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You will always be a child of two worlds.
I am grateful for this, and for you.

(おまえはいつでもふたつの世界の子供だ。
 私はその事実と、おまえ自身に感謝している)


 映画『スター・トレック』(2009)

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映画『スター・トレック』公式サイト

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 アメリカでは、オバマ大統領がトレッキーだということもあって、映画のなかの、このセリフが宣伝にも多用されているみたいだけれど(ヒラリーの大統領選での活躍に、『スタートレック:ヴォイジャー』のキャサリン艦長を連想したよね、トレッキーのみんな)……「緑色の血をしたゴブリン」と呼ばれる感情のないバルカン人と地球人のハーフ、スポックの魅力は、キレるところだ。
 半分ヒトなので、実は感情がある。

 そのバルカン人、スポックが、今作では部下(友人)を殴る。
 そして、ひとりになって苦悩して、父に冒頭のセリフを投げかけられるのだが。
 あんまり人種問題が身近ではない日本で暮らすトレッキーの私にとっては、そのセリフよりも、直前のスポックのつぶやきのほうこそが、興味深かった。

「まるで子供のころに戻ったかのように混乱している」

 裏返せば、スポックは幼少期、ふつうに混乱していたということである。
 しかし成長とともに、あらゆるパニックを押し殺すすべをおぼえた。
 つまり、バルカン人としてもっとも有名なスポック副長が、そもそもバルカン人としては種族物真似をしているだけの、むしろヒトに近いヤツだったということになる。ていうか、スタートレック好きならだれもが薄々と疑っていることだと思うのだが、半分ヒトのスポックは例外などではなく、そもそもすべてのバルカン人には感情があるのではないだろうか。でも、バルカンの誇りにかけて、キレない。その葛藤が、かえって冷静さとはなんであるかを観る者にうったえる。

 だれもが、だれかを演じている。

 そのことを暗にほのめかす、緑色の血をしたクール種族、バルカン人は娯楽エンターテイメントの歴史上、類を見ない傑作キャラクターのひとつといえる。

 まあ、そんなこんなで、スポックがキレて、カーク船長が生まれるという、いきさつを描いた今作は、J・J・エイブラムスが監督に決まった当初から、彼がトレッキーではないことを公言していたために、ファンのあいだでは「どうなっちまうんだ」という不安ばかりが先走っていたのですけれども。

 ふたを開けてみれば、なんかそれが良かった感じ。
 ジェフリー・ジェイコブ・ エイブラムスは、あの自由の女神の首をもいだ偽ゴジラ映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』をヒットさせたことで有名なヒト。あの映画も、私のとなりで観ていた妻が始終きゃあきゃあ言っていて、でも、観終わったあと悪夢を見たりはしないという、健全なアトラクションホラーぶり。サービス精神は折り紙付きである。

HAKAISHA

(余談だが↑この映画を観ていて、建物の半地下とか、レンガ造りの小さな橋とか、個人的なハンディビデオで撮るニューヨークのちょっとした風景のあちこちで「あ、ここ来たことある」というデジャヴを感じたのですけれど……私はアメリカの地を踏んだことはない。あとで考えてみると『GTA4』でした。くまなく歩いたあのリバティ・シティ。それはすっかりもう、私の「行ったことのある土地」になっていたのです。偉大なりグランド・セフト・オート。追加コンテンツ『The Lost and Damned』の日本語化はまだか)

 監督がトレッキーではないので、そうじゃないヒトが観てもたのしめる──いや、ボーイズラブ好きなら、この構図は熱狂さえできるかもしれない──それくらいにカークとスポックの友情と信頼のはじまりを、ていねいに描いている。
 サービス精神旺盛な監督が気を使ってくれたのか、トレッキーたちのためのあれやこれやを惜しまないでくれたことも、完成度を上げた一因だ。
 伝統のハリボテ岩場こそ排除されたが、伝統の「映画のボス戦は高くて細いところで一騎打ち」シナリオは守ってくれているし、トレッキーが集まれば話す「ビーム転送って壁のなかに転送されないようになっているのはともかく、水のなかとか、出現したら落下する場所なんかに出る可能性は絶えずあるんじゃねえ?」というのを実際にネタにしてくれている。登場人物たちも、アーチャー艦長のビーグル犬ポートスを転送させるのに失敗したスコットの左遷先での境遇が描かれるし、カークがマッコイをはじめて「ボーンズ」と呼ぶ場面まである。どれもトレッキーでなければわからないネタなのに、ちゃんと意味不明ではないドラマにしてあるという。苦労したろうな、この脚本。

 そんな優秀な脚本家コンビ(これも片方はアンチ・トレッキーであると公言している)が、あきらかに唐突な印象になるとわかりながらもサービスしてくれた、旧スポックの登場こそが、この映画を、トレッキーたちがすばらしいと絶賛せずにはいられないものにしたのはあきらかなことで……汚い手口だ(笑)。しかしドラマシリーズのほうでも、タイムスリップして旧シリーズの自分と出会うといった演出は、視聴率が低迷すると使われる、これこそスター・トレックの定番手法。
 そのおかげもあってか、この新機軸スター・トレック映画はすでに続編が決まったらしい。
 スター・トレックは滅びない。
 まさか、カークとスポックに戻るという、ドラマのほうでシリーズ打ち止めのあだ花となった『スタートレック:エンタープライズ』のおかした正史以前を描くという愚をもって、これが成されるとは……実際には、並列世界のままでこの後も進行し、正史とは別のドラマになるという設定だそうだが、なんにせよ、スター・トレックはトレックである。いまさら並列世界だろうがなんだろうがそんなもん関係あるか。

 復活、スター・トレック。
 実によろこばしいことなり。

 SF好きなら、今回の脚本のプロットは、どうしたってバクスターの『時間的無限大』を連想せずにはいられない。

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「それが千五百年もたったら──」ハリーが口をはさんだ。
「いったいどこまで進歩していることか。特異点そのものをつくれるようになっているかもしれない。おそらく最大限数トンの小惑星程度のものだろうな」
「なにに使うんだ?」
 マイケルは両手を大きくひろげてみせた。「コンパクトなエネルギー源としてだよ。キッチンにブラックホールがあるとするだろ。そこにゴミを投げこんでやれば、ゴミは一瞬にして目に見えないほど小さく圧縮されて、しかも役に立つ短波長の放射線が大量にでてくる。でなければ、人工重力だってある。そうだな、たとえば月の真ん中にブラックホールを埋めれば、月面の重力を好きなだけ大きくできる」
 ハリーはうなずいた。「もちろん、特異点が月を食わないようにしておく方法を見つけなくちゃならないわけだな」
「ああ。重力波もつくれる。ブラックホール同士を衝突させればいいんだ。牽引ビームができるぞ」


 スティーヴン・バクスター 『時間的無限大』

Stephen Baxter

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 牽引ビームは、この映画の時点ではまだスター・トレック年表の先だが、特異点を生成する技術は物語の核になっている。『時間的無限大』同様、タイムスリップによる歴史改変の攻防が描かれてもいる。けれども、映画のなかで、老スポックと現代のスポックは対面するのである。
 通常、タイムスリップした人物が過去の本人と出逢うと、観測者問題がぐちゃぐちゃになって宇宙がはじけて消える。
 しかし、スター・トレックでは無視だ。
 脚本は、タイムパラドックスを笑っている。
 おもしろければいいのだ。
 そこを徹底するところが凄い。
 『時間的無限大』の魅力的なプロットを映像化するのなら、シュレーディンガーの猫と、ウィグナーの友人のパラドックス(猫を殺す実験をしているシュレーディンガーも、友人ウィグナーが訪ねてきて「ようシュレーディンガー」と見つめて観測してくれなくちゃそもそも存在しないんじゃないのっていう矛盾)を、描きたくて仕方ないのが脚本家のサガであろう。宇宙の有様とか、精神世界の果てなどを描きたくなってしまうのである。ましてスター・トレックという壮大なるオペラは、それをやっても許されるのだ。過去へ行く、我々は宇宙を視ることで宇宙を確定させる!!

 しかし。
 そこを抑えて、パラドックスも無視して。
 はっきり言ってしまえば同人誌的な作りにしたことで、世界は認めたのである。
 うん、これなら続けてもいいよ、スター・トレック。

 このあいだ、グレッグ・ベアが『Halo』の小説を書きはじめたらしいという話をしたが、そういえば彼は『スター・ウォーズ』の小説も書いている。

「大好きな物語の新しい部分を描く」

 それは、ふつうのヒトがやるとパロディ同人誌と言われる。
 しかしグレッグ・ベアともなると、その書いたものが正史になり、世界中で一般市場を熱狂させるのである。なんてうらやましい。もちろんグレッグ・ベアもそれで大金を稼ぐのだ。オリジナルシリーズにはまったく関わっていないにもかかわらず、大好きなジェダイや、マスターチーフの自分だけの物語を設定流用で書いて、スイス銀行の口座残高が跳ね上がる──同人作家の夢です。まあまずそれにはオリジナルで名を売る必要があるわけなんだけれど。

 そういうわけで、この新作『スター・トレック』。
 観ながら感じたのは、嫉妬。
 トレッキーでもないくせに、自分だけのスター・トレック正史を描いちゃった監督に、熟したトマトをぶつけたいくらいに嫉妬した。旧スポック本物使って同人展開? カークのやんちゃな少年時代? きっと世界中で「こんなのが許されるならオレにもやらせろ」という著名なトレッキーたちが地団駄踏んでいることでしょう。
 悔しかった。
 我が愛しのスター・トレックがJ・J・エイブラムス色に染められてた。

 私としては、リアルタイムに観ていた新スター・トレックのシリーズで、ふたつの世界をつなぐスポックの役割を担っていたアンドロイド、データが全スター・トレックキャラのなかでもっとも愛するところ(生殖器を持つ感情のないヒト型ロボという設定は、のちの日本産ロボっ娘作品の多くに影響を与えた。なにしろその存在自体がせつなさのかたまりなのである。ああもう思い出すだけで泣ける完全ヒト型なのに無機物な悲哀なのです)。
 だからこれでもう新スター・トレックの映画化は打ち止め確定だということにも、寂しさをおぼえるのですけれども……アンドロイドだからね。演じている役者は歳を取ってしまうので、限界だったとあきらめるしかないんだろう。映画第10作『ネメシス/S.T.X』のときには、データの顔のしわをどうしてもさがしちゃったもの……おしろい塗り込んでいるから、小皺も見えちゃうんだよな。ハイデフ映像時代に、アンドロイド役演じるヒトはお肌の管理が大変です。

 いつか、データも新キャストで描かれる日が来るだろうか。
 そんなときがあるのなら、その日のために。
 まずはオリジナル売っておかなくちゃな。

「スター・トレックに登場する技術は現実世界で実現する」

 そういわれたトレックが、過去のトレースをメインストリームとすることは、現実世界の行き詰まりを現すようでちょっと怖いところもあるのですが、いやいまこそ過去を見つめなおし、きっとその先には想像を絶する新たな未来が開けるのだと。
 信じて、観つづけます。
 映画のヒットで、テレビシリーズのファンも増えるといいなあ。
 愛されるには、理由があるのです。
 スター・トレック、愛してる。

Star TrekStar Trek




 大好きなプロレスラーが死んだ。
 彼は妻と娘に泣きじゃくられて、棺には大好きだったウルトラマンと仮面ライダーのフィギュアが詰められ、多くのファンに名を呼ばれながら、焼かれた。焼かれたその肉体に彼はもういないのだけれど、私も、そのニュースを見て瞳を潤ませている。彼の名を呼んでいる。焼かれて溶けていく仮面ライダーはまるで埴輪だが、彼は、そんなボディガードなど、いらないくらいに強い。でもどんなに強くても、そのときは等しくだれにもおとずれ、だれもが答えを知ることになる。
 どこへ行くのか。
 行かないのか。
 なにかがはじまるのか。
 終わるのか。
 終わりもはじまりもない連続なのか。

 焼かれていく。
 ヒーローを愛し、みずからヒーローになり、全身の関節が思い通りに動かなくなって、なお演じ続け、その舞台で逝った。彼の追悼番組を観ながら、思った。

「まだ、集めた、たきぎを焼いていなかっただろうにな」

 そういえば、ジョナサン・キャロルの、その物語について、触れていなかったことを想い出した。いつだって、死のそばにいる作家。
 ジョナサン・キャロル。

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 ヴァンパイアは人を生かしているただ一つのものを盗む。血のこともあれば、希望、愛、野心、信念のことも。わたしはどれも盗んできた。


 ジョナサン・キャロル 『薪の結婚』

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 去年一年、ヴァンパイアの話を書いていて、知識が足りないと検索しまくっては書籍を買いあさり読み続けていたのですが、実はそのときすでに私の手もとにはその本があり、けれどヴァンパイアものを読みあさっていたので後回しにしていたら、その検索作業のなかで、ジョナサン・キャロルの新作、まさにその本のタイトルを見つけてしまった。
 なんと。
 キャロルが、ヴァンパイアについて書いているという。

 しかし、読み終えたとき、私は、この作品をどう消化してよいのかわからず、ただそのときこのサイトで、さかんにしていたヴァンパイアの話と、並べて語ってはいけないような気がして、ジョナサン・キャロルの新刊を読んだのに触れもしないまま、一年くらいが過ぎました。

 そうこうしているうちに、この春、クレインズ・ビュー三部作と呼ばれる、クレインズ・ビューという街を舞台にした、登場人物も重複する三冊のラスト『木でできた海』の邦訳が出て。プロレスラーの死にキャロルを思い出し、いまさらながらに『薪の結婚』についても触れておこうかなあという感なのですが。

 待ちに待ったジョナサン・キャロルの新刊が次々出ているのに、嬉々として喋ることのできない私。理由の大きなところは、そこにあると思う。

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『蜂の巣にキス』の話。

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 私は書いている。
 「この歳になってジャニーズの追っかけをはじめたので」翻訳が遅れているなどという発言に至っては、キャロル読者に多い女性たちが「それならば仕方ない」と許しても、私は殺意をおぼえました(笑)。
 と。

 私にとってだけでなく、すべての日本語でジョナサン・キャロルを読む方々にとって、翻訳者・浅羽莢子さんの存在は、ほとんどキャロルの存在感とイコールで結べるところにありました。そのひとの日本語あってこその、ジョナサン・キャロル。ダーク・ファンタジーを日本語で読むには、そのひとの筆力が必要でした。

 その浅羽莢子さんが亡くなった。
 三部作の、一作目を訳して。
 彼女のブログは、いまも消えていない。
 私は定期的にそのサイトを覗いていたので、てっきりキャロル攻勢をかけている創元社に急かされて、更新する暇もないんだなと思っていたら、亡くなっていた。
 ジャニーズの新作CDを買ったという記事が彼女のブログの最後のページにある。
 なんど読んでも、苦笑して、泣けてくる。
 ジョナサン・キャロルと、浅羽莢子が、私に与えた影響は、筆舌に尽くしがたいものがあり、まったく大げさではなく、十代に彼らの文章と出逢わなければ、私の人生は、いまとはまったく違うものになっていたはずだ。

 伝え聞く話では、乳癌の末期であると告知を受け、木村拓哉関連のコレクションの処分に奔走した最期だったという。ああ、私も死を告げられたら、いろんなものを処分しなくちゃいけないし、このサイトはどうしようか彼女のように残したまま逝こうかなどと考えて、彼女の夫が英語圏のかたで日本語があんまりというのもブログで読んだけれど、彼はその後どこでどうやって生きているのだろう、とか、なんか。それはひとつのジョナサン・キャロル作品の中に出てくるエピソードのように思えてきて。
 『薪の結婚』を読みながら、なんどもそのひとのことを思ったのです。
 だから、ちゃんとした書評にはならないと思った。
 いやふだんからちゃんとした書評なんて書いていないが。
 そんなわけでいまにいたるのですけれども。

 時間が経って思ってみても。
 あの『蜂の巣にキス』。
 キャロル作品のなかでも、あまりにも異質な「ダーク・ファンタジーではない」キャロル作品が、彼女の訳した最後のキャロルだったというのは、それこそがどこか幻想的だ。むろん、彼女は『薪の結婚』をすでに読んでいたはずで、彼女が読むということは、訳しかたを考えながら読んでいたということに違いなく、その情報がすでに頭にあった私は『薪の結婚』を読みながら、なんどとなく、たまらずにため息をついたり、背中に寒いものが走ったりした。

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 ふつうの人はよみがえらない。一度だけ生きて、死んでいくの。


 ジョナサン・キャロル 『薪の結婚』

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 その一文を、どう翻訳しようか考えながら読んだのだろうか……思うと、こちらが冷静でいられなくなる。『薪の結婚』の訳は、非常に親切で、読みやすい、良い訳だと思う。何冊か読むうちに、私も慣れるだろう。けれど、まだダメだった。ああここはきっと原文ではこうで、だったらこういう訳しかたもあるんじゃないかと、思ってしまう。『薪の結婚』というタイトルからしてそうだ。「薪」は「たきぎ」と読むのだが「まき」とも読める。私が薪を売る仕事をしているせいもあるだろうが、このタイトルを見たとき、想像したのは、キャンプファイアーで組み上げるような、人の腕ほどもある「まき」だった。原題は『THE MARRIAGE OF STICKS』。読みはじめればわかるが、キャロルが作中で書いているのは、細い枯れ枝のことである。

 あなたの人生で、なにか大切なことがあるたびに、枝を拾い、そこに出来事を書く。起こったことでも、人や、土地の名前でも、なんでも。自分だけがわかればいい。その枝を暖炉のそばや、飾り棚の上に、積み上げていく。大切なことはそんなには起こらないだろうけれど、たまには枝をより分けて、本当に大事なものだけを残して、あとは捨てるようにする。

 あなたの人生が、あとわずかというとき。
 残った枝を、ぜんぶまとめて燃やす。
 想い出とともに。
 たきぎの結婚を、終わらせる。
 人生のすべてを。
 あとは、あなたを残すだけ。

 木村拓哉の写真集が棚から消え、自分の訳したジョナサン・キャロル作品だけが残り、手もとにはまだ訳していない、もう訳せないキャロルの『THE MARRIAGE OF STICKS』。彼女が大好きだったSMAP。その特番で稲垣吾郎が演じた仮面ライダーGの放送を、間違いなく彼女も観ただろう。
 仮面ライダーGが、言っていた。

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『仮面ライダーG』のこと。

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 悪と正義のマリアージュ。
 マリアージュ。それはワイン業界用語で、ワインと料理が相乗効果ですばらしい完成度となる結婚を指す。私と同じことを、彼女もまた思っただろうか。

 キャロル作品って、生と死のマリアージュ。

 不死なる者ヴァンパイアは、生きるほどに他人から搾取する。
 その血を、夢を、希望を、人生そのものを。
 他人から奪いとり、自分は永遠に死なない。

 しかしその構図は、裏返せば、奪い続けなくてはならず、死んで終わることも許されない、ヴァンパイアの苦悩も生み出している。彼女の仕事を待っている読者たち。生き続ける夫。彼女にとっては、私たちがヴァンパイアだ。彼女は私たちのために生きてくれた。そして、私たちは彼女の喪失をなげきながら、生き続けなければならない。

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 覚えているだろうか? 骨の髄まで自分をおびえさせ、そのせいで大嫌いだったクラスメートに脅されるのが、きわめて恐ろしくあらゆるものに影を落とすほどだったことを。相手を負かすことはできない、絶対に。なぜなら相手のほうが強かったり、かわいかったり(または強くてかわいかったり)、賢かったり、大きかったり、怪物的にひどく意地悪だったりするからだ。幼いころは人生について何も知らないため、自分と同い年──七歳とか、八歳とか、九歳──のその相手が、死ぬまでずっとつきまとい、永遠に脅威であると思いこんでしまう。


 ジョナサン・キャロル 『薪の結婚』

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 けれど幼いころが遠い昔話になり、生よりも死のほうが近いところにあると気づいたとき、人は同時に、自分が生きていることが奇跡そのものだと気がついてしまう。

『蜂の巣にキス』
『薪の結婚』
『木でできた海』

 浅羽莢子を継いでクレインズ・ビュー三部作の残りを訳した市田泉は、二冊目の訳者あとがきで書いている。この三部作は、舞台が同じだからそう呼ばれているけれど、もちろんどの一冊から読みはじめてもたのしめる、それぞれは独立した物語だと。
 私は、これには異をとなえたい。
 『蜂の巣にキス』で殺された少女ポーリンの妹、不良警察署長フラニー・マケイブの妻マグダは、連れ子な娘に死んだ姉の名をつけている。そのせいで三冊を立て続けに読むと、すべてが混沌としたひとつの話に思えるところがある。それはすなわち、一冊目では死んだ少女の謎を追い、二冊目では焼け落ちる幻影の家のなかをかけずり回り、三冊目では未来を見るところから物語がはじまるという、フラニー署長こそが、まぎれもないこの三部構成の物語の主人公だと思えるということである。
 そして、それが意図的な構成であるという確証こそが『蜂の巣にキス』が、ダークファンタジーではなかったということではないだろうか。あからさまに、この三冊は、あとになるほどキャロル節を深め、現実よりもファンタジーの割合が多い、それなのに現実を引きずっているという、いつものダークファンタジーに彩られていくのである(詳しくは書けないが、そして物語はファンタジーの域を飛びだしてゆく)。

 三冊目ではフラニーの娘になっている十七歳のポーリンが、死んだ犬に魅入っているのを見つめ、親父はつぶやく。

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 十七歳のころ、死は何光年も離れた星に過ぎず、強力な望遠鏡でもなかなか見ることはできない。その後、年を食うにつれて、死が遠くの星ではなく、自分の頭めがけてまっすぐ落ちてくるいまいましい小惑星だと気がつくのだ。


 ジョナサン・キャロル 『木でできた海』

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 フラニーは、死と生の狭間を越えて、さまようことになる。
 あまりにも異質な「ダーク・ファンタジーではない」キャロル作品を、彼女は最後に訳して、死を越えた先の続きを残して逝ってしまった。幻想的だと私はさっき書いたけれど、その事実は、三冊を読み終えた浅羽莢子フリークにとっては、ホラーでさえある。
 ジョナサン・キャロル。
 幻想世界の王。
 この国では、さらにその色を濃くした。
 濃すぎて、夢見るよりも、怖いくらいに。
  
『薪の結婚』

 それはフラニー・マケイヴ三部作の第二部。
 生の時間が終わり、死が絶対的で謎めいた力を見せはじめる中盤。
 私たちはだれもがヴァンパイなのだと気づき、眠れなくなる。

 本当に、だれにも真似のできない、してはいけない、小説のタブーといえる構成を、このひとは危なげもなく組み上げてしまっていて。『薪の結婚』は、ジョナサン・キャロルがとんでもない小説手法を使っているとわかる人には、こんなひとが存在していること自体がファンタジーな作品です。この作品を書きながらキャロルは次作『木でできた海』のプロットを錬っていたのだろうが……私なら思案するまでもなく読んだ瞬間に「ゆうべのおれはなにを考えていたんだ?」とゴミ箱に投げ入れるだろう、ありえないプロットを、キャロルは『薪の結婚』を書くことで自分が操れることを確信し『木でできた海』を書きはじめ、そして書き終えてしまう。こんな技を使いこなせるひとがいるんだ……それはもう賞賛とかそういう次元を越えて、デタラメすぎて、本気で魔法なのではないかと……
 いやこれは、魔法です。

 三冊あわせて、読んでください。
 順番通りに。
 そうすれば、ジョナサン・キャロルの魔法は、あなたを怯えさせると同時に、守ってもくれるようになるはずです。想い出を書いた小枝を積み上げて。まとめて燃やす日を待つのが生きるということ?
 そうだ、というようにもとれるし、違うとも読める。
 たきぎを燃やす間も与えられず、亡くなったプロレスラーに、声援を送りながら、かわりにここで私たちが燃やしているよ、と、つぶやいている。
 たぶんあなたは、私とはまったく違うキャロルを読むのです。
 もう読んだ人は、いま私が書いた感想を読んで、なぜそんなところを引用? もっと心にぐっと来る言葉がいっぱいあるじゃない、と思うことでしょう。
 そう。それは私がキャロル作品のなかで見つけた、私だけのもの。
 私の人生と、ジョナサン・キャロル。

 そのひとの書くものを、まったく読んだことがないという人は、図書館で借りてきてでも、初期の作品から順に読むことを強くおすすめします。なにも得られない人もいれば、その作者の名を一生忘れられなくなる人も多いはずだから。あなたが得る人ならば、それに触れずに逝くなんて。
 どこで、さまよってしまうものか。
 読まずに、道が照らせるものか。
 とても心配になります。 

 死は、軽くならない。
 けれどある種の魔法で、彩ることはできる。薄めるのではなく、極彩色に着飾った死神は、どうしようもないところや、滑稽なところも持っていると、気づくのです。
 愛せないけれど、憎むこともない。

「〝死〟?……そうだなあ、あいつはさあ」

 そんなふうに、考えることができるようになる。
 いま私は、ジョナサン・キャロルに助けられて生きている。
 届けてくれた彼女にも最大級の感謝をおくりたい。
 まったく大げさではなく。
 21世紀にも、魔法使いは実在します。
 ひとをたすけてくれる。

carroll
carroll
carroll

『Jonathan Carroll公式サイト』

 三沢が題字を書き、この春はじまったばかりの新番組。
 『ノアぷ~』。

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『テレビ大阪・ノアぷ~』の話。

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 その第6回。
 森嶋猛が照れながら言う。

「ノアぷ~、はじまるぜ!」

 その頭上に、テロップが流れた。

「13日夜、三沢光晴さんがお亡くなりになりました。
 謹んで三沢さんのご冥福をお祈り申し上げます」 

 当日の放送、番組はフィラデルフィアのKENTAと、空手道場の小橋だった。
 冒頭のそのテロップ以外になにも情報はなく、隣の部屋ではすでに妻の寝ている深夜、私は自分もすでに寝ていて、なにかの夢を見ているのかと思った。思いながら、でもそれはきっと事実なんだろうとも思った。それが、ありえることだと、知っていたから。

 翌朝、映像を見た。

 リングサイドの女性観客たちが口もとをおさえはじめ、会場がどよめき、そして手拍子とともに「三沢」コールの大合唱。それでも反応がなく、男たちが泣き叫び、控え室からは高山が、どうしたのだと現れる。リング上では倒れた三沢を取り囲み、KENTAが驚いたように後じさり、丸藤が両手を打ち合わせている。

 観客たちも、拍手していた。
 おかしな光景だけれど、ノアをずっと。いや全日の時代からの三沢を見続けてきた者たちにとって、それは条件反射のようなものだ。タイトル戦では、三沢は決まって言った。

「うーん。あのバックドロップまではおぼえているんだけどね」

 そのあとの記憶がないと。
 でも勝ったのだと。
 実際、ありえない技をくらい、リングに大の字になり、それでも、リングサイドの選手が、観客が、三沢の名を呼び、覚醒させようと拍手をすれば、いつだって起き上がってきた。

 この春の三沢光晴の調子が良くないことは、ファンなら一試合観れば気がつくというレベルで。三沢自身が、絶えず「あとどれだけやれるか、だから、オレは」と口にしていたし、今回のタッグリーグは、相棒に選んだ若手の成長株、潮崎豪を指して「潮崎の出来しだいだよ」とはばからず言うくらい、試合のさなかもロープの外側に陣取ることが多かった。

 四天王プロレス、と、ひとは呼ぶ。

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『ノアぷ~(仮)』の話。

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 それは、ありえない技を、ありえない受け身の技術でかわしてみせる、闘牛だった。
 そこに死が隣りあわせで在ることは、だれもがわかっていたから、それは特別だったのだ。
 ほかのだれも、演じられないからこその、伝説。

「あとどれだけやれるか」

 だましだまし、やるものではなかった。
 受け身の天才であり、すべてのバックドロップを丸め返してしまう三沢であっても、46歳、ましてあきらかに体調の悪いいま、それは受けるべき技ではなかった。
 なかったのだが。
 このノアのおかれた状況で、プロレス界の現状で、だれがむちゃをやるかといえばオレだろうと、三沢は間違いなく思っていた。リストラに反対し、地上波断絶を『ノアぷ~』で回避する、捨て身の攻勢は、リングの外でも中でも、最強の社長として、ほかにありえない選択肢だったと思う。
 いまも、たぶん三沢が心配しているのは、それだ。
 自分に技をかけた齋藤彰俊が、今後もバックドロップを出せるかどうか。
 まして齋藤はDeath & Darkを肩書きにするリングネーム「死神」齋藤彰俊だ。
 私は齋藤彰俊が、好き。
 変わらないで欲しいと願う。
 三沢もそれを望んでいると信じる。
 今後、NOAHがどういった形になっていくのか、唐突に社長でありスター選手である三沢を失った、プロレスリングNOAHの社員たちこそが恐慌状態だとは思うが。

 そこでも吠えるのが。
 すべての選手のつとめだと思う。
 少なくとも私は、それを期待している。
 これでプロレス界が、さらに?
 いや、三沢の魂を継ぐ者たちが、いま、次のプロレスを魅せてくれるはずだと、信じてる。
 私は、NOAHと、プロレスの力を、信じています。

 27分03秒。
 レフェリーストップ 。
 バイソン&齋藤組が3度目の防衛に成功。
 それがその夜、起こったことだ。
 第17代GHCタッグ王者たちを核に。
 いまからの熱いブックを、描いてほしい。

noah

PRO-WRESTLING NOAH OFFICAL SITE