけてなおしたところ。ブログごときどうでもいいが、大事な原稿だって、推敲しても推敲しても、こういうことが起こるのだ。なにが悪いといって、曖昧文書ナガシ読みデキール能力が、だれもにそなわっているがゆえに、発売された単行本にも誤字脱字大量発生なんていうお粗末なことになるわけである。

 と、いうことは、だ。
 むしろ、そういう能力を持ったヒトこそが、能力者と呼ばれるべきなのである。
 「わすれられず」が「わすれらず」になっていたら、意味がまったくわからず、その先に読み進むことができない。そんなヒトが、ひとりでもいれば、この世の商業出版物から劇的に脱字が減るに違いない。それはなにげに、高い値で売れそうな超能力者だ。

 細かいことに気がつくひと、というのはいる。
 私も、どちらかというと、ネクタイが曲がっていたり、脱いだ靴がそろっていなかったりすると、そのひとの性質を好ましく思わない側の者ではある。そういう私が日々、数千人を接客していると、どうにも解せない相手にも出遭ったりする。

「いや、にいちゃん、ここのな、このカーブをもっとなめらかにしたいわけやねん。このビットでかすぎんねん、もっと繊細な作業できるんがほしいんや」

 とか。土地柄なんでしょうか。
 メガネ二枚重ねて、なんの部品だかよくわからないものを持ってきて、試行錯誤したがその曲線は彼の美意識では及第点をとれないものらしく、それ以上は自分の腕ではなく、そもそもドリルの先につける回転ヤスリが無骨すぎるからいかんのだと。店にないなら取りよせろ、金はいくらかかってもいいから、とか(実際「金はええねん、取れるんか」というのは、ツナギを着た人たちの合い言葉のようである。承りましたと言いながら、それぜったい赤字でしょうといつも思うんだけれど。それが職人気質というものなのだろうなあ。できない仕事が来たときこそ赤字になっても設備投資。それができるきっぷのよさがないと、仕事はつかめないんだなあ、と常連さんの顔を見ると思います)。

 で、その美意識のかたまりたる、繊細さの求道師たる、そのおっちゃんの両方の鼻の穴から、わっさーっ、と鼻毛が出ていたりする。もちろん耳毛も。そういうことは多い。ポケットマネーで鼻毛カッターを買ってあげたいと思うくらい、イライラする。そこまで顧客に気をつかうなら、仕事に誇りを持つのなら、身だしなみもある程度はいるんじゃないかしらん。
 とんねるずの『きたなシュラン』を見ていても思う。美味いんなら、店をもうちょいきれいにすればもっと売れるんじゃないの? でも汚いから番組で取りあげられているわけでもあり、それが行ってみたらきれいだった、では期待を裏切ることになるのか、とか……
 だからあのおっちゃんも、あえて鼻毛も耳毛ものばしているのか、それは仙人が決まって白いあごひげを生やしているようなものであり、それはそれで身だしなみなのだろうか。

 いや、そんなわけはない。
 などということを考えながら喋っていると、怒られるのである。

「きいてんのかにいちゃん、ちゃうがな」

 迷惑きわまりない。
 同様な理由により、腕の見える場所にタトゥを入れているお兄様とか、真冬でもホットパンツにハイヒールなお姉様とかいうのも、迷惑だ。実に興味がわくのである。見たいが、見てはいけない、しかしそうそう出遭えるものではないので観察したい。で、妙にテンションの高いしゃべりになって、レジまで案内して待たせるのもなんなので空いたレジで自分で打って、おつりを間違えるとか、そういうことは多々ある。

 なにが言いたいかといえば。

 中間地点を歩き続けることはむずかしい。

 中道は、どこにもない道なのである。
 見えない場所にタトゥを入れると今度は見える場所に入れたくなるし、職人気質をきわめると鼻毛が唇に触れるまでのびても気にしなくなる。

 デタラメな文章はデタラメと気づきながらも読めるが、正確な文章のなかの誤字は気づけない。文字だけに集中すると内容がよくわからなくなってくる。

仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化仏公化

 「仏」「公」「化」は、認知心理学的に、文字のゲシュタルト崩壊が起こりやすい漢字だとされる。ゲシュタルト崩壊とは、文字に限らず、モノの全体像がぼやけてきて、パーツに分解され、なにがなんだかよくわからなくなってくる現象をいう。

 あまりに脳内で異性を美化していたため、実際に生身の異性とつきあうようになったら、なんだかよくわからないことになって、極端な性的嗜好が身についてしまう、という例はよく聞く。

 あれ、この字って、こんなだったっけ。

 そう思ってしまったら、もうもとには戻らない。見れば見るほど、書けば書くほど、違和感が大きくなってくる。それでも、「仏」「公」「化」の壁紙がみっちり貼られた部屋で生きていかなければならないのなら、それを好きになるしかないのである。

 で、むしろそれなくしては生きていけなくなり、なんだか快楽めいてきて、あはは、とあられもなく笑えるようになったころ、ヒトに言う。

「これってなんか、気持ちよくない?」

 友人は、一歩ヒいて答えるだろう。

「ただの字じゃん」

 いやむしろ、あたしはもっと崩したいのにな、なんでこれが伝わらないんだろうと嘆くものの、ゲシュタルトが崩壊しているのは自身のうちでだけなのだから、それがだれかに伝わるはずがない。

 かなしい。

 デタラメな文章を、当たり前に読めてしまう能力は、文字が読めるすべてのヒトにそなわっている。だからこの事例は共感を呼ぶし、不思議だけれど当たり前のこととして処理もできる。

 けれど、一冊の本のなかの、たったひとつの誤りをさがしだす作業は、違う。それを専門にやっている仕事師がいるのかどうかは知らないが、そんなことを毎日やっていると、きっと文章すべてがバラバラなパーツとして認識されていくようになるだろう。

「まいどあがりとうごいざます」

 礼を言われていることは、わかる。
 でも、わざとなら、バカにされているともとれる。
 文章の校正に人生をかけているひとの目には、悪だとさえうつるだろう。
 意味が通じればいいというものではない。

 最近、敬語でしっかりしゃべっているヒトが、当たり前に「マジですか」というのが気になってしかたない。いやマジですかは敬語ではないと思うんだが、意味はわかるし気持ちもわかる。でもなんかイヤだ。かといって、いつも「マジですか」と言うやつが「本当ですかヨシノギさん」などと突然言いだしたら、バカにされているようだ、と私は感じてしまうに違いない。

 なにかが、崩壊しているのだと思う。
 大きな声では言わないが。
 デタラメな文章を読んでいるような、違和感をおぼえることがある。
 違和感をおぼえるということは、なにかをじっと見つめられているということなのだろうけれど。
 違和感をおぼえないということは、自分の鼻からのびた鼻毛も気にしないということなのだろうけれど。

 そうじゃなくて、もっと見るべきところがあるんじゃないのか、とか。
 もっと思いもつかないところから実は恥ずかしい毛がのびているのを、私だけが気づかずにさらけ出して生きているのではないのか、とか。

 デタラメな文章も、実は当たり前に読めることが当たり前なように。

 うーん。
 よくわからない話で、ごめなんさい。

 ところで、日本で禅を学んだユダヤの精神医学者フレデリック・パールズが提唱するゲシュタルト療法は、漢字を見つめると粉々になるというゲシュタルトの崩壊を逆手にとったものだといえる。

 要は、じっと見つめたら文字の意味がわからなくなってくる、その瞬間を見計らって、ガシャンっ、と自分好みの自分にあらためてしまおうという、いわば一種の自己洗脳(とかいうと、ファンのかたに怒られるかもしれませんが)。

 バールズが、ワークショップで好んで読んだ詩が『ゲシュタルトの祈り』として有名です。

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GESTALT GEBET

Ich lebe mein Leben und du lebst dein Leben.
Ich bin nicht auf dieser Welt, um deinen Erwartungen zu entsprechen -
und du bist nicht auf dieser Welt, um meinen Erwartungen zu entsprechen.
ICH BIN ich und DU BIST du -
und wenn wir uns zufallig treffen und finden, dann ist das schön,
wenn nicht, dann ist auch das gut so.

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 ドイツ語なので、世界的には、英語で書かれたもののほうが知られていて、しかし、その時点で訳しかたに難があるというひともいる。ていうか、もとのドイツ語版からして、いくつかのバージョンがあったり。

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Gestalt prayer

I do my thing and you do your thing.
I am not in this world to live up to your expectations,
And you are not in this world to live up to mine.
You are you, and I am I,
And if by chance we find each other, it's beautiful.
If not, it can't be helped.

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 それが日本語になると、もうまったく正反対の意味の一文に訳されていたりすることもあって、微妙な解釈がひとによって違うのこそ、日本語というものの奥深さだと実感できる。
 おもしろいので、私も訳してみる。

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ゲシュタルトの祈り。

ぼくの生きかた。きみの生きかた。それは、それぞれのもの。
ぼくがこの地上にいるのは、きみの期待にこたえるためではなく、
きみがこの地上にいるのも、ぼくを満足させるためではなくて。
きみは、きみ。ぼくは、ぼく。
そのうえで、おたがいを見つけられたら、すごくいい。
そうでなかったとしても、それはそれでいいんだし。


(吉秒訳)

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 きみとぼく、とあえて好みから訳したけれど、それは子が親に対してだったり、逆だったり、国民が国家に対してとか、ひとによっては、我々と神、なんていう解釈だってありだろう。Beautifulっていうのは、美しいというよりも、すげー、って感嘆をあらわしていると取った。最後の行の訳しかたがむずかしいんだが「いまここにある己のカタチ」を重視するという意味では、個と個が出逢いもせず、わかりあうことさえなくても、それでもそれぞれは人生を歩んでいるのだから、ビューティフルやん。という感じだと私は訳したのですが。本当はもっとクールに、

「出逢うことよし、出逢わぬこともまたよし」

 と、まさに禅の問いかけのように訳すのが、いちばん気分を出せているのかもしれない。それぞれは等価である。つい思ってしまいがちだけれど「出逢ってわかりあえたほうが良し」では絶対ないというところが肝要。そういうしがらみを、過去を、すべて解体し、バラバラになったマッチ棒で、いまの自分のシンプルなカタチを追い求め、それを愛する。

 それがゲシュタルト。
 カタチを追う前に、まずこわすことが必要。
 よくわかんなくなるまで煮詰まってこそ、そのさきに、こねたらできあがる新しいカタチのぼくがいるわけです。
 だから悩め。
 壊れてしまうまで。
 ゲシュタルトが崩壊して、新しく生まれる苦しみを、快楽ととらえられるまで。

 と、これもまたよくわからない話をぼそぼそつぶやいて、今日はおしまい。

(こんな話をしているのは、 EPOさんの日記を読んだから。格闘家とおなじく、癒しの歌うたいでありカウンセラーでもあるひとが、荒れた文章で愚痴っているのを読むと、こっちがおだやかな心持ちになってくるのでした(笑)。いや笑っちゃいけない。でも悩めるセラピストって、ジョークみたいな響きです)

Gestalt
NieR Gestalt




 あこがれと、実際はちがう。
 自分の頭のなかから出てきた犬によって名をはせ、映画化もされ、その後の作品でも、神聖な象徴としてあまりにもひんぱんに犬を描いてきた。幼いころは犬を飼えるほど裕福ではなく、アル中の父に殺されかけ、犬に象徴されるしあわせな家族をあこがれ抜いていた少年が、青年期に小説を書きはじめ、青春と呼べる時期に出逢った運命の女性からの、金銭も含め多大な献身を受けながら書き続け、気がつけばベストセラー作家になっていて、やっと本当に飼った犬。
 そのはじめて飼った犬を、亡くした年に書いた小説。
 
 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

 今回は、作品の前におなじみの『悲哀の書』も『歓喜の書』も引用されない。ただ、妻にあてた一文が添えられている。

「この世で心から慈しみ、無償の愛を注いだ金色の娘に、来世でいつか大喜びで迎えられるだろう。」

 この語りかけからして、妻ガーダの「娘」トリクシーを亡くした悼みは、そうとうのものだったのだろうと推察できる。クーンツが、こういったリアル家族への気遣いを人目に触れる場所であらわすこと自体がめずらしい。彼らの今後の人生は、新しい犬を飼っても、小説を書いても、それはそれとして、向こうで待っている娘に、また逢うまでの長い待機時間となったのだ。

 クーンツ夫妻のように、ふたりの家に、ふたりで計画して、長年のあこがれだった一匹の犬を招き入れる行為は、ひとつの側面から見れば、犬好きにとっての自殺行為である。血のつながった子供はあきらめるくらいの年齢だが、まだ老衰には遠い夫婦が犬を飼うと、突発的な不幸な出来事が起こらない限り、ほとんどの場合、ふたりよりも先に犬が逝く。まして、捨て犬をやむなく育てる、などということではなく、飼えば愛してしまうとわかっている犬を、選んで飼うのである。
 愛犬が死んだら私も死ぬ、というような人は、犬を飼うことはできない。

 今作の、印象的な一節。

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「犬の命は短い。あまりに短い。だがぼくらは最後のときが迫るのを知っている。やがては痛みがやってくることを、犬を失うことを、激しい苦痛に襲われることを。だからいっしょにいられる時間を精いっぱい生きようとする。彼らの無邪気な喜びや楽しみを、余さずわかちあおうとする。なぜなら、犬が一生の友だちでいられるという幻想を、信じることはできないからだ。このつらい覚悟には──耐えがたい代価を払うことを知りながら愛し、愛されるということには──すばらしい美しさがある。たぶん犬を愛するということは、ぼくたちが自分に許しているほかのすべての幻想や、そうした幻想のためにぼくらが犯す過ちに対する、償いをするということなんだろうな」


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

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 彼は世紀末に立て続けに大作を書き、新世紀には幻想の息子を生みだした。そのすべてが犬さえ飼えなかった貧困のなかで、愛さえもなく父の浮気と暴力に悩まされた、その反動から生みだされた幻想だと私が言い切っても、彼は怒ったりはしないだろう。

 そして、彼はすべてを手に入れた。
 他人もうらやむ愛と正義のベストセラー作家だ。
 彼は家族を欲し、子供のいないかわりに夫婦が家族に迎えたのは、彼の名声を決定づけたあの『ウォッチャーズ』に代表されるあまたの作品に登場させてきた、ゴールデンレトリーバー。
 トリクシーは、彼のはじめて飼った犬だった。
 一生の友だちでいられるという幻想を、クーンツが信じていなかったのは本当だろう。小説家は幻想の紡ぎ手であり、同時に機織りの実際を知っている現実主義者でもある。

 けれど、トリクシーが逝ったとき。
 やっぱり彼は、書けなくなったのだという。

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『オッド・トーマスの受難の販促活動とトリクシー・クーンツのための祈り』のこと。

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 今作の邦訳の販促帯には、こう書かれている。

「サスペンス・ホラーの巨匠の
 犬愛がほとばしる!
 犬のもたらす奇跡を信じるあなたへ贈る
 至高のドッグストーリー」

 おそらくは、クーンツ作品に精通したどなたかが書かれたのだろうが、クーンツ信者のひとりとしては、今作を読み終えて、この帯文句は違うと思わざるをえない。

 これでは、サスペンスもクーンツも知らない犬好きなひとが、犬という動物によって癒される人々の姿を描いたヒューマンストーリーだと思って、手にとってしまいかねない。まさしくそれを期待して書いてはあるのだろうが──それは違う。
 今作で、確かに犬は奇跡を起こす。
 しかし、それは、あのクーンツ・タッチでの奇跡なのである。

 え?
 と、クーンツを知らないひとは戸惑うだろう。
 帯を書いたひとは、自分がクーンツを好きなものだから、犬愛を描いた物語だと信じ込ませて読ませても、読者はクーンツ節にメロメロになって帯の文句がいまいち的を射ていないことも忘れてくれるだろうと楽観したのだろうが、犬好きを舐めてはいけないのである。犬好きが、犬が描かれていると期待して買った本に、的を射ていない内容が詰まっていたら、それはもうゴミ箱行きである。犬好きの、犬に対する愛は盲目的だ。そんなことは、クーンツ好きならばわかっていなければならないことなのだが。

 正直、傑作である『オッド・トーマスの霊感』にも、あのコヨーテのシーンはいるだろうかと思っている私がいる。『インテンシティ』のエルクもそうだ。しかしそれらは、あきらかにクーンツが、妥協して描いたイメージであることは間違いない。
 本当は、ゴールデンレトリーバーを出したかったのである。
 でも、それはもう、主役から脇役からチョイ役まで、彼の作品のあまたに登場させすぎていて、さすがに編集者も助言したのだろうと思う。

「また脈絡なく神秘的なゴールデンの登場ですか?」

 そしてやむなく、彼は犬種を変えたり、種族を変えたりしてみたのに決まっている。けれど、彼の描きたいことは、どの作品を読んでも、はっきりしている。
 彼の愛もまた、盲目的なのだ。
 あらわれた瞬間から、その動物たちは天使なのである。恐ろしく、そして同時に救いの象徴でもある。それに出逢ったことそのものが、特別な存在。もしもクーンツが彼の小説の主人公だったとしたら、人生の窮地で、目の前にゴールデンレトリーバーがあらわれただけで、それは奇跡が起こっているのであり、それによって主人公たるクーンツ少年は救われてしまうのだと思う。

 あの、父に刺された夜にも。
 そばに犬がいたらと、クーンツは思い続けていたはずだ。
 家にゴールデンレトリーバーがいれば、酔って暴れるあの父も、別の一面を見せていたかもしれない。
 奇跡は起こっていたはずだ。
 そういう幻想を、抱かなかったはずはない。

 そのクーンツが、トリクシーの死によって置かれた筆を、もういちど手にとった。
 書きはじめた小説は、家に犬がいても、その犬もろとも家族を虐待しつくしている、アル中の男の登場からはじまる。その家に、今作の主役である女性、エイミー・レッドウィングはのりこんでいく。彼女は、傷つけられているゴールデンレトリーバーを救護するドッグ・レスキューを営んでいる。

 とんでもなく直接的な設定である。
 クーンツらしくもない。

 今作は、全体的に、ディーン・クーンツの運命論語りが過剰なきらいがある。
 ありふれた一般人と、この世の悪との対比こそが、彼の作品の核だったはずなのに、エイミーは、私財を投げうってまでゴールデンレトリーバーを救うという、ちょっと特殊な人生を送っている。冒頭から暴力男と対峙するが、彼女は金の力で問題を解決するのであり、しかも暴力を受けている妻や娘ではなく、ペットの犬に対する哀れみでいっぱいになっている。むしろ、その家から犬を連れて逃げ出さない妻には苛立ちさえ感じている。そのうえ、彼女がその犬を救うのは、それがゴールデンレトリーバーだからだ。マルチーズなら救っていなかった。彼女は、すべての犬を救うわけではない。

 この設定は、一見するとゴールデンレトリーバーを喪ったクーンツの、盲目的な愛情の暴走のように思えるが、一方で、ディーン・クーンツの無力感が投影されたものだとも感じられる。

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自分が世界を変えていると思ったことはなかった。世界を変えることはできない。これほど多くの人々が犬たちの苦しみに無関心なのは、世界は堕落しており、いつか裁きがくだる──くだるにちがいない──ということの証拠だと思われた。


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

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 彼は幻想を描き続け、しかしなにが変わったわけでもない。
 多くの夢は叶ったが、その先でも彼はまだ、かつての家族のことを思っている。
 犬がいても、彼の少年時代は変わらなかった。
 それどころか、あの少年時代がなければ、彼はいま、小説を書いていなかったに違いない。そもそも金のために書いていたのであり、ポルノやB級ホラー出の作家である。その後、彼は名声を手にすることになるが、そこからの作品の根底にあるのは、愛と正義の人と呼ばれながら、どこか世界を遠巻きに眺めている、斜にかまえた視線である。
 自分の父の劣性遺伝子に怯え、この世に絶対悪はあると言う。
 幻想は、幻想にすぎないと、言う。
 トリクシーは自分の娘だと言う、その同じ身体で、書く原稿には、犬を愛するという行為さえもが、人間の世界にはそんな無償の愛はないどころか愛があらそいのタネになる、そのことの償いだと記す。

 そんなクーンツの、犬がもたらす素晴らしいことの代表格は、これである。

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たとえなにか不思議な、状況からして超常的と言っていいような出来事が起こり、同時に眠っていた過去がとつぜん目を覚まして背後に迫り、その結果──その人にどう思われるかがきわめて重要なたったひとりの相手に──いままでしたことのないようなつらい告白をするはめになっても、犬には餌をやり、散歩をさせ、その日最後の糞を拾わなくてはならない。


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

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 金がないために書けないのならば、まずバイトしてから書けとクーンツは言う。
 自分は妻に食わせてもらいながら書いていたにもかかわらず──いや、だからこそ、か。
 書けない理由を排除することがまず作家の仕事だ、と。

 そういうことをつきつめた結果、彼はまったく自由な専業作家の身分で、もはや一冊も書かなくても世界中から冨が集まってくる著作群を書きあげたいまだに、スケジュール通りの毎日を送ることを自分に課している。

 ノーベル平和賞を五回ことわった男、マハトマ・ガンジーは、こう言ったらしい。

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 彼女が以前読んだガンジーについての本には、ガンジーは彼を信奉する者たちに、毎日自分とおなじように時間をさいて糸巻き車を回すよう言っていたとあった。


 トマス・M・ディッシュ 『M・D』

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 その結果、ガンジーは死ぬまで考え続け、クーンツは物理的肉体的問題が起きて書けなくなるまで書き続ける、一種の生きた機械になったのである。もはや彼らのうちで、成し遂げたことは過去のことであり、未来もまた来たるべくしてくるものであり、ただ、毎日とは規則的になにかを生みだすための舞台となる。

 ところで、私は、猫を飼っていたことがある。
 猫は、待て、と言っても、餌を前にして食べずにいたりできない。
 猫は、私のひざに甘えてくるかどうかは、気分次第だ。
 犬好きと猫好きの大きな違いは、そこにあると思う。
 クーンツのそばで、トリクシーはじっと小説を書く彼を見つめていたという。
 外は天気で、絶好の散歩日和でも、彼女は、散歩の時間が来るまで動かないしねだったりもしない、クーンツの一部であった。それが犬だ。
 私は、きっと彼女が気になって原稿を書いたりできない。
 窓の外を見て、自分から昨日よりは早い時間だが散歩に行こうかと言ってしまいかねない。

 だから私は、クーンツを師と仰ぐ。
 彼は機械になりたいと、願ったことは、たぶんない。
 きっと願ったのは、平穏だ。
 幸せな家族。
 毎日の仕事。
 その徹底的な凡庸さへのあこがれが、彼を非凡にした。
 徹底的に平和を愛し実践することが、どんなにむずかしいかを、知らない人類はいない。

 そうして書かれた今作は、犬を描いているが、なんら奇をてらった企画モノというわけではなく、いつものクーンツ・タッチ。
 それがすごい。
 娘が逝った。
 しかしクーンツは、書き続けた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 四頭の犬たちがのんびり交流している最中にエイミーがやってくると、レナータは電話で頼まれていた双眼鏡を差し出した。
 エイミーはそれで遠くのジャカランダのほうを振り返って焦点を合わせ、ランドローバーを見た。
 木々は紙幣のような影と二、三のコインのような光をフロントガラスに散らし、運転席にすわっている男──男だとすれば──の顔を見えなくしていた。


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 小さな家を、遠くの木陰から見つめているランドローバーの男。
 それを双眼鏡で見つめるヒロイン。
 物語がはじまってすぐのこのシーンに、新規読者はドキドキするだろうが、クーンツ信者はうなずく。ああ、このパターンなんですね、先生。これがマンガだったら、同じシーンをコピーして使い回しているのではなかろうかと疑いかねないくらいに、この場面は『対決の刻』で、殺人者がUFOマニアを殺す直前に双眼鏡を覗くところに酷似している。違うのは、遠くの木陰に隠れた車の搭乗者と、双眼鏡での観察者の立場が、まったくの逆であるという点だけである。
 だけである、などと書いたが、たいていの場合、それは大きな違いだ。しかし、クーンツ作品においては、それは些末なことなのである。運命とは、ひとつの物語。追うのも追われるのも、同じこと。物語の行方は、決して揺らがないのだから。

 クーンツにとって、このプロットは若くして到達してしまった、ひとつの理想型なのだろう。
 主人公は追いかけられる(もしくは追っている)。
 理由は生存のため(追っている場合は愛のため)。
 それだけ。

 追ってくるのは、邪教集団であり、悪魔であり、なにかに操られた人々だったり、追っている場合には、相手は異常性を兼ねそなえた凶悪な誘拐犯が多い。今回の展開では、彼らは追うことになる。バレでもなんでもなく、彼と彼女は、愛するものと、犬のために、みずから悪魔のごとき異常者を倒しに車を走らせる。
 それだけ。

 数年おきに現れる、この黄金のクーンツプロットだが、これこそが師の強み。あきらかに、画期的で斬新な大作のためのプロットがまとまりきっていないので、今年は、いつもので書いてみた、という……言ってしまえば「おやくそく」のそれ。毎日書き続ける。その結果、毎年、本が出る。ネタが尽きることはある。けれど、クーンツには、このプロットがある。

 こう書くと、なにか彼が手を抜いているかのようだが。

 だがしかし、クーンツ好きな人々は、書評に「クーンツお得意のジェットコースター的展開」などという文言を見てしまっても、興味を失ったりはしない。なぜなら、それはもはや「型」であり、論じるべき点ではないからだ。クーンツを好きな私は、プロレスも好きだ。スポーツは筋書きのないドラマというが、そこに筋書きがあれば、観客の興味は、別のところへ向く。興奮も感動も、すでに約束されているのだから、プロレスを観るときには、ボクシングを観るときのように、息を飲む必要はない。目を向けるべきは、その筋書きのなかで、いかに選手が個性を発揮するか。いかに昨日よりも高く飛んでいるか、昨日よりも大きくなっているか。観たことのない技も、もちろんあればうれしいけれど、それ以上に、観たことのあるおなじみの技こそを、あますところなく試合に詰め込んでくれているか。

 そういう意味では、今作は、絶賛にあたいする。
 クーンツ作品を追いかけてきたものならば、読みながらジャイアント馬場の十六文キックを、アントニオ猪木の卍固めを、リック・フレアーのグーパンチを、三沢光晴のローリングエルボーを、一試合のなかで何度も観せられたかのような、涙まじりの笑顔を浮かべてしまうだろう。思わず、神に感謝の言葉をつぶやいてしまうかもしれない。それくらい、そこかしこでデジャヴが起こる。

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「トウフだよ」シュンペーターが言った。「週に三回トウフを食べていれば、前立腺ガンにはならんよ」


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

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 この一文でクーンツの『チックタック』を読んだ者ならば、瞬時に黒魔術人形に追われるトウフボーイを思い出して微笑まずにはいられないはずだ。

 そう。
 トリクシーが読んでも、笑うだろう。

 彼女のためにサスペンスの巨匠が書いた?
 いや、これをサスペンスなどと呼ばないでもらいたい。
 「状況からして超常的と言っていいような出来事」も起こりまくる。

 ディーン・クーンツは、ミクストジャンルの帝王だ。
 トリクシー・クーンツも、その彼を育てたひとり(一匹)である。
 
 クーンツが、自身の作品をジェット・コースターと呼びたとえられることについて言及したインタビューはいくつかあるのだが、それらを引用しなくとも、物語を走り続けさせる、その速度を重視する、という考えは、つきつめていくと、今作中のこの一文にあらわされているのではないかと思う。

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移動するという行為は、安全という幻想をはらんでいる。それは、運命にも自分たちを見つけることはできないという漠然とした感覚だ。運命は、さっき自分たちが旅立ってきたドアの前に立ち、ゆがみやねじれをもたらそうとして扉をたたく。けれども回転しつづけるタイヤの上にいるかぎり、わたしたちはそれを免れることができる。


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

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 クーンツ作品は、モータリゼーションがなければ、成り立たない。
 そしてそれは、特にこの島国日本では、特殊な意味を持つ。
 日本は車大国である。トヨタの例を出さなくても、日本車が世界から消えたら、粗悪な車が増えて事故は増えるし、失業者もあふれかえる。だがしかし。車を作って、みんなが車に乗る国だが、ここでは、車が寿命を迎えるまで乗り潰されるなどということは、めったにない。

 よく、アメリカの映画では、ビール片手に砂漠を行くトラック運転手などが出てくるが、あれにしたって、酔っていても走れる広大な土地があるからで、ああいう風景は、砂漠のない国に住む者には、なかなかぴんとこないものだ。

 今作でも、いつものようにクーンツのホーム、オレンジ郡から物語ははじまるが、最終的に主人公は霧にむせぶゴールデンゲートブリッジを車でわたることになる。告白は車中でおこなわれ、ゴールデンレトリーバーは後部座席に乗っている。作中で、だいたい700kmの距離を移動したことになるのだが、それも、悪の女王にエイミーの恋人が「こっちに来なさい」と命じられて、一日で行くのである。

 日本で私の住む大阪から700kmというと、長崎まで行けてしまう。日本のずっと下のほう。もはやすぐそこが韓国というところである。ちなみに地図検索してみると、九時間ほどで行ける。まあ、無理な数字ではない。しかし、どんなにモメているといっても、別れた女から今日中に車で来いと言われたら、わかったとはぜったいに言えない距離だ。ありえない。

 しかし、大きな国に住む人たちにとっては、別の場所に住む人に会いにいくというのは、そういうことなのだ。そういうこともあって長期のバケーションをとったりするのかもしれないが、この国のように、あしたの休みにちょっと実家に、というのとは規模が違う。そして逆に言えばそれは、地続きであるほかの国に、その気になれば眠らずに車を走らせて、いますぐ会いに行けるということでもある。

 島国、とよく言われるが。事実、飛行機や船を使わなければ、この国からは外に出られない。せいぜい700km。そこから先は、他人の操縦する背中に乗るしかない。生まれたときから車があるのが当たり前になったこの国だが、車がなければどこかに行けないわけではないし、車があってもほかの国に行けるわけではない。この肌感覚は、圧倒的な差違だと思う。そのあたりが、クーンツに限らず、世界中でヒットした映画やゲームも、日本ではスピード感だけをウリにしては興行的な好成績をおさめることができない、ひとつの原因のような気がする。日本生まれの超音速のハリネズミ、ソニック・ザ・ヘッジホッグが、国外でこそ人気者なのも、同じ理由によるのだろうと推察できる。

SONIC

 しかし考えてみてほしい。
 ソニックのように、スタートしたらゴールまで一直線のゲームだからこそ、プレイヤーを飽きさせないためには、さまざまな要素が必要になってくるのである。それは大変なことだ。大変なことだから、えてして気弱な制作者は、シリーズを重ねるうちに、ソニックに立ち止まって語らせたり、必要以上の謎を詰めこんだりしてしまいがちなのだが。もちろん、それは誤りである。

 低迷するサイエンスフィクションとホラーに、もっと多種多様な要素を足してみてはどうかと試みたトマス・M・ディッシュの名作『M・D』に対し、ディーン・クーンツは、こんな讃辞をおくっている。

「『M・D』を読むのは無上の喜びだった……あらゆるジャンルの鎖を打ち破った小説だ」

 クーンツは乱読家だ。読んだことのないものは書けないと言いきっているし、知識のコラージュこそが小説だと公言してもいる。そんな彼だが、悪魔が出てきて魔法の杖を使った対価を要求してくるという乱暴なプロットで書かれたディッシュの作品に、出したコメントは読者としてだった。きっと、コメントを求めた側は、ミクストジャンルの帝王たるディーン・クーンツが、ニューウェーブと呼ばれる奇才がジャンルの垣根を破壊した小説をどう評価するのかが聞きたかったのだが、師は、思いきり褒めただけだった。

 『M・D』は傑作である。
 だけれど、それは、実験的に小説という垣根そのものを破壊しようとしたニューウェーブ運動の、ひとつの到達点でもあった。
 クーンツは、それをライバルとしては見なかった。
 ひとつの時代のなかで傑作に出逢えた、いち読者としての悦びを感じはしたが、それは実験の成功ではあるけれど実際的な小説というメディアの進化ではなく、自分の書き方に影響を与えるものではないと感じたのだろう。

 クーンツがジャンルの垣根を越えるのは、ただ単に、地続きであると、どこにでも行けるから。似通ったプロットで、しかし毎回ちがった方向へ物語を走らせるためには、サスペンスも、ホラーも、SFも、行く気になれば行けるが、今回は行くかどうかはまだ未定、という緊張感を作品にもたらすことが、必要だったから。

 ディーン・クーンツを、小説界の運動家だと、とらえる者はいない。
 彼がやってきたことは、徹底した、王道の進化であり、深化だった。
 既存の小説を破壊するために新しい波を起こし、ひとつの到達点を見たトマス・M・ディッシュは、一昨年、拳銃で自分を撃って死んだ。
 その先に、道はなかったのだろう。

MDMD

 糸巻き車を回し続けたら、どこかにたどりつく。
 それはしかし、明確な目的地があった場合のこと。
 毎日、編んでも、書いても、どこにもたどりつかないのが人生だ。
 という人の心にこそ、クーンツ・タッチは染みわたる。

 作中で、日記にふれた箇所がある。

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 己の人生には日々記録をする価値があると考えるのは、男よりもむしろ女のほうだ。とはいえほとんどは〝神がわたしを素晴らしき旅に導きたもう〟といった意味ではなく、むしろ〝誰もわたしをわかってくれない〟という感傷で、それを人生の意味と勘違いしているにすぎない。そして、ふつうは三十になるころには日記をつけるのをやめる。なぜならそのころには、あまりに恐ろしくて、もう人生の意味をじっくり考えたくはなくなるからだ。


 ディーン・クーンツ 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

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 なにが恐ろしいのだろう。
 あまりにも、同じことばかりだから?
 あまりにも、退屈だから?
 けれども、あきらかにクーンツは、日記を書くことを良いと思っている。
 これをつぶやいているのは、生ける悪なるヒールキャラ。
 クーンツ自身は、むしろ日記を愛する性質を女性の美点とさえ感じているのかもしれない。

 暴力から逃れ、自分は違うイキモノになろうとした。
 繰り返すことで、走り続けることで、人生はどこにもたどりつかず、しかしその車中にこそ愛はあると説く……後部座席には、ゴールデンレトリーバーという、奇跡も座っている。

 邦訳の帯は、言いあらわしていない。
 この作品は、逝ってしまった娘に対する別れの言葉ではなく、それでも書き続ける男の、強い覚悟である。犬を愛するあなたにだけ贈ったものではなく、すべての走り続ける者たちへの、巨匠からの声援だ。物語の内容もそうだけれど、この物語を、そのときに書いてみせた、ディーン・クーンツというイキモノのありように、私は勇気をあたえられる。
 娘の死が、関係ないわけじゃない。
 でも、それで取り乱すほどに揺らぐわけでもない。
 愛とは、おそろしく強いものなのである。
 覚悟はできていた。
 だから、こうやって書き続けられる。
 なにかを得てさえいる。

 『THE DARKEST EVENING OF THE YEAR』
 『一年でいちばん暗い夕暮れに』

 タイトルに似た一文は、作中に出てこない。
 それは、この一冊が書かれた時期を明示したものなのだ。
 だから、これを手にする読者は、ただフィクションとしてたのしむ以上に、彼のことを知って欲しい。彼が知って欲しいと願っている、逝ってしまった犬の娘のことを知って欲しい。多くの犬が不幸な目に遭い、その一方で、多くの犬が人を救っていることを知って欲しい。
 この世に愛や正義があるかどうか、ではなく。
 ディーン・クーンツという、それを信じて描き続ける作家がいるということを。
 知って欲しい。

 犬より猫が好きでも、これを読むのに、問題はない。
 愛の形なんてものはそれぞれだと、知っていることもまた愛である。
 愛という言葉を、むやみやたらに使い続けるには覚悟がいる。
 それを自然にできる、数少ない作家のひとりが、クーンツだ。 
 
 たぶん、あるんじゃないかな、と。
 私は、彼の影響で思ったりしている。

THE DARKEST EVENING OF THE YEAR

 『トリクシー・クーンツ』公式サイト


Wandering

とかげに出遭った。
正確に、とかげなのかどうかは知らないが。
私の認識する、とかげのごときものに出遭った。
とかげと目があうことはない。
とかげはじっと前を向くことができないのである。
だからもしかすると、
じっと見られているのかもしれないが、
ヒトである私には、そっぽを向かれているようにしか見えない。
私はヒトのなかでも、とかげに対して友好的な派閥に属している。
襲ったりはしない。
食べもしない。
それは、幼いころは。
「とかげはしっぽを切られても平気」
という話に夢を膨らませ、見つけては追いかけ、
しっぽを切った想い出もあるが。
とかげのしっぽをつまんで、切る。
それは、こちらが引きちぎっていると思いこんでいたけれど。
自切(じせつ)と、いうらしい。
あれは、とかげの意志のなせるわざ。
だから筋肉も収縮し、血も出ない。
ヒトの子供につかまった。
しかたないな。
ふんっ、とおなかにちからをいれて。
ぶつん、と自分で切る。
身長の三分の一くらい。
ヒトでいえばなんだろう。
背中の皮?
火炎放射器で炎を浴びせられ、
とっさに背中は捨てる。
やけどしても、跡は残るだろうけれど、
死には至らないし、皮膚はまた再生する。
と、いうようなことを考えていて、思ったのだけれど。
とかげのしっぽ。
別に、猿のようにそれでどこかにぶら下がったりしないし。
象の鼻みたいにエサをとるわけでもない。
文字通り血も涙もなく自切できる器官。
自切して、なにかに困ることがあるんだろうか。
背中をやけどすると眠るのに困るな。
とかげも、筋肉をつかって止血するということは、
しっぽにも血がかよっているので。
痛いのは痛いはず。
日々、じょじょに再生するのは、痒いはず。
だとしたらつらいよなあ……
とかげは、自分のしっぽの断面を、たぶん自分で掻けない。
やっぱり自切は、それなりの苦しみをともなうのだ。
いざというときには個人的に切り捨てるが、
進化としては捨てられない、しっぽ。
誇り、のようなものなのか。
確かに、しっぽのないとかげは、かっこよくはない。
ないと、カエルみたいだし。
種としての意志なのかも。
両生類じゃねえよ爬虫類。
見ろよこのウロコ。この、しっぽ。
いまでも子供たちはとかげのしっぽを切って遊んだりするのかな。
今日も、やむをえず命とひきかえに、しっぽを捨てたとかげは、
葉っぱの陰で拗ねながら、誇りの再生を待っているのかもしれない。
もがれた羽根が、また生えてくるのを待つ、天使みたく。

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 トカゲは変温動物である。
 一般的に、私たち哺乳類(あなたもそうですよね?)のような恒温動物は、変温動物のあとに進化して生まれた種だとされているが、だったら、なぜいまもトカゲはネズミにならずにトカゲのままでいるのか不思議だ。トカゲでいるよりもネズミでいたほうが生きやすいのならば、トカゲなどという種が現代に生息していること自体が謎である。

 恒温動物は、自分で体温を上げられるので、寒くてもけっこう平気。生物にとって、冬をいかに乗り切るかということは、重要なテーマなのである。赤ん坊を毛布でくるんだりできないし、火をあつかうこともできない、ヒト以外の恒温動物にとっては、文字通り、種の存亡がそこにかかっている。いくらふかふかの毛皮を生やしたって、そのなかで体温を上げられなければ、なんの意味もない。

 ヒトだって、布団に入れば、ぬくい。
 自分から熱を放出しているからだ。
 だから他人といっしょに寝ると気持ちいい。
 あたたかさは倍になるから。

 トカゲは布団をかぶっても凍えてしまう。
 彼らは、外部からの熱によって体温を変化させる。
 ペットショップの店員は、トカゲの暮らす水槽の上で煌々と点る紫外線ランプを、閉店しているあいだも点けておかなければならない。ある日、こつ然と空から太陽が消えたら、まっさきに死に絶えるのは、変温動物たちだ。事実、そうやって恐竜たちは逝った。

 (という説が確定した、というニュースが今週は流れていたが……隕石の衝突によって巻きあげられた粉塵が地球の大気中をただよったせいで日光が遮断され植物が死に絶えたことで草食恐竜継いで肉食恐竜が……皆無になるまで植物が死滅する期間って相当長いと思うのだけれど、大気中の粉塵って、そんなずっと舞い上がったままのものなんだ。世界中の学者さんたちが結論づけたのだからそうなんだろうけれど、なんか釈然としない)

 外からの影響で自分のほうが変わる。
 それが生存の大前提になっている生き方というのは、すごい。

 あしたも世界はあたたかい。

 トカゲは、それを疑うことさえしない。
 来週はきっと寒くなるから、薪を拾ってこよう、とか。
 もうすぐ冬が来るから、毛を生やそう、とか。
 そういうことは考えない。

 熱力学第一法則から逃れられる生物はいない。
 恒温動物であるネズミは、ちょこまかと一年中動き続けるかわりに、一年中、ちょこまかと動く脚で、エサを求め続ける。日光の当たらない屋根裏で、生きていくだけの体温を生みだすためには、太陽のあたたかさと同等の食料を摂取して心臓を鼓動させ、血液を全身に駆けめぐらさなければならない。

 人間なんて。
 もはや、進化しすぎて、生きるために生きている。
 お金というオモチャをつかって、物々交換を進化させ、だれもがそこそこに、あたたかくて、飢えないようにして。 
 いま走っているのはなんのため?
 あした走るため?
 それって、むなしいときもある。

 その点、トカゲはいさぎよい。
 考えずに生きて、寒ければあたたかい場所に移動して、暑ければすずしい場所に移動して、そうやってその場その場をしのぐだけならば、朝露と飛んでいる蠅だけでも生きていける。それでも厳しい冬はやってくるのだよと偉いヒトは言うかもしれないが、そのしたり顔の先生に向かって、トカゲはまっこうから言い返すことができるのである。

「生きていられないほど厳しいのなら、
 しばらく死ぬことにしましょう」

 寒さから逃れようと土にもぐり、それでも耐えがたいほど寒かったら、トカゲは仮死状態になる。冬眠である。なんと清らかな生き方か。ヒトと同じように、手足をもった生き物であって、内臓があって、もともと雑食性なのだから、冬だって食料がなくなることはない。それでも、トカゲは「生きるために生きる」ことはえらばない。生きるのに厳しくなったら、しばし死ぬ。
 友だちのトカゲの一部がネズミになったときは迷いもあっただろう。
 これほどまで世界が恒温動物の世になれば、己の生き方を疑うことだってあるはずだ。

 しかし、トカゲは、いまでもここで生きている。
 ヒトの世の都会と呼ばれる場所にだってふつうにいる。

 啓蟄。
 トカゲが、起き出してくる季節。
 春になり、コートを脱いだ私と、トカゲの目があう。
 バカな生き方をしているなと、言うのはトカゲのほう。

「あの凍える寒さのなかで
 必死でエサ集めて生きてた?
 バカじゃね?」 

 ちょっとだけ死ねばいいのに。
 言い切れてしまう、トカゲを私は羨望する。
 仮死状態になることのできるカラダがあったら、私は、それを選べるだろうか。たぶんできない。死んでいるあいだに地上が水没したらどうするのだ。知りあいがみんないなくなってしまったら。それよりもなによりも、もしかして、目が醒めなかったら。
  
「考えるヤツには、
 おれの真似はできねえの」

 まったくその通り。
 そうやって、進化を拒否して生きてきた。
 トカゲは、すてきだ。
 目指してもなることはできない、理想のイキモノ。

Reptilia

 ところでトカゲのエサって、生きたコオロギもいっしょに育てるのが安くていいけれど、市販されているのは成分を見ると小麦粉とコーンミールに副産物ミール(というのはつまり屍肉。犬猫のエサでこれが入っていると敬遠するお客さんが多いが、爬虫類エサでは選択肢がないのでやむを得ないところもあったり)の混合物ということで、それっていわゆるまんまミートタコスとかタマレの材料。

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『スープがあまったのでトルティーヤを焼く』の話。

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 ていうか、もっとエサっぽいところで比べるなら、肉の成分を練り込んだ粉モノというのは、つまりスナック菓子の代表格な成分なわけで。

BBQ

 トカゲのエサってたぶんビールに合う。
 ヒト用スナックのほうが安いのに、あえてそれ食うこともないけれど(笑)。
 その話で思い出したが、逆に、ペット用品を売っている者として、いつも不思議に思っていることがある。
 犬用のエサで、ビーフジャーキーが売っているんだが、肉の姿そのままのがあるんだよね。
 肉質うんぬんといっても、干してあってかちかちなんだし。
 そう考えると異常な安さ。
 ビーフジャーキー1キロパックが千円でおつりくるくらい。
 いや……と思うわけです。

BEEF
 
 ヒト用が、ぼったくってんじゃないのか、これ。
 売り場で犬用ジャーキーが積み上がってるの、うーんいつか食ってやると思いながら、いまだ実行できずにいる日々なのです。日本の御犬様が食って平気なものなんだから、健康に害なんか絶対ないことは保証済みなわけで。でも手が出ないのは。けっこう薄味好きな私。ヒト用よりも安くてあっさり味のそいつに、ハマってしまったらイヤだなあ、というのが、かなり本気であるのでした。

 冬眠すると、ビール飲んだりできないんだよなあ。
 とか、そういうことを思う限り、トカゲのクールさは身につかない。
 よくSFのシチュエーションで見る。

「治療法が開発される未来までコールドスリープ」

 ああいうのも。

 五百年後に起きて、病気なおって、ビール飲んで。
 でも、だれと?
 なにを思って。
 そこはもう、自分の生まれ育った世界とはいえないのに。

 という一方。

 いつだってヒトは孤独なものなんだから。
 起きてからまた友だち作ればいいじゃない。
 自分が生きているところが自分の世界になるんだよ。

 という考え方もあり。
 次の進化は、どこなんだろう。
 事故とか、ガンとか、なくなるんだろうな。
 そうしたらヒトは生きていることに超然と立ち向かえるようになって、意外と、目が醒めた地上からはビールがなくなっている可能性も、けっこう高い気がする。悩みのないヒトの世になれば、嗜好品なんて必要ない。

 飢えるから、寒いから、冬眠する。
 それを効率が悪いと、捨てた私たちは、すでにかなり飢えも寒さも越えた存在だし、この先は、もっと快適になるだろう。一年中おなじ温度の部屋で、一粒で3万メートルくらい走れるエサを食べて、快適温度だから服なんて着ないし、通信販売でビールを買って、ひとりで飲むのだ。きっとみんながそうなるから、テレビのなかの映画はCGだし、ボクサーはロボットだろう。

 そういえば、そんな映画があったっけ。
 あのディズニーのアニメでは、確か、眠りから醒めた孤独な機械が、人類をふたたび汗に濡れる悦びへと導いたのではなかったか。仮死するトカゲを捨てたなら、ネズミのように駆けまわるのがまっとうな生き様なんだよな、おそらく。
 必死さこそが、生きているあかし。
 ロボットだって必死さを身につければ生きはじめるだろうし。
 トカゲだって必死で身につけたに違いないよ、仮死なんて。

WALL・E