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 『蛇にピアス』という小説は、どう読んでもタトゥをふくむ肉体改造が、それを欲する人になにかが足りないからそれで補うのだという感覚がつきまとっていて、なんだかせっかくそれを題材にしているのにピアスもタトゥも、その小説を読んだ人のなかではネガティブな存在だと確定されてしまうところが、ちょっと難(まあもちろん、舌穴拡張をポジティブに明るく描いては、すばる文学賞も芥川龍之介賞も獲れないんだろうけれども)。

 しかし、その小説が映画化されると、それはなかなか、私好みだった。シバもアマもピアスは少なすぎる気がするし、タトゥを主題とするので期待して観たのに、やっぱりむかしながらの時代劇的な「インクで描きました」というものでしかなく、タトゥを全身に入れて何年も暮らしたあとに出る、色の褪せた感じの色気なんかは、ほぼ皆無だったのが残念だったにしても。しかし映像の力というものはすばらしい。スプリットタンやピアスの描写がどこまでCGなのかは知らないが、あの映画のラストで唸ってしまうのは、ほとんど監督というよりもCG技術者のレベルの高さのなせるわざだと思う。

蛇にピアス蛇にピアス

(ようやく、録りためていたドラマ『東京DOGS』を観終えたのだが。『蛇にピアス』で吉高由里子にからんでいたチンピラ小栗旬が、最終回で彼女を一本背負いで見下ろしてクール顔とか。映画の役柄を思い出して苦笑いしてしまった。吉高由里子が喋るたびに舌に目がいくし、私は、どうしても映画の役が忘れられずにドラマを観ているときに邪魔になることが多い。『JIN -仁-』もさ、なんでよりによって、あのふたりを、あの関係性で主演に使うのか。まだ最終回まで到達していないのだけれど、八割方観終わったいまだに、どのシーンでも『ICHI』を思い出し、綾瀬はるかが大沢たかおを守るために刀を、ふところから抜き出すのを夢想してしまう)

TOKYO-DOGSICHI

 さておき。
 ここで私のTwitterから転載。

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2010/01/02

脚を折った私のおばあちゃんは、動けなくなって痴呆度合いが進行。まわりの全員をののしり、うたがっている。

「あれが本音なのね」と母が言った。理性というリミッターのはずれたあと、そのひとの真の魂だけがあらわれる。こわい。

毎日、般若心経を唱えているのに、宗教は彼女を救わない。意味がわからないまま、唱えれば救われるというのは、間違った布教だ。

おじいちゃんが一週間口をきいてくれない、などと泣きながら愚痴ることがしょっちゅうあったが、いま思えば、なにがケンカの発端なのか聞いたことがなかった。

躁鬱の躁の波が来た彼女は、グループホームでも数人がかりで抑え込む状況だという。こうなってみると、ずっと前から、夫婦のあいだには、そういうことがあったとしか思えない。

彼女自身が、彼女の怒りを、疑いを、忘れるまで徹底的に無視する。いまは亡き彼は、彼女になにを言っても無駄だとわかっていたのだ。

直感的な株の売買で家まで建てた彼女だが、般若心経以外、文字の書いてあるものは新聞の株式面さえ見ない。マンガも小説も読まない。映画やドラマも、ゲームも、スポーツさえ観ない。

いま、彼女を救ってくれる物語が、彼女のなかには、皆無。そして死にたがっている。はげますことに意味があるのだろうかとさえ思ってしまう。彼女はもう、世界には自分の敵しかいないと信じているのに。

twitter / Yoshinogi

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 それからまだ一ヶ月も経たないが、彼女は走行中の車から飛び降りようとするようになった。それが、止めてくれる人がそばにいるからの行為なのか、判断はできないけれど、もはや彼女は自身の現状をきちんと把握しているとは言えず、ただ自分のまわりの空気感だけをその場その場で感じとって、そのたびに絶望するという繰り返し。

 とっさのとき、そのひとの本当が出る。

 よくあるたとえ話だけれど、ようやくデートにこぎつけた彼女を後ろに乗せてバイクで走っていて、山奥で、苦しんでいる老人を見つけたら、あなたは彼女をおいて老人を病院に運ぶか、とか。それが苦しんでいる友人だったらどうか、彼女が妻だったらどうか、とか。
 そういう選択は、もっと切羽詰まった状況でも、やっぱり同じようになされると思う。
 『SAW』のようなシチュエーションで、あと数秒で、自分か相手のどちらかが死ななければならないとか、そういう場合。相手を殺すことを選択した人は、なんどその状況に陥っても同じ選択をする。あきらめるひとはあきらめるだろうし、ぎりぎりまで抵抗する人は、とっさの判断が必要なとき、いつでもぎりぎりまで抵抗するのである。

SAWSAW

 おばあちゃんは、自分が脚を折って病院に寝ていることを、説明されて知る。
 目が覚めたら突然にそうなのだ。
 毎日、いや、一日のうちにも、何回も。
 自分がどこにいて、どういう状況なのか、説明を求め、それを得る。

「まあ。そんなことになっているの?
 それじゃぁ、あたし、がんばらないとね」

 しかし、数千回繰り返しても、数万回繰り返しても、いちどたりとも彼女は、そう思うことはない。たどり着く結論はおなじであり、胸に抱く感情も同じ。
 絶望のみ。

 絶望すると彼女は自棄になる。
 せめて、ああタクミかいあたしを助けておくれ、とでも言ってくれるならまだいいが、自棄になった彼女にとって、まわりはすべて敵なのだ。
 私は、まだましだ。
 そもそも年に何度か逢うだけの、おばあちゃんなのだから。
 だが、彼女には三人の息子がいる。
 その妻たちは、かなりまいっている。
 直情的な彼女の血を引く息子たちは、いきどおっている。
 まったくもって、救いがない。
 いまさら、般若心経の教えを彼女にレクチャーしたところで、半時間後には、忘れてしまうのである。育てあげられた彼女自身の思考は、よりシンプルになったことで、彼女自身さえもを傷つけている。傷ついたことを彼女は忘れてしまう。傷つけたことも忘れてしまう。そのために、日を追うごとに、目覚めたときに目の前に現れる状況は、まわりに残った傷だけを彼女に見せるという最悪なものになっていく。

 ところで、私と同じ彼女の孫に、先日、成人式を終えた女性がいる。
 私にとっては、いとこにあたる。
 タクミにいちゃん、と慕ってくれる、ちょっとギャルい従妹なのだが。

 従妹は、近くに住んでいることもあって、おばあちゃん子だ。
 おじいちゃんが逝ったあと、ちょくちょく家に顔を見せる従妹の存在は、彼女にとってうれしいものであったに違いないし、だからこそ、心配もする。
 いっしょに過ごしていて、男からのケータイの呼び出しに、夜更けに出て行こうとした従妹を、力尽くで止めようとして、彼女の右腕はあがらなくなった。でもなタクミ、おばあちゃんが心配するのはわかるやろ、とあとで泣いていたのだけれど……泣きたかったのは従妹のほうもだった。わがままを言える相手だったはずの、おばあちゃんの腕をはらったら、一生なおらない傷になった。右腕があがらなくなった彼女を見る従妹の目には、後悔もそうだが、完璧に終わってしまったこれまでの関係性を、懐かしむ色さえある。
 おばあちゃんは、従妹のことを、それでも。
 あたしが育てた子、だと思っている。

 去年の夏のことだった。
 私は、おばあちゃんにひっぱられて、物陰に行った。
 がたがたと震えている。

「なに」
「あのコ、あれ、見たかタクミ」
「なにを」
「刺青いれとぉ」

 ああ。そういえば、キャミソール姿の従妹の右肩には、タトゥがあった。極彩色の睡蓮。きれいやん、と言ったら、へへぇ、と自慢げに笑っていた。

 刺青──イレズミ。

 そう言っただけで、従妹の顔のくもるのが見えるようである。
 そのときにはすでに、いっしょに過ごす時間もぐっと減っていた彼女と従妹のあいだで、そのことを問題にすべきではないと思った私は、だいじょうぶだよ、と言った。

「ただのシールだから」

 いや、本物のタトゥである。
 従妹が、その図柄にパワーをもらって笑顔でいられることを、私は理解できるが、彼女に説明するのは困難だった。なんでわざわざ刺青のシールを、という彼女には、ファッションというくくりでさえ、説明は難しい。彼女にとって着飾ることとは、だれの目にどううつるかということであって、自分自身がどう変わるかではないのだった。
 私も、言われたことがある。

「なんでタクミは、トカゲの指輪しとん」

 愛用している指輪なのだ。客商売をしていなかったら、つけるのも面倒なので手首にトカゲのタトゥを入れたいと思うくらいなのだが。
 んー好きだから、かなあ。
 と答えるのがせいいっぱいである。

 映画も観ないし、スポーツも観ない。彼女は、きっとコスチュームプレイを理解できないし、なんとか説明しても、見てだれかがよろこぶからキャラクター衣装を着る、という演者と観客の立場までだろう。好きなチームの野球帽をかぶっている男どもは、彼女の歴史のなかでもいただろうが、彼女は決してそれを「好きなチームのマークを身につけることで力が沸いてくるから」だと思ったことはないはずで、野球帽とは「自分がどのチームのファンか他者にアピールする」ために存在しているのだと認識しているに違いない。

 いまになって。
 彼女のための聖書のないことに、私のほうが絶望している。
 従妹が同じ状況になったなら、手の甲に新しいタトゥを入れてやりたい。きっとぜんぶを忘れていても、極彩色の花の絵は、従妹を笑顔にするだけのパワーをあたえるはずだ。
 すべてを失って真っ白い天井を見上げるだけの私になっていたら、その天井に、トカゲを象ったトライバル紋様をペイントして欲しい。たぶんじっと見つめているうちに、私は突然に奇声をあげて、身を起こすだろう。

 彼女といっしょにいると、つけてあるテレビの、なにひとつにも興味を示していないことがよくわかる。願わくば、彼女が、ジャイアント馬場を観たら、顔をぱあっと明るくする習性をその身に育ててくれていたら、と思う。香港映画を観せれば「まあユンファ様じゃないっ」と少女のようによろこんでくれたらいいのにと、心底から思う。
 おいしい料理も、もはや愚痴しか出ない。
 きれいな空を、見上げることもない。
 そんな習慣が、もともと彼女のなかには、ない。

 舌に空けた穴を拡張することでも、いい。
 それで目がさめて、生きていけるなら。
 絶望から抜け出せるなら。
 それは、すばらしくポジティブなことだ。

 耽溺を、萌えを、身にやどせ。
 好きになったものは刻みこんでしまえ。
 それが、ぎりぎりのところで、パワーをくれる。
 彼女を、一発で笑顔にできるような囁きが生みだせないことに腹が立つ。
 当たり前に口を開くと、当たり前に笑ってくれていた。
 そのおばあちゃんは、どこかへ行ってしまった。
 もどることは、たぶんない。
  
 おじいちゃんの写真が、ベッドのわきに置いてある。
 電気ロウソクと電気線香が、煙も出さずにまたたく。
 彼女は般若心経をうたう。
 完全に刻みこまれている、それは彼女のタトゥなのに。
 だったら、なぜいまこそもっと力を与えてやってくれないんだ、と。
 私は、ただただ、醒めていくのである。

TATTOO笑い飯


 牡蠣を焼く。

 一時はノロウィルスの猛威によって、それで生計を成り立たせているにもかかわらず、牡蠣漁師さんが直販を自粛した、なんてことがあったが、あれから二年。いつものように広島からの海沿いの帰り道、浜辺には、発砲スチロールボックス入りの獲れたて牡蠣が山積みの光景が戻っている。

 私は、海のある町で生まれたので、牡蠣は生でもガツガツ食う。しかし、牡蠣漁師さんたちも、ふたたびの販売に踏み切ったはいいものの、慎重にはなっている。前は「この海で獲れた牡蠣は清潔そのもの」みたいなことをうたっていたのが「牡蠣の食しかたマニュアル」みたいな小冊子が、決まってついてくる。

 内容は、とにかく火は通してくれ頼むから、という一点につきる。
 新鮮さを売りにしながら、これだけ言うのである。自己責任で生で喰ってもいいが、ワイドショーが来たら、うちはちゃんと「生で喰うな」と伝えたと証言してくれ、ということであろう。学習効果というやつだ。いまやどの業界でも、自己責任で、は、合い言葉。ほら、だから自己責任でって言ったじゃありませんか、私たちは知りませんよ。

 ちょっと悩む。
 生牡蠣にあたったことはない。
 近所の居酒屋で鶏肉のカルパッチョにやられたことがあるが、魚介のたぐいで、おなかにきたことは一度としてない。たぶん、今朝、獲れたのを買ったばかりの牡蠣、生で食べても平気だろうという自信はある。そういうのを、自信というのかどうかはよくわからないが。

 しかし、まあ、家族がいる。死者も出たという食中毒の大流行からやっと脱却して、漁師さんも必死で、これからは中毒者を出さず、安定した商売を続けたい、と願っているのである。これはもう、火を通すのが礼儀であろう、と。そこまではいい。

 そこで、はたと困る。

 牡蠣である。箱詰めで買ってきた牡蠣は、生で喰うというのが、今までの私の人生では、当たり前だった。しかし、今夜から文明人になる。そう決めた。決めたのだが、そのなりかたがわからない。

 牡蠣のグラタンは作ったことがある。
 オリーブオイルでソテーした。
 漁師さんの小冊子にも、バターで炒めてみて、とか書いてあったりする。

 いや、しかしですよ。
 海からあがったそのままの殻付き。
 こやつを大量に消費するとなればまず、殻を剥く。
 これしんどい。
 私はカニどころかミカンの皮だって、それを剥くくらいなら食べないというほうを選ぶくらいの食に関する面倒くさがりである。食事するのに出かけるくらいなら、ドッグフードでいい(栄養バランスには気をつかっている)。かったい殻の一個ずつを相手にするなんて正気の沙汰じゃない。かといってだれかに「やって」というのもイヤだ。自分で料理したい(ひとが料理していると口を出したくなる、というか出すので、けっきょく最初から自分でやったほうがだれもにとって労力少なくすむのだった。なにより自分で料理するぶんには、自分がイライラしないでいいし)。

 殻を剥くという作業を回避する結果、フライとか、鍋とか、その手の牡蠣の中身だけをまず取り出す必要があるレシピは、考えたくもない。となると、頼みの綱の小冊子にも、調理法が書いていない。なんということか。牡蠣チャーハン? そんなのはスーパーでパックの牡蠣を買ってきて作るべきだ。殻付きの牡蠣は、殻のまま食べねばならぬ。生で食べることは断念しても、それはゆずれない。そもそも、殻付きの牡蠣の殻を剥けば、容量は十分の一以下になるのだ。そんなに殻を剥いて食わせたいなら、漁師さんが剥いて売ってくれればいい。むろん、その姿で売っていたら買わなかったわけだが。

 というわけで、牡蠣の加熱法を考える。

 もっとも簡単なのは、電子レンジ。
 一個につき一分くらい加熱すると、ぱっかり蓋が開く。
 そこにレモンを絞り込んでタバスコを落とし、ずずっとすする。
 よい。それはよい。
 しかし、五個で五分。それ以前に、殻付きの大振りな牡蠣が、五個もレンジにはいるだろうか。三個で一杯になりそうな気がする。これで量を食うとなれば、食べてはレンジへ走り(べつに走らなくてもいいけど)の繰り返しになる。よいプロレスの試合を鑑賞しながら、ほどよくあたたまった牡蠣をワインで喉の奥へ流しこんでいるさなかに、っちーん、とか鳴るのも興ざめだ。

 となれば。
 直火。
 しかし海っ子だった私は知っている。
 海の家で網焼きにしている貝には近づいてはいけない。まして牡蠣など。あやつは、海の松ぼっくり。さるかに合戦のクリ。火にくべれば、はじけて人を殺めかねない。そんなものを自宅のグリルで焼きたくない。じゃあフライパンで。いや、うちにはアルミの軽量フタしかないのである。そんなものではやつらは抑え込めないかもしれぬ。

 で。思いついた。
 そういえばこの前のナン。
 熱い鉄のフタで焼いた。
 そうである。
 我が家にはダッチオーブンがあるではないか。
 まだ焼きの甘いルーキーに、次なる試練、牡蠣焼きの行を与えてやろう。

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『カレーのためのナンのレシピ』のこと。

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 鉄の棺桶。
 ケージマッチだ。
 ふはははは、牡蠣どもよ、まとめてかかってくるがよい。
 つめこんだ。
 十個をいっぺんに焼きます。
 詰めこんで、フタをして、火にかけるだけ。
 またアホほど煙は出るでしょうが、ダッチオーブンは空焚きされるのが仕事。
 はじけるがいいさ牡蠣レンジャーたち。
 おれのハガネのダッチは、びくともしないはずだ。

 いざ勝負。

 で、強火で十分ほど。
 もうもうたる煙をあげているダッチのフタをリフターであげてみると……

 口を開きだしてやがるよ。
 これでよし。
 ダッチオーブンの底には、煮えたぎる牡蠣汁が溜まっている。
 すごい匂いだ。
 いかにも海のスメル。
 ふむ。焼いた牡蠣もいいかも。
 
 ポン酢とか、オリーブオイルとか、もちろんタバスコとか、並べて食べました。
 いや、それだけの話です。
 あまりに湯気がすごくて、調理後の写真は白くて見られたものではなかった。と、いうわけで、ダッチオーブンに詰めこんだ、牡蠣たちの姿でお別れしましょう。
 ごちそうさま。

Oyster

 ところでその牡蠣を食べながら見ていたプロレスリングNOAHの大会中継で。
 あの若林アナが、

「私、リングサイドでNOAHの実況するのはじめてなんですよ、
 いいものですねえ」

 と発言しているのに泣いた。
 よかったなあ。

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『ノアぷ~・最終回』の話。

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 テレグラフ紙のサイトをさまよっていて、こんな記事を読んだ。

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The Daily Telegraph公式サイト『Meat grown in laboratory in world first』

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 要約すれば「オランダの研究チームが世界初の人造食肉の培養に成功」という記事である。成功、とか言われても、どうもぴんとこないのは、おそらくあなたの身近に菜食主義者がいないからだ。ちなみに、この記事にたどり着いた私も「vegetarian」で検索をかけたから、そこにたどり着いたのである。

 私の家にはときどき、肉が食べられない客人が来る。

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『肉なし餃子を冷凍庫に詰め込む』の話。

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 彼女にシソぺぺロンを唐辛子たっぷり、ニンニクたっぷりで出しても、平気で食べる。私のなかでは、オイルとニンニクで炒めた麺よりも、たとえばスープスパのような調理のほうがあっさりとしているように思えるが、もちろんスープというものはほとんどの場合、動物の肉だの骨だのを煮込んで作るわけで、そこが問題なのである。味があっさりしているとか、そういう問題ではない。そもそも、彼女が拒絶するのは、味ではないのだ。

 べつに、痩せようとか健康になろうとか、そういうことを思って肉を食べないようになったわけではなく、正確に言えば、彼女は生粋のベジタリアンではない。以前は、ラーメンが食べられたという。しかし、あるとき、それが死んだニワトリを煮込んだ汁だと気づいたときから、食べられなくなった。いまでも牛乳は飲める。でも卵は、それがヒヨコだと思うとそのままでは食べられない。デザートのケーキは平気だ。たとえスポンジにたっぷりバターと卵が使ってあっても。

 いわゆる、とんねるずの『食わず嫌い王決定戦』で、うなぎの蒲焼きの裏側がびろびろしていて食べられない人がいっぱい出てくる、そういう感覚のちょっと大げさなものなんだろう。

 冒頭の記事のなかで、ふたつの団体が声明を発表している。

○動物愛護団体
「その肉が、死んでいる動物の一片から造られたのならば、私たちには、どんな倫理的異論もない」

○ベジタリアン団体
「だからといって、その肉が虐殺された動物のものではなく、人工のものだと、どうやって証明するのです? ラベルなどでは、信用できません」

 確かに、そこでは、生きた動物は一匹も死んでいないのだから、だれも気に病む必要はないわけだ。動物愛護団体がこだわっているのは「それでも培養するために最初の一片は必要なのだろう、それはどこから持ってくるんだ?」ということだが、それはスーパーでパックの肉を買ってくれば済むことである。コメントを求められたから、無理やり発言しているが、彼らもその豚ミンチ一パックで来年から一頭もブタを殺さずにすむとなれば、目くじらを立てたりはしないはずだ。

 菜食主義者の観点は、なかなか興味深い。確かに私もそれを怖れる。私が、人工肉だから平気だよと言って出した料理を食べた、その肉が、あとになって「実は屠殺された本物の豚の肉がまじっていた」と判明したら。彼女は私を睨むどころではおさまらない。その先の人生、屍体を食べてしまったという悪夢に、毎夜うなされることになるのである。その危険性を考えれば、まさに「食べても見分けがつかない」ことこそが大問題になる。菜食主義者にとっては、いっそ「人造肉は青白く発光する」とか、それくらい明確にニセモノヅラをしていてくれたほうが、ありがたいのだ。

 そこをつきつめていくと、大地には死体がいっぱい埋まっているんだから、畑でとれる野菜だって、あらゆる動物のエキスを吸って育っているんじゃないか、ということになるのだけれども、そこはそれ。あくまで菜食主義者団体が懸念しているのは「ラベルごときではなく、間違いなく人工の肉だと私たちに証明する方法があるのか」という点である。
 研究チームが今回作った肉は、べちゃっとした傷んだミンチみたいなものらしく、到底ステーキにはなりえないものだそうで、だとしたら、わざわざそんなものを食べなくたって……と思うところ。しかして、それは古来からヒトが神の領分に手を出すときに、いつも言っていることでもある。

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「少なくとも、今の技術の延長の上で考える限り、労多くして益少なし、という感じがします。多少お粗末な女の子でも、本物の人間の方が安上がりで性能も良いと思いますが」


石川英輔 『プロジェクト・ゼロ』

PZ

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 などといいながら、けっきょく、ヒトは、できることはやってしまう。べしゃっとした肉も、ならばということで、ソーセージなどの加工肉であれば五年で商品化できるレベルまでいくだろう、と具体的な時期まで言及されていたりする。人造コールガール同様、味や見た目がいまいちでも、発売されたとすれば、それを生きているうちに味わってみたいと思う物好きは、一定数あらわれるに違いない。いまの段階では、ブタを育てたほうが早いし安い。でも、だからといって未来もそうだとは限らない。

 ソーセージでは、なおさらのことベジタリアンの言うことはもっともだ。
 香辛料をきかせてしまえば、味の問題はほとんど食感だけのことになる。見た目は加工しているのだから関係ない。べしゃっとしているなら、凝固剤を混ぜればいいだけのこと。並べた二本の、どちらかが人工肉であるかどうかなんて、証明しようがない。ラベルも信用できないとなれば、目の前で造ってみせるしかないけれど、そもそもこの研究自体が、動物を育てずにいかに食肉を大量生産するか、という方向からのものなのであって、工場で作られる食品の安全性がどうとかいう問題は、先の餃子パニックでも顕著なように、最終的には「無条件で信用する」か「完全に拒絶」するかしかない。
 となれば。

 菜食主義者たちは、悩まず拒絶を選ぶだろう。

 彼らが、安心して人工肉を口にできる機会が、将来的に現れる可能性はある。人類が地球化された他の惑星へ移住し、そこには一頭の豚も連れてこなかったと確信できる状況。そこでは、工場生産された人造食肉こそが唯一の肉なのであり、第二世代においては、食肉のイヴが生きた動物かどうか、考えることさえなくなっているはずだ。おそらく、その世界で肉は野菜同様「栽培する」ものであり、だとしたら、菜食主義という定義自体が、なくなっていくこともありうる。

 現代の菜食主義者たちは、工場のなかでなにがおこなわれているかなんて私たちにはわからないんだから……だから信用できないと主張する。しかし、本当にこの人造食肉が普及しはじめたなら、滅菌状態の工場で、密閉された容器のなかでゼロから培養した肉のほうが、土で育った野菜よりも「なにも殺していない」のはあきらかであり、そのときにはおそらく、大部分の人たちが「工場で作っていないものなんて危険だ」という考えに推移していることだろう。だって未来はいまより、もっと空も海も、土も汚れているはずだから。敏感な人たちこそ、シャーレで培養した食品を求めるに違いない。

 いつか、レプリケーターは実現する。 

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『Halo3ベータテストと仮想うつつ』の話。

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 目の前で、大気から合成される食品は、安全である。

 ところで。
 培養食肉が、食卓に並ぶようになったとして。
 単純に思うんだが。

 いま、彼女が肉を食べないのは、

「自分とおなじ動物を殺してまで食べたくないから」

 だとしたら。
 食べるものすべてが、培養された食品になったとき、私たちは。

「自分のカラダは培養されたものの集合体」

 だと、意識するようには、ならないだろうか。
 私は、なる、気がする。
 するのは、もうすでに殺戮の世紀を生きて育ってきたせいか。
 将来的な世代は、もっと無関心になっているのだろうか。

 五年後に人造肉のソーセージをスーパーで見たとき、きっと私は、ロボット売春婦の開発者が、実験をするたびに本物の女性の肌を心底欲してしまったごとく、本物の肉をむしょうに食べたくなる。人造食肉が市場ベースにのれば、過激な動物愛護団体以外でも、だったらなぜ殺すために育てる必要があるのだ、という議論は出るだろうし、マクドナルドはよろこんでノーキルマークを看板にでかでかと掲げるようになるはずだ。本物の肉は、限りなく希少で高価なものになっていく。

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Paintings are too hard.
The things I want to show are mechanical.
Machines have less problems.
I'd like to be a machine.

(絵を描くのはとてもしんどい。
 だからぼくは機械的に魅せたいんだ。
 機械には問題が少ないからね。
 ぼくは機械になりたい。)


 アンディ・ウォーホル

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 ウォーホルがすすめたアートの工場生産という手法は、ポップと呼ばれる一時代を築いて、かえって「感情は与えられるモノの側にではなく自分たちの側にある」ということを再認識させた。画一化された工場製のアイテムを、あえてデコってみたり、汚してみたり。それは、茶碗をあえて欠けさせて愉しんだ、日本のわびさびとかいう屁理屈に回帰さえしている。隣の席のヒトと、同じケータイを持っていることで、自分の個性が消されたように感じることはある。だとしたら、工場製のまったく画一的な人造食肉を世界中のヒトが食べているという未来で、私たちは冷静でいられるものか?

 最終的には、私はこっそりと狩るだろう。
 自分が培養された、つまらない生き物ではないと証明するために。
 そのときでも、犬や猫はまだいるだろうか。
 人は、動物の死に耐えられず、ロボを飼うようになっているかもしれない。
 視床カードを使えば、死なないペットどころか、恋人だって持てる。
 人口減? 子供なんてシャーレで培養すればいい。

 ……さて。
 ヒトってなんのために生まれて生きているのだろう。
 人造肉。
 いや、すごい響きだと、思う。
 食うための動物が生まずにすむのなら。
 食うがわの動物だって、いらなくねえ?