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『善良な男』のこと。

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 その本の30秒トレーラーを作って、賞金とクーンツ先生直筆サインにシリアルナンバー入り特製『善良な男』を狙え!!
 受賞作は実際にCMとして販促に使うよ。

 という映像作家さんにもクーンツ・フリークにもうれしいコンテストが開催されていたのですが。
 私は参加こそしなかったものの、ことの経緯をじっと見ていた。

 で、大賞決定。



 次点のお二人。





 うーん。
 すげえ無難なところが選ばれたねって感じ。

 その他の応募作はこちら。

 ほとんどの作品が冒頭の「善良な一般市民である主人公が酒場で殺し屋に間違えられて金を受けとる」というシーンをドラマ仕立てにすることだけで満足しているところを、あえてその後のアクションシーンにまで歩を進めた、これとか。



 いっそ内容を語らない、これとか。



 そのあたりが私は気になっていたのですが。
 そもそも、クーンツ・タッチも絶好調で、申し分のない娯楽作になっている『善良な男』だけれど、発売から二年も経ってから販促コンテストってことは、たぶんあんまりぱっとしない売上げなんだと思う。このところベストセラーリストのトップを当たり前に獲っていたクーンツなので、二位止まりなんかで忘れられたのでは、版元としても、もったいない。マスマ-ケットペーパーバック版(日本でいう文庫本)はなんとしても巻き返して売りたいものだが、きっかけさえあれば売れる良作なのになにせ内容が薄いから……と頭を悩ませた結果のインターネットとユーチューブ頼みの新規顧客層開拓企画だったはずなのに。

 奇抜なところを選ばない。

 なんというかひっそりとはじまりひっそりと終わり、結果も別に……という感じのコンテストだったのでした。うーむ。日本で大々的に募集すれば、アニメ作家やAV作家あたりの逸材が、ぴしっとしたもの作って出したような気もするんだけれど。五十万円という賞金と、サイン本目当てであきらかな素人がゆるいもの作って送るせいで、コンテスト全体がしまりのない感じに。ていうか、三十秒で語れって言われたら、そのシーン描くしかないんだものな。似たり寄ったりになって当然。冒頭がすぎたら、あとは追いつ追われつキャラクター頼みで走りまわって最後はハッピーエンドの、偉大なるクーンツ王道作。
 王道だから爆発的に売れない。
 でも王道であることしかアピールしようがない。
 逃げる、というただそれだけの作品で、かつ大長編であるのに、それでいて読ませるのは、とびきりに変わっていて、小生意気で、限りなく前向きな……つまりはレイラニ的な、クーンツ師お得意の美少女が全編通して喋り続け暴れまわるから。
 ニール・スティーヴンスンの『スノウ・クラッシュ』の文庫表紙を『エア・ギア』がパクるよりも先に『ジェットセットラジオ』風味なPOPイラストにしてみたら中身はハードSFなのに売れたし、その次の『ダイヤモンド・エイジ』も単行本は目つきの悪いゴス少女で文庫は正統派甘ロリという表紙でいい感じに売れ、さあきたぜローカス賞受賞の大大長編『クリプトノミコン』! と思ったら、なんか戦前の紙芝居みたいなのっぺりしたオッサンの画と戦闘機を描いちゃって。

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 その後、2003年の『Quicksilver』はクラーク賞を獲ったにもかかわらず、いまだ未邦訳。なぜあそこでヲタ心を掴むイラスト表紙路線を続けなかったのかと悔やまれてなりません。表紙だけで買って読まない人たちのいるおかげで、中身が欲しい私たちのもとへと次の作品が供給されるというのに。ちょっと売れたからって、萌えを忘れたら干されるのです。忘れてはなりません。
 大事なのは媚びること。
 だからなんでせっかくはちゃめちゃなヒロインの大騒ぎな本なのに、こんな表紙にしてしまうかなというところですよ、ほんと。クーンツフリークの八割は「またやっちゃったよクーンツ先生ってば」という失笑こそを求めているのであって、新規顧客の開拓もそのへんの空気がわかるあたりを狙わないといけないのに、大まじめなサスペンスものみたいな見た目にしてしまって。
 売る人たちが、ディーン・クーンツを巨匠に仕立て上げようとするからダメなんだ。
 彼は、カツラをかぶった人間の子よりも犬を愛する元ポルノ作家で永遠のB級職人なんだ。
 それが偉大なのに。
 わかっちゃいねえ。

KoontzKoontz

 まあ、クーンツに至っても、ベストセラー作家は絶えず万人受けするものを書けと要求される昨今なのです。いま、そこまで行ったからこそ、じっくりと先生がこれぞと思うスタイルで描いて欲しいのに。もう売れなくたって使い切れないくらい稼いだんだからさ。「ああもうなにやっちゃってんの最高だよクーンツ大師イっちゃってるね」と私たちはのけぞりながら新作を読みたいのにな。
 先生はどうしても映画化してヒットさせたいのである(笑)。
 クーンツ先生はいつだって大まじめ。
 まじめっていうのは、度を超すとおもしろいんだよなあ。
 なまじっかベストセラーを狙って書いて、本当に売れてしまうから、頭に残ったわずかな髪の先から小指の爪の先まで、完全無欠のB級作家なのに、ふざけて作品を書くことはない。

 だから、まわりのひとが、その愛すべき、まじめクンの書いたものを、もっとバカっぽいところに届くように売らないとダメだと思うんですよ。ミクストジャンルとかSFとかって、つまりはバカな本なわけで、それをまるでいっぱしの文学みたいな顔して並べるから客が育たない。
 そのあげくがこれですよ。

 売りたいのに、客層開拓したいのに。
 コンテストに集まったのは、大まじめなサスペンスタッチばっかり。
 それ流して買う層は、もう表紙見て買ってるつーのに。

 ヒトに好きなもの勧めるってのはむずかしいね。
 しかしまあ、その伝えにくい微妙なところをたのしんでいるというところがフリークのそれたる悦楽なのであり、映画化して大ヒットとか、永遠にしないで欲しいというのも多分にあり。マニア心理というのは複雑なものです。だからあなたもきっと買わないんだろうなと思いながら、声高に勧めてみますぜ。

 ディーン・クーンツ。
 『善良な男』

 これはこれでよい!!

 いまさらいまいちど、世界中のクーンツ・フリークが『善良な男』について語るという効果を考えれば、コンテストの内容うんぬんなどどうでもよく、数十万ドルにサイン本なんて安っい投資。まんまと私ものせられたというところなのだろうが、それはそれで満足なり。
 これはこれでよい!!
 『みなみけのみなきけおかえり』を聞いていて。

「女の子はクマが好き」

 とだれかが言いきっていたので、ホワイトデーに小さなクマを配ってみた吉秒です。そしてまたひとつの真理を知る。
 テディベアに目を輝かすひとは洋菓子より和菓子が好き。
 解説できるなんの詳細なデータがあるわけでもなく、私のなんとなく感じた狭い世界のなかでの統計による戯言なのですけれど。クッキーとおせんべいが並んでいたとき、意外とクッキーのほうに興味を示す個体のほうが「クマってちっちゃいとネズミみたい」とか夢のないことを言う気がする。ちっちゃいクマなんかつけるなら、そのオマケいらないから菓子の量を増やせと毒づくような気がする。私のまわりのケーキ好きは意外にスタイルがよく、生クリームよりもあんこが好きだという向きはふっくらしているのが多い気もするので、つまり和好み人とはおおらかな人種であって、そのあたりの性格の差がぬいぐるみを愛せる大人に育つというような気もそこはかとなくするのだけれど、いや、これは知りあいに読まれていたら困るので考察をやめよう。
(ていうかさあ、職場で安いチョコ配ったりする儀式はもうやめないかね本当に。むしろくれないほうが気をつかってもらった気がしてうれしかったりするもんなあ……「義理であげたいひとがいたけど迷惑かもしれないからやめたの」って言ってるひとがいて、私のなかではそれこそ感謝の心だよねと、そのひとの株が上がったりしたのでした)

 ともあれ、三月もなかば。
 コートを脱ぐ季節がやってきて。

 ベータテストから参加してきた。
 そしてついさっきもプレイした。
 『Halo』。

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『Halo3ベータテストと仮想うつつ』の話。

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 あれから丸二年。
 この春に、その、ひとつの世界。
 戯れる、ものどもの数がえらいことになったという。

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「Halo 3」総対戦数が10億ゲームを達成

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 すごいよ。
 おめでとう。
 ありがとう。
 我がことのようにうれしい。

 総プレイ時間2兆231億5334万764秒。
 6万4109年ぶんのプレイ時間?
 なにかの冗談のような事実。

 10億って。
 調査会社comScoreによれば、2008年12月、世界のインターネットユーザー数が10億人を突破したという。家庭および職場のコンピュータからネットを利用している15歳以上のユーザーが、世界中あますところなく数えて10億人。
 世界の数字だ。
 全世界を網羅する数字だ。
 およそ200年前、1800年代に、世界人口は10億人に達した。
 たった200年。
 世界人口は2009年のいま、68億人ほど。
 一秒にひとりのペースで増えていく。
 あ、産まれた。
 あっちにも、こっちにも。
 おめでとう。おめでとう。
 忙しいことだ。
 たった200年前の世界人口だった10億人が、現代では最底辺にあたる層の人数として定義され、貧困による死に直面していると論じられる。

SUPER MAX TURBO

 そんな世界で、インターネットにも『Halo』にも出逢えた私は幸運だ。
 私は世界がつながっていることを知っている。
 さっきもカリフォルニアの彼女に手榴弾を投げつけられた。
 たかがゲーム。
 されどゲーム。
 ゲームってなに?
 ゲームって。

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飯野賢治 eno blog: 欲しいもの。

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 私が欲しいモードはねえ、旅人。
 ちょっと乱暴な感じで黒髪を紐でポニーテールにしていて、ラティーノかもしくはアジアの人なんだけれど、あんまりポリゴンも細かくないし、その人の姿自体が小さいからはっきりとは判別できないにせよ、なんか長いぼろぼろのコートかケープみたいのを羽織っていて、カーボーイブーツかなにか履いていて、向かい風のなかをただ淡々と歩いているのね。
 荷物もないみたいで、自分自身を抱きしめているのか、ケープが飛んでいかないようにか、ぎゅっと身を縮こまらせて前傾姿勢で、風が突然にやんだら前のめりに倒れちゃうんじゃないかという歩き方で。

 私は仕事をしながら、ときどき彼を見るんだけれど、いつでも彼はずっと歩き続けていて、でもなんか、ときどきふっとこっちを気にかけるみたいな気配があって「お? おれに気づいてんの?」と、こっちも気にしたりするんだけど、まあじっと見ていても歩き続けているだけだから、また仕事に戻って彼のことは忘れる。

 毎日、電源を入れるたびに、彼の旅は続いていて。
 ぜったいどこにもたどり着かない。
 でも倒れたりもしない。

 なんかね。そういうの。
 書いてみたら自虐的なことに気づいた(笑)。
 あなたもどんなモードが欲しいか妄想してみてください。
 意外に、このゲーム機で素直にがんばれがんばれとか言う萌えメイドとか出てこられると、おもしろくない気がする。かわいいだけの小動物とか、そんなんじゃなくて、これはゲームっていうか一種の時計のようなもので、なにかを知るためのデバイスだと思う。でもこの装置はどこにもつながっていないから、触れることでつながるのは自分自身のどこかなんだよ。

 ゲームっていうことの定義について翌日の飯野さんがまた語っていたけれど、本当にそれはあいまいだからこそ、なんでも飲み込むことのできる魔法だ。

 『Halo』シリーズのオンライン対戦で、ひとことふたこと言葉を交わした世界中の人たちって、間違いなくそこに触れなければ、私が一生で出逢うことなんてなかった人たち。実生活で英語に触れることはあっても「ジャップ」と言うと侮蔑になって監視者にはじかれるから、こっちが日本人だとわかっていながら「チャイニーズ?」って訊いて馬鹿にする。それに応えてこっちも片言の中国語喋ってみたり、そういうやりとりって、ひとむかしまえならオリンピック選手でもなければまずないことなのに、そんなのが毎日の10分のゲーム体験のなかで普通にある。
 10億ゲーム。
 そのパワーは、あなどっちゃいけない。
 それはもう時間潰しのためだけのゲームではないし、そこからなにも生まれないなんて、考えることのほうがむずかしい。
 世界を視る視線は確実に『Halo』以前と以後で変わりました。

 我々は、できることをするだけだ。
 それはたぶん、祈ることじゃない。
 それはそうと私は甘いモノをあまり好んで摂取はしないのだけれど、ダイエットコーラは好きだ。甘いという味覚自体は嫌いなわけではないらしい。つまるところ仮想うつつ。ここにもひとつの真理。

 ダイエットコーラが好きな人は『Halo』が好き。
 仮想現実の世界で遊ぶのは、舌を騙されるのに似ていると思う。
 騙されていても、得るものはある。
 それってやっぱり、当人にとっては大事な現実なんだよね。
 テディベアを抱いてなぐさめられるのは、クマという記号にまったく効果がないとは思えない。怖いクマがかわいくて柔らかい、それが心をなごませるんじゃない? モニタの中で戦士たちが戦い戦い10億ゲーム。引いた引き金は嘘だけれど。
 心は、鍛えられた気がするんだ。

 『Halo』に。
 ゲームに出逢えて、幸せです。
 Xboxユーザーで、よかった。
 あなたもどうです?
 なにかがそこにはあるかもしれないよ。

 そういえば、前回の『ノアぷ~』の話のなかで想い出したのですが、テレビ大阪の昼前くらいの時間帯に、なにかひとつことを一生懸命やっている人たちのドキュメンタリーが延々と流れ、その最後に、

「マツマエさんのお仕事も、健康あってこそ
 マツマエさんは特別、健康に気をつかっているわけではありませんが、
 毎日、かかすことのない習慣があるそうです」

 で。
 青汁。
 マツマエさんごくごく飲む!!
 広告だったのかよっ!
 と『さよなら絶望先生』でもつっこまれていたので、たぶんこれは全国区で流れているものだと思うのだけれども……

zetubou

 私の実母が、和太鼓の集団などやっておりまして。
 きれいな中学生男子などを引き連れてそこここのイベントに参加しては太鼓を打ち鳴らしているのです。そんな母のところに、それが来たという。いや、母の取材にではなく、なにかかかわりのある書家の方だったかそんなふうな一生懸命なひとを主人公とした、三十分程度の青汁販促番組で、母にもコメントを求めてきたとか。おそらくは後ろで太鼓を打ち鳴らす美少年どものまえでマツマエさんについてとうとうと語る小柄なおばちゃんの画が欲しかったのでしょうが……母は、その糸色望先生も右手をあげた、つっこみどころの多い番組のことをまったく知らなかったらしく、ディレクターだか監督だか、現場のいちばんエライ人がやってきて、言ったのだそうです。

「番組の最後には青汁の宣伝が入ります。
 しかしぼくは。
 全力のドキュメンタリーのつもりで撮っているのです」

 そういって熱く語るから、了承して撮られたんだけど、タクミ知ってる?
 いやもちろん知っているともそれは有名な番組ですよマミー。
 あらそうなの、でもね、そのいちばんエライ人は一生懸命撮ってくれたんだけれど、放送されるかどうかはそのひとでは決められなくて、お蔵入りもありうるっていうのね。ほんとものつくるひとって大変よねえ……と。

 思うに、どんなに本気で全力のドキュメンタリーであろうと最後は青汁広告であるのだから、スポンサー主は孔雀のうちわのアブダビコンバットの王子様みたいな存在なんだろう。

(アブダビコンバットを知らないあなたに解説するなら、それはアラブ首長国連邦の第三王子シーク・タハヌーン・ヴィン・ザイードがアメリカ留学中にUFCを観戦して自身も格闘技をはじめて国に帰ったあと、男の肌と肌とが組んずほぐれつするその光景に忘れがたいものを感じ、完全に趣味で開催することにした、という高名な大会である。殴りなし。二年に一度、高額な賞金をかけ、王子の目の前で、世界中から集められた裸の猛者たちが「寝技がいちばんうまい男」を決めるために組んずほぐれつする、他に類を見ない砂漠の酒池肉林。日本人選手もけっこう出場して勝っているのだけれど、帰ってきて話すのはいかに石油王子が破天荒に金を使うかという話ばかりだという、どこかのセレブ設定得意なBL作家さんに一本書いてもらいたい夢のようなコンバットなのだった)

 本気でドキュメンタリーを撮りたい監督どもに、

「金をやるから撮ってこい」

 と命じ。
 撮ってきても最終的に青汁に染まることはわかっていながら、監督たちは私の母に言ったように全国で「しかしぼくはっ」と涙目でうったえ、けれどそうして撮ったドキュメンタリーも、王子の目の前に山積みにされて、世に出るかどうかは王子のお気に召すかどうかにかかっており、それゆえ出演した人たちにさえいつ放送されるのか、放送されることが実際にあるのかどうかさえ知らされない。

 青汁が売れれば、ドキュメンタリーを撮った人たちに報酬が入る、などというシステムではきっとなく。作った作品は買い取り、買い取ったからには放送するも捨てるも王子の自由。たぶんそういう図式であるのだろうから、だからこそ母も心動かされて私に語ったりしたんだろう。

 彼らにとっては、放送されようがされまいが、入ってくる金は同じ。
 でも、そう言わずにはいられないのである。
 最終的には青汁。

「だけれど、しかし」

 青汁を売るためではなく。
 全力のドキュメンタリーが撮りたくて。
 だからカメラを持ってここに来たんだ、と。

 その「だけれど、しかし」には、確かに深いモノがある。
 だってふつうに「青汁の宣伝番組撮りに来ました」で、いいわけだから。
 そこに撮るものとしてのプライドだかなんだか、そういうなにかの葛藤があらわれて、それで発せられた言葉だと思うのです。そう思えば、たまたま流れていたドキュメンタリーに見入ってしまって、それで最後に青汁が出てきたからといって「青汁かよっ」とつっこむ気になど二度となれません。その向こうでは、放送されるかどうかわからない自作の日の目を祈って、毎日のように青汁の宣伝番組をチェックする、本気のドキュメンタリー作家さんたちがいるのです。
 ああ、放送されたよおれの作品。
 というひとりと、

「ああ今日もだめなのか、
 おれの作品のなにがいけないんだ王子……」

 そう泣き崩れて。
 昼から焼酎をあおる無数の制作者たち。
 こちらも、涙なくしては見られません。
 あなたたちのおかげで、本気のドキュメンタリーを見るたびに、最後に青汁が出てくるのではないかと思うようになってしまいましたよ。

 しかし販売員としての印象では青汁ってそうそう売れるものではない感じなんだが、あれだけの番組を全国区で流すからには、そうとうな売上げに違いないと考えてみるに……万人が見る地上波のテレビのチカラっていうのは大きい、というところに尽きるのだという結論に行きつく。
 という連想でプロレス話に戻って、地上波から消えゆくプロレスをメジャーに押し戻すために、プロレス業界がプロレスを売るためにみずから放送枠を買うという図式もありなのではないかと思ったり。某CS局の番組特製「武藤敬司ベアーTシャツ」が限定100着早い者勝ちだぜ買ってくれよな、というのがもう一年ほど流れ続けているのを見ても、地上波ほどの購買欲をCSでは掘り起こせないのはあきらかなので、ここは青汁を見習って、安い時間帯にガンガン番組投入していくのがよいのではないかと。

 おなかの空いた正午前になにげなくテレビをつけたらプロレス。
 そしてプロレスラーたちは試合後にビールかけなどせず。
 青汁をごきゅごきゅ。
「おれたちこれで戦ってますっ!!」
 ダイエットと健康をうたう商品は空腹な客を狙うのがいちばん。
 これで地方局の放送権料くらい稼ぎ出せそうな気がする。
 NOAHには、秋山準の水もあるんだし、もっと商売気出してやっていくのがいいと思うんだけれども(この水は売っても秋山社長のひとり儲けになるんだろうけれども)。

 そういうことを考えていろんな団体を観ていると、この不況の世だからこそ、あのジ・アンダーテイカーに葬られてから新崎人生を名乗るようになった白使(ハクシー)の存在が、史上もっとも私が愛するプロレスゲーム『ジャイアントグラム2』でもちゃんと仕事していたり、『ガチ・ボーイ』を見たらエンドロールに名前があるし、レスラー兼二団体の社長として、ちゃんと仕事している感がひしひしと伝わってきて素敵。みちのくプロレスみたいに地元密着でがっちり固定ファン掴んで、過去の栄光におごることなく、だれからも愛されて、大きな仕事ではなくたってなにかあるたびに声がかかる実直なプロっていうのが、いちばん強いのかもなあ、と思ったりする。そういう意味じゃもはや歩くことさえ困難な躯であり、まったく戦う姿を見ないのに『Mask de 41』とか、ドラゲー解説とか、ソロライブだ焼酎だと、なんだかんだでプロレスラーを続けているハヤブサ選手もまた、存在そのもので戦っている良いレスラーだ。好き。



 青汁の話だったけ。
 飲まないね。
 好きじゃない。
 味がどうこういうよりも、青汁を飲むことで健康になるというようなことを考えている時点で健康でない感じがする。手もとに愛がないから愛について考えたりするとか、森が減り始めたから自然について語るとかに似て、愚かしい感じさえする。
 ケール育ててばりばり生で喰って欲しい。
 なんでケール料理を研究しないで青汁買っちゃうのさ。
 健康を崇拝するなら徹底した哲学を持って欲しいよなあ、と、母の話を聞いていて思いました。青汁ドキュメンタリー作家さんは、青汁飲んでいるヒトをまず捜すんだと思う? そんなわけはなく……かき集めた作品ありきで、青汁くっつけりゃ売れるという……その商売のありかた自体がどうも健康でない印象だ。つまんない話も美少女主役にすればアリとか、そういうノリにも似ている気がする。

 某健康器具を売っていて、いわゆるバイヴで脂肪を燃焼させよう系の商品なんだけれど、某格闘家が「この商品は筋肉に効きます!!」とみずからの盛り上がりすぎた上腕二頭筋を示してみせるPOPがあって、それを店頭に飾りながら私はいち格闘技ファンとして哀しい思いがした。だって某格闘家は元いじめられっこで格闘家としては背も高くなくて、でも鍛えに鍛えていまや日本のマッチョの代名詞にまでなったというのに。それなのに、この商品を勧めるのかと。震えさせて、熱を加え、脂肪を燃焼させることは物理的にできるのだろう。けれど、そんな震えて発熱するマシンを一日中着けることよりも、10分間の直接的な筋力トレーニングのほうが効果があると彼は信じているどころか信奉さえしているはずなのに。だれが見たって金のため。それを売る。

SUPER MAX TURBO

 だけれど、しかし。
 それでもこころざしが透けて見えるから憎めない。
 そこって重要なんだよな。

「まーたこのひとこんなとこで小銭稼いで」

 その在り方を許容できるかどうか。 
 本人に後ろめたさが感じられないというのが、大事。ドキュメンタリー作家が青汁売るのは、ドキュメンタリー作家にとって、後ろめたいことなんだろうと思う、だから。
 だけれど、しかし。
 そう、口走ってしまうのだろう。

「青汁を売るためのドキュメンタリーを撮っています!!」

 胸はって言ってもらいたいものです。
 最後にならないと青汁広告だとわからない番組作り同様、撮るひとの青汁への想いが伝わってこないというのが、撮られる側にも複雑な思いを抱かせ、息子がそれを聞かされたりする。ドキュメンタリーを撮りに来たひとがいたの。でも青汁なの。そうではなく、母は、こう言いたかったのだと思う。

「青汁の宣伝番組に出たの」

 撮るひとが言い切らないと、撮られるほうも気を使うから。
 ドキュメンタリーとか言うなって話です。
 青汁だけれどしかしドキュメンタリー。
 そう言わずにはいられないところをぐっとこらえて。
 私はドキュメンタリー作家だけれど、今日は青汁広告を撮っている。
 金のため。

 言い切る。 
 それが良い。
 某格闘家のようにいさぎよくないと、かっこ悪いのですよ。
 あーなんかだらだらとわかんない話をしちゃったな。
 まったく青汁め。