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 そして最後も黒いマット。

 潮崎豪 × Austin Aries

 数ヶ月前の試合である。
 良い試合ではあった。
 潮崎が気持ちよく負け、Ariesに握手を求めたが拒否られた、その、
 ふふん小憎いオトコどもだぜ、とプロレスファンが鼻を鳴らすシーンの下に、
 テロップが走る。

『 今回の放送で
  「ノアぷ~」は
  終了します 』

 ああ、盛り上がった気分が台無し。
 しかし、ええ……そうですか。
 最終回では仕方ありませんね。
 さようなら。

 思えば、まだタイトルに(仮)がついた段階で期待を込めて語ったのが、うららかな春のことだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『ノアぷ~(仮)』の話。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そしてまだ夏も終わらないのに、終わってしまう。
 この数ヶ月で、いろんなことがあった。
 大事なことをすべてテロップでさらっと流した番組だった。
 くれおーるの歌はおぼえた。
 潮崎の試合はいっぱい観た。
 (写真集とかもっと売っていくべきだよねえ。うちを覗いてくれるBLスジのみなさんにも、これ見てみてよっ、とすすめられるアイテムがあったらいいのにといつも思うが、丸藤&KENTAを売ろうと懸命だったころ以降、どうもみずから萌えを売る気概がないノア。うちの妻なんかも、潮崎×中嶋とか、変な声あげながら観てるけどなあ、もったいない。ちなみにこの写真の右が亡くなった三沢前社長で、左がいまイチ押しの潮崎豪である)
 なにはともあれ若林アナウンサーの今後が心配だ。

NOAH

 さようなら。
 これ以上に、書くこともない。
 忘れられない番組では、ある。
 願わくば。
 全日本プロレス、そしてプロレスリングNOAH。
 地上波で観る最後の番組が『ノアぷ~』でありませんように。
 まあもういまさら、プロレスが万人受けする必要もなく、多チャンネルのひとつとなってマニアックに商売していけばいいとは、思うのですが。

「おれ、プロレス好きなんだ」

 そうしたら、だれかにこう訊かれる。

「だれが好きなんですか?」

 力道山。
 ジャイアント馬場。
 
 ここまではだれでもわかってくれる。

 武藤敬司。
 三沢光晴。 

 わかってくれるだろうか。

 田上明。
 小橋建太。

 ちょっともう顔も浮かばないだろうな。
 そしてこれから。
 知らない人に話すとき、とっかかりになるレスラーさえいない。

 丸藤正道。
 森嶋猛。

 推したいのは、これからなんだけれど。
 ちょっと観てみて、というには、個人的にディスクを用意する必要がある。
 もう、こっそり貸し借りするアダルトビデオと同じ扱いだ。
 まあ、似たようなものでいいんだろうが。

 プロレス好き、って言ったら。
 プロレスってなんですか?
 と返ってくる時代が来るのだろう。
 ルールから教えるとなると、非常にむずかしい。
 スリーカウントがすべてではないのですよ。
 観客なくして成り立たないエンターテインメント。

 ああプロレスよ永遠なれ。
 近ごろこんなことばっかり言ってる気がするなあ……
 さようなら。 

NOAH
  

 祖父が逝って一年が経ち。
 先日、祖母をグループホームに入れまして。
 私は、結婚したときに両親の家に本籍を移したのですが、それまでは「兵庫県相生市」が本籍でした。母は、父の実家で、義理の母に見守られて長男の私を出産した。そこで暮らしていたわけではなく、その土地にある病院で生まれたという意味でだけの本籍なのですが、まあ、思い入れはある。
 おじいちゃんと、おばあちゃんの。
 私が生まれて最初に過ごした「家」。
 それが、無人になった。

 私が生まれた病院で、祖父は逝った。その病院も、今年、建て替えられて超近代的な外観になり、なんだか、その土地を訪れるたびに、遠くへ来てしまったなあという感慨ばかりがわく。

 かろうじて生き残っている商店街。
 でも、お菓子屋のタマダさんは、私を見ても私とわからない。
 あんなに、三十分も一時間も店のなかでお菓子を選び、もうここで食べて行きや、とお茶を出してくれたりして、そうしたらおばあちゃんが座り込んで話しはじめてしまって、私はお菓子のオマケのプラモデルを作り終えて、もう先に帰るよと駄々をこねたりしたのに。目が合うと、タマダさんは、微笑んで軽く会釈してくれるが、それは彼女が年老いても商売人だからである。
 タマダさんは赤の他人な通行人の私にお辞儀している。
 私は、育ってしまった。

 おばあちゃんの家を空けるということで、棚の食器とか、贈答品のお酒とか、もうとにかくなんでも孫たちの車に積み込んでしまえという作業のなかで、おばあちゃんが言った。

「タクミ、おじいちゃんの服、いらん?」

 いやいやいや。
 確かに私は実父よりも、実弟よりも背が低いけれど、それでも現代日本人男子の平均身長くらいはあるのだよ。おじいちゃん、小柄だったじゃないか。

「せやなあ。おじいちゃん小さいのに、なんでみんなこんな背え高いんやろ」

 私の父が言った。

「ひい爺さんの遺伝やろ」

 ああ、と、おばあちゃんも、うなずく。
 おじいちゃんの父は、大きな人だったらしい。
 小豆島に住んでいた。

「でも、こんなみんな大きいて、おじいちゃんの遺伝はどこいったんかな」

 ……しらんよ。
 たぶん、遺伝子の問題だけでなく、食生活とか、そういうものの影響が大きいのではないかと思う。小豆島で畑をたがやして暮らしていた、ひい爺さんは育ち、高度成長期を生きた父たち以降は栄養過多。戦争に行き、造船バブルとともに赤穂の港に移住してきた、おじいちゃんの世代だけが生死をかけたストレスと、栄養不良に悩んだのだ。

 とはいえ、ネクタイなんかは見せてもらおっかなと、重厚なタンスを開けて物色してみた。んー、ネクタイの趣味がおじいちゃんとあわないね……そもそもネクタイを締めて会社に行くことがないので、あんまり地味すぎるのは使うことがないんだよな。ジャケットやコートのたぐいは、いっそ地味も過ぎてレトロを感じさせ、デザイン的には嫌いではない感じなのだが……ハンガーから取り、羽織ってみる前にわかるくらいに……ちっちゃ……

 ダメだおばあちゃん、もらえるものがない。
 私の好みうんぬんはともかく、おばあちゃんに着て見せられたらよかったのにと思い、なんとか肩が入るくらいの大きさのものはないかとさがしたら、それが出てきた。

 黒い、革のブルゾン。
 羊だろうなあ、これ。
 いわゆる昔ながらの定番ラムブルゾンというやつだ。
 本当にラムかどうかは知らないが、なんにせよ革である。古びてなんぼというところだし、形も定番だけあって、古いも新しいもない感じ。そしてなぜだか、このブルゾンだけが、サイズが3L。羽織ってみると、あら、肩がちゃんと入るし。祖父の二倍は胸囲があるはずだが、ちゃんと着られるって……おじいちゃんにはぶかぶかだったんじゃないのかなあ……でもひんぱんに着ていたらしく、袖のところにはやはり長かったのか、まくって着ていたらしい跡もある。

 これはたぶん……
 そもそも腰で、きゅっと着るデザインのブルゾンなのに、おじいちゃんが羽織っておしりの出るのがイヤだったんだろう。上着っていうのは、カラダをすっぽり覆うものだ、というような、凍える戦時中のトラウマが、袖が長くても丈の長いブルゾンを買わせたのではないかと。彼にはそういうところがあった。死の間際、暑い時期に、我が妻がおじいちゃんの大好きなわらび餅を買って見舞いに行ったのだが、彼はもう自分では食べられず、妻は呼吸器までつけている彼のことを気遣って、黒蜜をからめて食べさせた。もう、味もよくわかってんだかどうだか、というようなころのことだ。しかしおじいちゃんは、開かない瞳をふるわせながら、聞き取りにくく、しかし驚くほど力強い口調で激昂した。

「わ、わ、わ、わ、わらびもちは、
 きなこやろがぁぁぁぁあ…!!!」

mochi

 それが、私の聞いた、祖父の最後の激しい物言いだった。
 いつも怒っていたおじいちゃんの、おじいちゃんらしい印象の最後。
 大好きな孫の嫁が気分を害するとかそういうことはもはや彼の頭にはなく、こだわりだけは突き通した、オトコの生き様だったと思う。喉が詰まってもきなこを喰わせるべきだったのだ。いやもう、きなこで殺してよかったのである。ショート・ブルゾンをだぼっと着る、だったらコートを買えばいいのではないかと思ってしまうのだが、そこにはつまるところそれ。こだわりがある。自分の信じたものだけが真実だ。自分の感覚こそが正当なのである。
 そうして戦後の日本を生きてきたのです、迷わずに。
 革なんだし、安くはなかったはずだが、Sサイズの男が、LLLサイズのタグを見たって、動じずに「この着心地がよい」と選ぶ。SサイズだからSサイズを選んで、なにかしっくりこないけれど、サイズは合っているからきっとこういうデザインのものなのだろう、という発想はない。シャープである。ダンディーで、ハードボイルドだ。結果として格好はおかしなことになったかもしれないが、長い袖はまくって着ればいいのである。
 おじいちゃんは、このブルゾンを愛用した。
 ものを愛すっていうのは、そういうことだね。

 というわけで、数奇な運命により、小さな祖父のクローゼットから出てきた、私にぴったりの革ブルゾンを、着て見せたら、おばあちゃんはよろこんだ。
 よかったなあ、よかったなあ。
 拝むいきおいなので、さっさとトランクにしまってしまう。

 帰ってきて、ハンガーに下げてみる。
 自分ではたぶん買わないデザインのブルゾンだが。
 しかし、これがまた私の幅を広げると思おう。

(ところで「ブルゾン(Blouson)」というのはフランス語の「Blous(ブラウス)+on」という綴りからもわかるように、ブラウスからの派生語であって、腰を絞る形のものを指すことが多い。一方、英語でのジャンパー(Jumper)というのは、そこに限定せず、ショート丈のコートまでもを含む軽作業用上着全般を指す。というわけで、この上着、私の感覚としてはラムブルゾン、というのがしっくりくるのですが、以下、本題である「革製品を洗うとどうなるか」というテーマを広域から迅速に検索できるよう、より一般的な革ジャンパー、すなわち革ジャン、という呼称に変更統一します)

 どうやって着ようかと、検分していて、大変なことに気がついた。
 薄暗いおばあちゃんの家では気がつかなかったが、必要以上にワット数の高い照明を好む我が家で見てみると、なんだか、黒い色にムラがある。

Leather

 カビだ。

 脇の下や、襟の裏など、革の表面同士が触れあっているところなど、かなりひどい。それに裏地はコットンなので、これに染みついた樟脳臭も、無視できない濃度である。かなり着こんであるにもかかわらず、祖父はもちろん、祖母もこれをクリーニングに出すどころか、ファブリーズをふりかけたことさえないであろうことは間違いなく。
 革ジャンはおじいちゃんの匂い。
 ていうか、死の臭い。
 こんなものを着てバイクに乗った日には、三百メートルとちょっと走ったところで、跳びだしてきた黒猫にハンドルを切りそこねて宙を舞い、頭から落ちて首を折ること間違いなしである。実際のところ、死を意識すると、死を呼ぶものだ。飛行機事故が連鎖したりするのは、きっと乗員たちの不安が空の死に神ドージャス・ヘーピング二等兵を呼び出すからに違いない。

 夏のある日。
 すっぱだかに革ジャンを着て、風呂に入った。
 鏡に写った自分を見てしまった。
 なかなかにシュールな格好だ。

 昨日の残り湯、ほとんど冷水。
 真夏だからできること。
 おもむろに、水に浸かる。
 瞬時にカラダが重くなる……おぼれる!
 おぼれてしまうよ、おじいちゃーんっ!!

 あわてて革ジャンを脱いだ。
 思った以上に革というのは水を吸うものだ。
 ラムは、毛穴が大きくて、なめしてもそれが残るため保温効果が高いということで防寒着によく使われるらしいが、それはすなわち、雨が降るとずっしり重くなるということである。
 撥水効果は皆無。
 あれよというまにスポンジなみに水を吸った。 
 表面を撫でてみる。
 しっとりしている。
 黒が深みを増してきれいだ。

 洗車用のスポンジを持ってきて、それで表面をまんべんなくこする。革ジャン表面のカビはこれで取れるのではないかと思う。縫い目の部分は、丁寧にシャワーを当ててこする。裏地は湯船につっこんで、がしがし手洗いする。透明だった残り湯が、茶色く染まってゆく……ひと夏使ったヘルメットの内装をエマールで洗ったときのバケツのなかの水の色にとても似ている。しかし湯船いっぱいの水を染めるとは、革の色が抜けているんじゃないだろうな。まあそうなったらなったで、染めQで全体を塗ってしまおうと考える私。よく、どうしようもなくなった革製品の補修に、お客さまにはそれをおすすめするのだが、自分で使ったことはまったくない。こういうのは、いい機会だ。もしくは革靴用の着色ワックスでもいいかもしれない。真っ黒なんだからどうにでもなるさ、と、もうすっかり色あせてしまうこと前提で投げやりになりつつ。
 茶色い湯のなかで、もがきつづけたのでした。

kiwi

 その後、洗濯機のドライモードの脱水(3分)にかけ、まだまだ水がしたたるような状態で、空調の効いた部屋に乾しておく。床には垂れた水を受けるバスタオル。鼻を近づけてみる。うん。樟脳臭さは消えた。濡れていてよくわからないが、カビ臭も感じないし、脇の下を見てみても、白いムラは見てとれない。
 なにか匂いはする。
 たぶん、濡れた革の匂いだ。
 ひらたく言えば、屍体の皮を剥いだ服だから、水につけても臭わないというほうが不自然だ。
 乾けば消えると信じて待つ。
 たぶん、一週間くらいは放置だろう。
 そのあいだにまたカビが発生したりする可能性も考え、襟の裏などはたまにぬぐってやる。革は熱に弱いと聞くので、時間はかかっても部屋の中で乾かすのがいいと思う。形がくずれないように、がっしりめのハンガーで、前も閉じて、襟の形も整えて、もしもそのままからからのかぴかぴになっても、羽織れるようには整える。乾かす過程で、あまりにも乾燥が過ぎるようならば、ミンクオイルを投入しようか……動物性のオイルはカビの原因にもなるので、あんまり使いたくはないのだけれど。

kiwi

 乾いた。
 匂いは消えた。
 革も固くならなかった。
 一週間、乾燥してみてからの感想。
 洗剤を使わない水洗いなら、革製品も平気。
 真っ黒だった色も、まったくあせた様子はない。
 とうことはやっぱり、あの風呂の湯を染めたのは、裏地から出たおじいちゃんの残り汚れだったのか……最後の、いっしょに入った風呂だったわけね、感慨深い。

 ただやっぱりなんか、このまま乾燥し続けるとひび割れまでいきそうな気もする。
 というわけで、アーマオールを塗り込むことにした。革に使えないと書いてあるけれど、バイクの本皮シート(黒)をずっとこれで磨いているが、なんの問題もない、というかいちど使い出すと、塗り続けないと艶がなくなって気持ち悪い。ほとんど同じ成分である双璧ポリメイトの説明書きにも、革に使えるという明記はない一方、淡色のレザーに使うなという注意書きはある(笑)。

kure

 おそらく、問題になる成分は入っていないので革のつや出しにも使えるが、なにか問題が起きたときに逃げるために、使えると断言はしていないのだろう(艶が出る=すべる、ということではあるので、シートをそれで磨いて垂直バンクを駆け抜けたりしたら大事故の可能性はあるだろう。両脚べったりのアメリカンにジーンズで乗る身としては、たとえシートがガラスでできていたとしてもすべりようがないので、愛用できているのかもしれない)。
 カー用品はそういう製品が多い。
 知っている人は知っている、シリコンスプレーが木製の敷居や引き出しをするっする動かすようになるという効果も、多くのメーカー品に「木部に使えます」の記述が明記されていないのは「吹きつけると目に見える染みができますから、そういうところを納得して、シリコンスプレーってそういうものだと理解している人だけが使ってくれればいいんです」と某社の営業のひとが言っていた。

kure
(↑KUREさんのシリコンスプレーには「木部にも使えます」と明記してあります、あしからず)

 ちなみに、撥水性のカーワックスで便器を磨くと、まるで汚れ知らずなぴかぴかの近未来便器になります。たぶん花王やライオンやP&GやLGも、そういう効果はわかっているけれど、トイレ用洗剤として売るには値段が高くなるので、発売しないんだと思う。知っているひとだけが、カーワックスで当たり前に便器を磨いているのですね。
 というわけでバイク用のアーマオールで革ジャンを磨く。
 つやっつやになった。
 着て動くと、ぎゅっぎゅと鳴く。
 満足した。

 以上。
 秋が来たらいっしょにバイクに乗ろうぜ。
 おじいちゃん。

(たまたまなんの問題もなく革が洗えてしまった話でしたが、ご自身の愛玩物でためされる向きには自己責任で。どうなってもしりませんよ。私も、自分で買った革ジャンは洗ったことがありません)





(↑画像クリックで拡大します)

作・ツキシマユニ × ヨシノギタクミ

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ユニさんは海洋生物や植物などをモチーフに、
そんなものに挑んだら逝ってしまうよ!
というような微細なタッチで巨大な画面を描く。
以前からそういうひとではあったのだが、
タトゥショップで働き出して覚醒したのである。
ショップのオーナーが彼女を採用したのは、
イラストレーターとしての腕もあるだろうが、
ユニさんがバイク乗りのちっちゃな女性であり、
寡黙で可憐というそのキャラクターが顧客愛玩物になりうる
という計算があってのことだと私はいまも疑っている。
ともあれユニさんはその入れ墨屋に長く勤めたわけではない。
けれどもその後、彼女からのメールが変わった。
画像が添付してあって開いてみるとタトゥ。
はだかの男の肌に油性ペンで描いた、
シャワー浴びたら消えるが描くのには目眩しそうな時間がかかる、
そんなのの感想を求めてくる。
どうやらそこかしこで、

「脱いで。そして描かせて」

という癖に目醒めてしまったようなのだ。
私はおびえた。
美大生だったころ隣のアトリエが彫刻科で、

「脱いで。そして型取りさせて」

というのは日常的な光景で、
私も美人な先輩などに求められると断れず、
しかしそこはそれ。
飽くことのない性的欲求不満の権化である年頃。
冷たく、そしてやがて発熱する石膏とか生ぬるいシリコンとか。
したたり落とされて動くなとか言われても……
よい想い出よりも恥ずかしい想い出のほうが多い(笑)。
そんななのでいまなら平気なのかもしれないが、
ペン先で肌をなぞられるなんてそんな、ダメだよ。
というわけで。
やがてきたそのときに私は断固とした態度で言ったのです。

「よしわかった、我が分身である、とかげをキミの好きにしろ」

むかしむかしに私の描いたとかげを線画にして彼女へ。

(ご存じ『とかげの月 / 表紙』に居座る青いヤツ)

そこにツキシマユニの魂なのか性癖なのかの描写が加わり。
ユニさんは完全に手描きのひとなのでスキャンしたら、
ここに載せるなら背景が黒のほうがいいねってことで。
黒地に赤い私の分身が陵辱された姿となったのでした。
ついでに見上げる月にも小さな分身を。
月で追いかけっこする青と赤の私のとかげ。
気に入ったので、しばらくこれでいきます。
ありがとうツキシマユニ、愛してる。
イラストには、その1、ってあったから次のもあるってことだよね。
身もだえするほど、たのしみだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 数日前、ユニさんがうちにやってきて、おみやげだと言って山積みの鶏手羽唐揚げと柿ピー(正確には柿の種型ではなくボコボコしたおかきとピーナツの混合物)をくれた。なんかどこぞのテキ屋さんと仲良くなったらしく、売れ残りを持って行けともらったのだけれど、どう考えても食べきれる量じゃないからタクミさんのおつまみにと思って持ってきた、ということらしいのだが。あいかわらず、ヤンキー系の男子に人気のあるらしいユニさんだ。

 けっきょく、その日は食べきれず、柿ピーは大きなタッパーに入れて冷蔵庫にしまった。鶏手羽唐揚げは冷凍したかったが、王将の餃子を買いすぎて詰めこんでいたために冷凍庫が隙間なく詰まっていて、それも冷蔵庫に保存。翌日の夜はひとりで、それらを晩ご飯にした。

 勤めている店の閉まるのが21時なので、毎日、晩ご飯は日付の変わるころである。食事前にメールの返信を書いて、三十分くらい筋トレをする。決まってテレビにはプロレスか格闘技が映っている。すべて録画。リアルタイムにテレビを見ることはない。視聴率を測定する器械がうちで計測していたら、視聴率軒並みゼロ%になるところである。

 その日は、ここ最近の儀式になっている三沢光晴追悼ビデオを観てから、ゴールデンタイムに放送していた、ボクシング三大世界戦を観た。
 長谷川穂積が戦慄するほど美しい防衛戦を演じた夜でした。
 でも、私がビールの栓を開けて、ツキシマユニの魅力によって貢がれた、柿ピーと鶏手羽をつまみ出したときには、まだ粟生隆寛とエリオ・ロハスのWBC世界フェザー級タイトルマッチが続いていた。羽毛級は55.3〜57.2kgの軽めの階級。総じてフルラウンドを闘いつづけるという消耗戦になりがちだけれども、その夜の闘いはまた、まれにみる五十キロの男たちが互いにふらっふらになる凄絶至極なドツキあいで。
 ボクシングのおもしろみを、凝縮した一戦だった。

 一ミクロンの脂肪さえないカラダは、闘える限界を追い求めた結果。プロレスや総合格闘技と違い、掴んで倒す選択肢のないボクシングでは、リーチ(腕の長さ)が勝敗を左右する直接的な要因となる。だから選手たちは、自分の身長で、なるべく軽い階級で闘おうとする。力石徹が葉子に水道の蛇口を針金で縛られて、乾ききった自分の狂気と闘う場面はあまりに有名だが(あれは、初登場シーンで矢吹丈よりも「うっかり」背を高く描いてしまったがゆえに、あとでふたりを闘わせるのには、力石に超減量させざるをえなかったということらしい。作者って神であり悪魔ですね)、ボクサーの減量は、健常者のダイエットとはまったく違う「一線を越えるために血さえ抜く」、闘うための狂気と呼べる作業である。

joe

 粟生はリミットちょうどの57.1キロで前日計量をパスしたとニュースで読んでいた。リミットちょうどなんていうことが、食事制限のみで具現するわけがない。きっと、ぎりぎりのラインまで筋肉量をたもち、計量の直前に抜けるモノを抜いたのだ。水分を、血を、全身は毛どころか皮膚まで削るいきおいで剃られてつるつるだったことだろう(あくまで想像です)。

 そんなやつらのふらふらの闘いを観た。
 闘うとは限界を追い求めてそれを越えることだと思いながら、柿ピーと鶏手羽唐揚げをむさぼり食う。ラウンドとラウンドのあいだにCMが挟まれる。

naishi

 『ナイシトール』
 意識して歩いても、暴飲暴食を控えても、うまくいかないあなたはこれを飲むとよいよ、みたいな。思わず骨から肉を歯で引きはがす作業をストップして、テレビに見入ってしまった。このタイミングで、このCMか。なぜ。なにを狙っているのか。

 みずからを鍛えるということの美しさに嘆息している一戦のさなか、鍛えるためのバーベルを、もっと鍛えるためのプロテインやアミノ酸飲料を売ろうとするならわかるのだが。そのCMは、鍛えてもダメな人にナイシトール、とは告げない。意識して歩いても? この試合を観ながら、よし明日からはおれは意識して歩くぜ、などと決意するものだろうか。
 ナイシトール。
 つまるところ、そのCMは。

 ラクして痩せる方法、ありますよ。

 と、告げている。
 ボクシングの中継を観るのだから、鍛えられた肉体に対する崇敬と、ゆるんだ肉体への憎悪が視聴者のなかには存在すると踏んで、大金を払ってそれを流すのだろうか。いや、ボクシング中継のスポンサーになってくれることはとても嬉しいのだけれども。
 違和感が、私には、あった。
 フェザー級の男たちの、この身を削る闘いを観ながら。
 薬で痩せるぜオレ、と決意するやからが存在するということに。
 存在しないのであっても、存在すると踏んだ企業の見解に。
 嫌悪感を感じる。

 ボクシング中継のCMは短い。
 ラウンドが終わりCM、そして次のラウンド。ナイシトールで痩せましょうと告げたあと、画面には、汗みずくで、一ミリでも遠くにパンチを放つため、脂肪どころか筋肉とその精神まで絞りあげてきた男たちが映る。
 私には、ボクサーたちの極限を越えた努力への冒涜とうつる。

 そしていきどおって喉が渇き、ビールをあおり。
 皿に山盛りになったニワトリの骨を見つける。
 脂肪も軟骨も、きれいにこそげとって喰ってある。
 あんなにぱんぱんだった柿ピーのタッパーに、ずいぶんとゆとりができている。
 それはどこへ行ったのか。
 私の腹か。
 もうちょっと腹筋しておくか。
 でもアルコールはいって筋トレはまずいか。
 明日にするか。

 ともあれ、満腹だ。
 ありがとうツキシマユニ。
 月の二匹も愉しそうじゃないか。
 私の描いた私。
 ツキシマユニの彩った私。
  
 私と私の追いかけっこ。
 陰陽月蜥蜴巴(いんようつきとかげともえ)の図
 そう名付けよう。



 とかげは、もう一匹の自身を追う。
 永遠に追いつけないと知りながら。
 だから、追う。
 止まれば、追いつかれてしまうから。