わたしは、あなたがたが戦争で互いに殺し合うのを見てきました。ヴラッド・ツェペシュや──ちなみに、彼はわれわれの種族ではありませんでした──ガイウス・カリギュラ、その他の王たちについて読みました。あなたたちがわれわれの仲間と思いこんで、罪のない老婆を火あぶりにするのを見てきました。ニューオーリンズでは、肌の色が黒いというだけで同じ種族を奴隷におとしめ、鞭打ったり、動物のように売買したりするのを目撃しました。黒人たちは、われわれよりもはるかにあなたたちに近い人々なのです。彼らの女性との間に、子供をもうけることも可能なのです。ところが、昼と夜の間ではそのような交雑は不可能なのです。やはりわれわれは、安全のためにあなたたちから隠れつづけていなければなりません。
ジョージ・R・R・マーティン 『フィーヴァードリーム』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ちなみにヴラド・ツェペシュはドラキュラ伯爵のモデル、串刺し公。ガイウス・カリグラは趣味の殺人と妹萌えな近親相姦で有名なローマ皇帝です)
人間と人間のあいだにある壁というのは、人類にとって永遠の頭痛のタネであり、いつか越えたい壁。
かつて、白人が黒人に化ける
『ミスター・ソウルマン』という映画もあったが、いま上映すれば非難囂囂だろう。しかし、それがコメディとして成り立ち、世界中でヒットしたのが二十年くらいの昔でしかない。
(ところでいまアカデミー賞授賞式を観ていたんだが。作品賞、獲っちゃったよコーエン兄弟。この『徒然』でも好きな映画の話になると私は『バートン・フィンク』を推すコーエン兄弟好きなので、ついにアカデミー賞のトップに来たなあ、というのは感慨深いものがあります。冷静な狂気けれどそれがこの世、ってのを描かせたら、彼らの右に出る者はいない。影響受けまくりです、私も。拍手喝采だ)

今日だって新聞を開けば、アメリカに初の黒人大統領が誕生する日も近いとか、中国との「統一も独立も武力行使もしない」という方針で支持を得ている(争わないのはいいことだけれど、結局言っているのは現状の中途半端なスタンスで中国から得られる利益も貪りたい、ということだ)台湾総統選の野党候補とか、さあ越える、いま越えたと言いながら、その壁が消え去る日なんて永遠に来ないのではなかろうかと思うのでした。
でも、だからこその夢。
日本初の長編カラーアニメーション映画『白蛇伝』から現在放映中の『ロザリオとバンパイア』だって、むしろモンスターの側がヒトに恋してその壁を越えようとする物語。そういう図式にこそ、人類が熱くなってしまうのは、本当はそれって簡単なことなのに、化け物とヒトでさえ簡単なことなのに、どうしておれらってこんな簡単な問題が解けずに進化してねえよなあ、という自責の念にかられるからこそ、心に響くからではないでしょうか。


黒人奴隷が解放されようかという時代、白人の船長に向かってヴァンパイア・ジョシュア・ヨークは「安全のためにあなたたちから隠れつづけていなければなりません」と語る。はたしてその夜の種族が「そろそろ出て行っても大丈夫かな」と感じられるくらいに、いまの人類が平和主義になったかといえば、とうていそうは思えない。
『フィーヴァードリーム』は、ヴァンパイアの王を自認するふたりが、彼らの種族が家畜と称してきたヒトとの共栄をはかれるかについて対立する、ヴァンパイアVSヴァンパイアな物語。ミシシッピに、蒸気船があふれかえっていた時代を舞台にしながら、孤独な人間船長と、夢見がちなヴァンパイア・ヨークとの、ほとんど愛情に似た友情が描かれ、けっして解けあいはしないけれど、憎しみあう理由もない、ヒト型生命体の狭い世界にため息をつかせる。
世界は狭い。
どこかに行くわけにもいかないから、あんまり好もしくない隣人ともつきあわなければいけない。だれかを愛したって、その人は決まって自分とは違う他人だから違う宇宙を持っていて、そのひとを抱きしめようと思ったら、どこにも行かずに、その理解しがたい他人の宇宙も許容しなくてはいけない。
ヴァンパイア物語を書いていると、行きつくのは、ヒトの側が覚悟を決めて飛び込むかどうか、という一点なんだと、強く感じるようになる。
(彼らがヒトの血がないと生きられないという設定にしてしまうと、ヒトがニワトリの首を絞めるのもどうなんだという話になってしまうので『フィーヴァードリーム』では、ジョシュア・ヨークがヴァンパイアを救うべく「飲めば血の渇きがなくなる」特製ドリンク(腐敗防止のためにアルコールベース。そのため彼らは血を飲むかわりに毎日酒に酔い続けることになってしまうのだが)を開発させている。私もまったくその設定は無視して書くことにした(その結果、ヴァンパイアをヴァンパイアたらしめる要素がなくなってしまったので、独自の設定を追加した))
彼らがヒトとは違う少数派の種である以上、その存在はヒトから逃げて隠れて追われる生き物にならざるをえず、そこにヒトとの物語を描こうと思えば、ヒトである彼は、ヒトを捨てる覚悟をしてもらわなければならない──どうがんばってみても、いまの世ではまだ、主人公がヴァンパイアと人類との架け橋になってその壁は永遠に取り除かれる、などという物語にリアリティは与えられない。
ヴァンパイアを狩るか。
狩るヒトを裏切って、ヴァンパイアの側につくか。
その二択にしか、リアルさを感じない。
それが人間の限界だなどと思いたくはないが「だれがどう考えても、みんなで一緒に仲良く愛しあって暮らせばいいじゃない」という脳天気な提案に共感できるほど、ヒトが楽観的で平和主義な種族になる日が来るとは、とうてい思えない。
ヴァンパイア・ヨークに対立する、悪(とは正確には言えず、ニワトリの首を絞めることに罪悪感を感じていないだけの、夜の王)なる側のヴァンパイア・ダモン・ジュリアンは、ヒトである船長に向かって、言ってのける。
特製ドリンクをすべてのヴァンパイアたちに与えて、ヒトの血を必要としない種族になればこの世界が広くなると、若き情熱で語るヨークを指して。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼はわれわれ全員を、きみたちと同じ人間にしようとしているのだ。マーシュ船長、きみの国は奴隷制の問題で分裂状態にたちいっている。人種の違いにもとづく奴隷制だ。それを解決することができるとしよう。すべての白人を一夜にして、煤のように真っ黒にすることができるとしよう。きみはそうするかね?
ジョージ・R・R・マーティン 『フィーヴァードリーム』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大麻取締法違反で逮捕される直前であり、ファンのあいだでも彼がもっとも追いつめられ、それゆえにそれを跳ね返そうと人間離れしたものすごいテンションを勝ち得ていたと語り継がれる、その時期に発表された長渕剛の名盤
『Captain of the Ship』のなかに『12色のクレパス』という歌がある。
あなたになりたいが、あなたになれない、だからせめてあなたを描こうとクレパスのセットを買った、という、あらすじを聞くと痛い歌詞だが──♪どうすればあなたになれるのでしょうか──そのフレーズを、この半年、ヴァンパイア漬けになってみて、しょっちゅう口ずさんだ。もしもこの世に、ヴァンパイアという生命体がいるとして、それはできればヒトの世でつつましくでいいから生きていきたいと願っているのに、むしろどうやったらヒトになりきれるのかと頭を悩ます毎日で千年も生きているのに、ヒトったら。
ヴァンパイアを見つけては狩るのである。
読んでも、書いても、私はヴァンパイアになりきることができない。どこまでいっても人類であり、愛する他人は、絶望的に別の種族だ。あなたになれる日など絶対に来ない。抱かれたいんだが、彼は特殊なプレイでしか興奮できないとかいう、そういった悩みにも似ている。 近づきたいんだけれど、自分はひどく醜いとか、年齢が離れすぎているとか、相手は同性とか、そういうのにも似ている。
別になにも悪いことしていなくたって。
愛するその人に同化できない自分自身に「罪」を感じる。
いやむしろ、同化を望んでしまうことに。
12色のクレパスを買ってきて、あの人の心を描いてみる。
同じにはなれないし、理解さえできないのだけれど、直視してみればなにかわかるかと──道が開けるかと──願ってクレパスを買ってきて、スケッチブックを開いた、それなのに。
そういう場合、真白いキャンバスは埋まらないものだ。
つまるところ、それは相手の側の問題ではないのだから。
のぞき込み、直視すべきは、自分の側の問題なのである。
描くなら、わたしを。
それしか、できはしない。
黒人になりたくて肌を黒く塗るのはバカげている。
ヒトになりたくてヴァンパイアのくせにヒトになろうとするヨークも、悪の王が言うとおり、愚かだ。
ストックホルム症候群は錯覚である──しかし現実にストックホルムの銀行で人質になった者が襲った銀行強盗に同調してのちに結婚したという事実はある──愛が錯覚なら、それは愛だろう。ヴァンパイアを愛したからといって、ヴァンパイアを狩るヒトを憎み、逆にヒトを狩りはじめる主人公にあなたは共感できないだろう。だから、描く私は、ヴァンパイアにも、彼を愛する主人公にも、絶対にヒトを傷つけさせない。
想うことで精一杯だ。
察するだけで命がけである。
同じになるなんてきっと無理。
絶対に無理。
でも、だからって憎みあうこともない。
かの国と争いません! と叫ぶ総統候補に群衆が喝采する。
この国は変わる! と叫ぶ女性に、黒人に、沸く。
見ていて痛々しくさえある、愚かさだ。
でも、想わないとはじまらない。
脳天気に五月晴れで望まなければ。
いつか、ヴァンパイアが。
「いやきみの書いた物語を読んでね、まあ人間のなかにも逢いに行っても安全そうなやつがいるもんだなと想って、隠れるのはやめて出てきてみたんだ」
なんて、壁を取っ払ってくれることを願いつつ。
たぶん、いまではファンタジーの大御所となったマーティンも『フィーヴァードリーム』を書いているさいちゅうに、たびたびそういうこと想ったんだ、ということが読めばわかる──主人公は、バカになって想いに生きるくらいで、ちょうどいい。相手がどんなやつとか、あなたになれないとか、そういうことの前に。
わたしが好きかどうか。
どうしたいか。
戦争したい?
だれかを嫌いたい?
そんなやつ、いないだろうよと、物語化するという単純化の作業のなかで、なにをヒトはこんな問題を壮大なテーマのように何百年もいじくっているんだと、ばかばかしくなってくるのでした。
愛してる。
じゃあ言って抱いちゃえ(了解を得てね)。
それでいいやん。
願ってだれかを傷つけたいやつなんていないだろう?
いるとしたら、それはなにかを見失っている。
嫌いな相手を想う時間で、好きな相手を想う時間が削られる。
そんな愚行は、ない、人生は短いんだ。
想いに生きるのです、愚かなヒトよ。
想うこともなく逝きたいか?
♪おまえが舵をとれ!
醜く孤独なマーシュ船長は、想うことだけでその人生を輝かせた。
なにも感じなくなるほどの永遠に生きる、ヴァンパイアたちよりも、醜い船長のほうが魅力的に読めるから、それをヒトはファンタジーの傑作と呼ぶのである。

現代のヴァンパイアたちはいったいどんな姿をしているのだろう? 育ちや教育は、出会った不死者の影響で決まるのだろうか? それとも共通するひとつのスタイルがあるのだろうか? ひとつのカヴンに属するのだろうか、それともわたしが好んでやるように、ひとり黒い大きなオートバイを乗り回しているのだろうか?
アン・ライス 『ヴァンパイア・レスタト』・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし人類が、いまや傘のない地球で太陽からの有害な紫外線UV-Bによって皮膚を焼かれているように。現代のヴァンパイアたちには、避けがたい毒が降り注いでいる──その地獄の有様を描いたのが「いまの」ヴァンパイアを語るなら絶対にはずせない『ライヴ・ガールズ』である。
赤い閃光を放つ「LIVE GIRLS」のネオンサインはほかの店と比べれば小さく「I」の文字はチカチカと明滅しジージーと音を発している──戸口にはドアすらなく黒いカーテンが垂れ下がった、ぱっとしない怪しげな場末の覗き部屋──その店にはライヴガールズたちがいる。文字通り「生きて」いる、けれど一度は人間としての死を体験した、生ける屍なガールズ。彼女は壁の穴に突っ込まれた男たちの血管の浮き出た硬いのにサービスしながら、こっそりその血管に歯を立てる。
人間のカラダに舌を這わすことのできる職業。そしてそこで少しやっかいな傷を負ったとしても、客のほとんどがその店に行ったことを自ら隠すような職場。もちろん店主は女ヴァンパイアである。彼女は、すべての吸血鬼が陥ってきた、レスタト様も自嘲する、ヴァンパイアの悩みに終止符を打ったのだ。
どんなに人間を愛しても、ヴァンパイアにとって人間はエサ。
それゆえに、ヴァンパイアはヒトにとって悪と呼ばれる。
だったらギブアンドテイク。
悦ばせてあげるかわりに、ちょっと血をもらう。
これで万事解決──
となってしまっては、小説が成り立たない。
『ライヴ・ガールズ』の世界に生きる、現代のやさぐれた吸血鬼たちにも、いまの世なりの、新しい悩み事があるのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぜひともあなたの弱点を教えておきたいの。少ししかないけれど、致命的な弱点よ。ニンニクにはひどいアレルギー反応を起こす。眩い光と不純な血にはちょっとした刺激感応を引き起こすし、飲んではいけない血もある。そういった血を吸うと、彼らみたいになってしまうわ。下のボイラー室にいるような輩にね。
レイ・ガートン 『ライヴ・ガールズ』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高橋留美子の『人魚の森』の設定が、不老不死を得られるという人魚の肉を食べると、たいがいのヒトはクリーチャーになる、というものだった。

もちろん、たまに成功もする。
でもほとんど失敗。
近年では成功率も激減。
というわけで「ライヴ・ガールズ」の地下ボイラー室にはクリーチャーがいっぱい。
彼らは閉じこめられているわけではなく、そこでしか生きられない可愛そうな「もと人間」たちなのである。
それというのも、現代の都市には、愛では解決できない血の穢れがあるため。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『人々は恋に落ちる』の話。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふと想い出して、昨年の暮れにそういうことを書いたところだったのに、ヒース・レジャーが逝った。
『ブロークバック・マウンテン』以来、まるで役柄そのままのように愛に正直なジェイク・ギレンホールが彼を支えようとしたけれど、もともと精神的にブレが激しく、恋多き(つまり破局多き)ヒースは、死亡当時、少なくとも睡眠薬を含めた6種類の薬物を摂取していたという。情緒不安定なバットマンのジョーカー役が遺作になったというのは、あまりにも生々しい。実際、人生のすべてを臆病風によって失いそして得た、哀しいカウボーイの演技に私の感じた「あわれ」も、いくら薬を飲んでも眠れない孤独な実生活の彼を見てしまったからなのかもしれないと思うと、やるせない。
なんにせよ、現代の都市とはそういうところだ。
役者を目指した少年が、アカデミー賞の舞台に立ち、バットマンのジョーカーを演る。
そこに到達したとき、眠れなくなって薬に溺れる。
別れた女たちと、娘のことを思っただろうか。
ヒース・レジャーはインフルエンザにかかって死んだ。
いつもなら耐えられる心臓がそのせいで悲鳴をあげたのか。
それとも弱って増幅した孤独をねじ伏せるために薬の量を増やしたのか。
なんにせよ、現代の都市では、そこかしこでヒトが死にかけている。
「ライヴ・ガールズ」に来るような客も、それは孤独だ。
ヴァンパイアが、忍び込むような静かな部屋でひとり眠るだれかも、それは孤独だ。
ふつうに薬局で買える薬でさえ、体を鍛えた三十前の男性俳優の心臓をとめるのである。
近所の公園に行けば、もっと刺激的な毒も売っている。
家を出ないでも「合法ドラッグ」とググれば向こうから届けてくれる(でもやっちゃダメ)。
都会の血は穢れている。
そして穢れた血を摂取したヴァンパイアは、クリーチャーと化す。
アンデッドにとっても、生きにくい世の中だ。
現代のヴァンパイアたちはいったいどんな姿をしているのだろう?
たぶん、偽の献血車を走らせているに違いない。
考えてみれば、血が欲しいだけならば、注射器で抜き取って飲めばいいのである。たっぷりグラスに溜めた血をひといきで飲むほうが、牙などというストローでちまちまやるよりもずっとのどごしよく満足できるに違いない。
けれど、彼は寝室に忍び込んで処女の血を首筋から直接いただく。
ライヴガールズたちはセックスをたのしんでさえいる。
ドラッグに穢れた血を避けるなら、幼き者を襲えばいいのに、なぜか男のヴァンパイアは若い娘を好むし、女のヴァンパイアは成熟した男を好む。
つまるところ、ヴァンパイアにとって「血を飲む」という行為自体よりも、もっと重要性の高い理由が「咬む」行為に含まれているのに違いない──そしてそれは考えるまでもなく、生殖ということである。
例外もあるが、多くの場合、ヴァンパイアの夫婦からヴァンパイアのベイビーが生まれるわけではない。だとすればヴァンパイアはどうやって増えるのか。すなわち、ヴァンパイアに噛まれた者もまたヴァンパイアになる、というそれである。かといって人間の血を唯一の食事とするヴァンパイアが、噛みつくたびに人間がヴァンパイアになってしまうのでは世界が成り立たないため、現代では、多くのヴァンパイア物語でヴァンパイア自身の意志が描かれる。
『夜明けのヴァンパイア』では「闇の儀式」という血の交換であり、『ライヴ・ガールズ』では、繰り返しの吸血が、徐々に相手を同類へと変えてゆく。だから彼らは相手を選ぶのだ。ヴァンパイアになった者は、そのときの姿で永遠に生きることになる。ということは、噛む者にとってその相手を仲間にする=永遠の伴侶との定義に近い。
美しいもの、強いものを、その瞬間でヴァンパイアという種に固定する。そして永遠に愛で、愛でられることを夢見る──穢れた血の世紀になってもまだ、ヴァンパイアたちがクリーチャー化する危険をおかしてまでヒトを襲うのは、決して食欲のためなどではない。それは愛欲なのである。
けれど、美しく終わるヴァンパイア物語というものは実に少ない。
彼らは孤独だ。
いくら夢見ても、やはりもとがヒトであるがゆえに、ヴァンパイアとヴァンパイアの愛は永遠ではない。まして、互いに減ることのない時をもっている……愛欲が生殖本能を基幹とするのなら、ヒトはヴァンパイアになった瞬間にそれを失うはずである。
自分自身が死なない。
それなのに生殖する意味などない。
ただ愛を求める以外には。
けれど、その図式はどう見ても破綻を内包していて。
ヴァンパイアの物語を書こうとすると、よくわかる。
死をなくすと、生もなくなる。
だからヴァンパイアは総じてクール。
あせりがない、あせる必要がない。
今日すべきことは、明日どころか、十年先にあとまわしにしたところで、彼らにとっては同じことなのだから──ヴァンパイアの愛を描こうとすると、どうも子供じみたことになってしまう。ままごと化、していくのである。あせりがないと、追いつめられることもなく、だれも声を大にして叫ばない恋愛小説もアクション小説も、たのしいわけはないから、やむなく作者はヴァンパイアに孤独を叫ばせる。
有限のヒトに恋する図式を描いてしまうのです。
咬まれて同族になれば、破綻する関係。
これでヴァンパイアにも制限ができる。
あまりにも求めすぎ、仲間にしてしまったら終わる恋。
絶対にむくわれない。
そこでだけ、ヴァンパイアは吠えられる。
『ライヴ・ガールズ』は、悪趣味な小説だ。出てくるヴァンパイアは、まるきりの化け物ばかり。でも、彼女たちもまた、ヒトを襲ってその血を飲み肉を喰らうだけではなく、だれかのもとに足繁く通って、徐々に仲間に引き入れようとする。ヴァンパイアって素敵なものよと、誘うために叫んだりもする。吠えるヴァンパイアを眺めて、ヒトである私は思うのです。
あせることが生きること。
達観なんてヴァンパイアになったも同じ。
もがいて吠えて、欲しいものを欲するどん欲さこそが、キャラクターを生き生きとさせる唯一の方法論なのだと。
愛欲──実生活でもなくしたらダメだ。
クールさなんて、生ける死者の専売特許でいい。
と、総じて哀しくやるせないヴァンパイアの物語に、熱くなる。
それこそが、彼らがヒトに永遠に愛される理由だと感じるのだった。
ま、私の結果はさておき(笑)……今回も大賞、佳作どころか編集部期待作もなし、ということで……書くことありません。なんか言えっつうなら、まああれですよ……負けないぞっ!!
ということで。
今回は、一見さんにはわからない、いつものちょっとした内輪の話なので、興味ないかた、意味不明なかたは読み飛ばしてください。
せっかくヴァンパイア話に花を咲かせていたのに、こんなふうに閑話休題になってしまって残念至極ですが、バカにできない検索数でして、無視するのはひとでなしのすることです。発表の日に「ウィングス小説大賞」を検索すれば、あまりにもキャッチーな私のブログがどかんと出てきてしまうので、当たり前っちゃ当たり前のことなんですけれども……数年前の記事で、ちょっといまでは書いたことの一部に関し後悔もしています。消しませんが。
いったいなにを後悔しているといえば、私は新○館編集部の、ほんとに読んでいるんだか読んでいないんだかタイトル誤植とか(今回もまた誌面では微妙に間違っているのですが、もういいですスルーします)ズバッと斬りすぎだろう、という批評とか、賞を主催しながら十年も大賞が出ないのは編集部側の意志が作家に伝わっていないからではないのかとか(この一年、トップ賞掲載で、その点素晴らしくわかるようになりました。立て続けに読むと、あきらかな共通項がありますよね、トップのみなさん)、そういったような。
つまり、突き放しすぎじゃねえの、大げさでなくそれを愛し、人生かけている者どもが数えるほどには、いるというのに「レース場は用意したさあ走れ、でもあんまりおもしろくなかったから賞金ないけどねこの十年」……実際のところ、新人が育っていないじゃないか……てな展開が主軸だったのですけれど。
先日、別の出版社さん(集○社)から、作品の批評が届きました。という時点でそこも獲り逃しているのですが、驚くほどびっしりと書き込まれた長文の批評を読みながら、我知らず苦笑してしまったのでした。
「で、それでなぜ大賞くれないのさ!!」
ブログで引用するな(笑)という釘をきっちり刺されているので内容について触れられないのですけれど、そりゃもうベタ褒めです。ほとんどラブレターです。あなたの書く悪役の怖くて素敵なことといったら……というようなくだりに至っては、作者ながら「よせやい」と相原勇ばりにボーイッシュ(男ですけど)な照れ隠しのつぶやきを漏らして赤面してしまったほどです。ところで岡村靖幸がまたヤクで捕まったというので想い出したボーイッシュな
川本真琴が再始動した話はいったいどうなってしまったのでしょう。死んだ友人が好きだったので、なんとなく気になっているのです。しょこたんのカバーした『1/2』を聞いて死んだ友を想い出してセンチメンタルになってしまったりするのはやっかいなことです。

話がそれました。
それたついでに書きますが、いまキーボードの「N」の文字が一部剥げてしまいました。気持ちが悪いです。文字通り殴り書くクセがあるので、文章がノッてくるとだんだんと指が立ってきて爪がのびていたりするとキーボードが粉をふいて削れていく勢いなのでした。それにしても気になる、削れた「N」……このために買い換えるのもなんだし、タッチアップペンで補修してみようかしらん。
話がそれました。
やはり集○社ともなると、大げさでなくそれを愛し、人生かけている者どものレヴェルも深刻なことになってきて、けなすと新人が首をくくる、というようなホラーな展開があったりするのでしょうか。
私はもともと演劇の脚本からモノ書き始めた者なので、舞台が終わってアンケート用紙が数十枚返ってきて、そのうちの半分が「金返せ」という内容で、残ったそのまた半分が「おもしろかった」とだけ書いてあって、さらに残ったそのまた半分が白紙で、そうやって最後のほうにちょっと残った「なんやかやと書いてある」数枚こそが、劇団員たちを向上させるのだと知っています。
なかでも、褒めていないのがいい。
どんな職場でだってそうでしょうが、見こみのない新人にわざわざ注意なんてしない。
「お前のそこは、どうにかなんねえ?」
っていうのは、裏返せばどうにかすれば使えるってことで。
そういう批評が、作家にとっても素晴らしく有益だと思う。
細かく、けなしてくれる人を、逃してはいけないと思う。
いや、うれしいんですが、ベタ褒めも。
しかし本当になにひとつダメ出しされていないんですよ?
それこそどうしたらいいのだ、つまるところ、編集一個人としては大好きだが、賞レースではトップにならないね、というようなベタ褒めなので……むしろ蹴ってくれ、豚とののしってくれ、お前の書くものなんかケツ拭く紙にもならねえからせめてケツが汚れないように白紙でよこせとか、そう言われたほうが燃えるタチなんですけれど。
さすが集○社。
新人を褒めて育てる。
カルチャーショックです。
ええ。
いっそ物足りなさを感じるのです。
そして。
つれない女王のための悦んでいただきたい一心での新作を書くのです。
彼女は冷たい。
基本的に十年以上も大賞が出ていなければ、それはもちろん毎回のトップに対しても「なぜ大賞に届かないのか」という批評を書かざるをえないという側面もありましょう。しかし、それにしたって、そんな論調で、賞金も一銭も出さないわあたし、という態度で、しかしレースが成り立つどころか盛り上がっているという。その自信満々の姿勢こそに、やはり孤高の輝きを見るのです。ほかではなく、ここで書きたいと思わせるものがたしかにあるのです。踏まれたいのです。自他共に認めるサディスティックな私でさえ、彼女の気高さの前では、けなされるために必死こいている、という事実がいなめません。
作家の個性を消さぬよう、型にはめず去る者は去れ来る者は来い、と。
放置プレイではなく、放任主義な愛情あふれる子育てなのだ、と。
あばたもえくぼでしょうか。
しかし、同時期にせーので見せられた結果に、言葉に。
「負けないぞ!!」
と強く思ったのは、やはり女王に対して。
ぶっちゃけ小説賞で審査員が無記名で辛口に批評し倒すなどというのは本当にほかでは見られない(実際、集○社的には、なにか書けばそれを書いた者の名を明記するというのが新聞社なみに徹底しているみたい。それゆえに個人的に刺されることもありうるので、褒めにかたむくのかもしれません)。その独自のかたくなさが、正体不明で。なにくそと思う対象が、とても大きな存在になってしまうというところはあります。だれに向かって死ぬ気で闘いを挑んでいるのかわからなくなる……結果、いつのまにやらそれは、己との闘いとなってゆくのです。
勝手に育った才能がのびのび仕事している。
端的にいえば、それが素敵。
たまに売れっ子も出るけれど、それとてまるで編集部の計算の成果だとは思えない。
『暴れん坊本屋さん』が売れているらしいが、これ売れちゃうなんてな、とぜったい新○館が思っているに違いないと確信できるところが素敵。
(そういえば
『ウンポコ』 No.12で、影木栄貴先生が『バリバリ☆バリュー』に出演した裏話を描いていたのだけれど。たしか『トリビアの泉』に出たときにもデビュー直前だったダイゴ☆弟☆スターダストが、またデビュー前の新人歌手として紹介されていて(新バンドでってことだよな……バンド・クラッシャーか……バンドを潰しては新バンドでデビューするセレブな弟を持つ元首相の孫娘で漫画家……たしかに育ててできる作家ではない)。で、そのセレブなイケメン弟が、大好きだっていう高級チョコの店を番組ではプッシュしていたんだけれど……それがヤラセでダイゴはきのこの山が好き、と姉さん暴露してしまっているんですが、載せていいのか新○館(笑))
まあ、そんなこんなで今回は吠えませぬ。
しかし、こう立て続けにぱっとしないと、さすがに路線変更を余儀なくされます。
ということで、こんなふがいない私にメールくださったみなさんにも宣言いたしましたが、ハードSF路線を転換、ファンタジーに染まります。
この半年、たっぷり資料を集めて頭に詰め込みましたから、引き出しは山ほどできました。
ええ。
ヴァンパイア。
そんな話を書いています。
ベタで、おやくそくで、もちろんイケメンの兄も幼なじみの可憐な少女も出てきて、でも、吉秒設定。
歴史上、現れたことのないヴァンパイア設定のはずです。
さあ、気に入ってくれるかな女王。
またひねりすぎだって怒られるかな。
悦んで欲しいな。
うん。もちろん、あなたにってことだよ。
身もだえさせるきれいなのを書いているつもりです。
今回もごめんなさい。
でも負けない。
ありがとうございました。
というわけで閑話休題いたします。
ヴァンパイアの話に戻ろう(笑)……夢中なんだ、いま。
これも女王を悦ばせようとあがいて出逢ったもので、私のなかに生まれてきたキャラクターたち。
なにがどうなってなにを得るかわからないから、やめられないね。
先を続けましょう。
なぜアンはスティーブの本当の姿を理解できないのだろう? 誰にも見つけることのできない、たくさんの真夜中の闇を心のなかに抱えたロック・ミュージシャン。そう、たしかに彼はタフだった。しかし彼だって傷つくのだ。そしてそれを癒すためには、その傷が見えないふりをしてやらなければならなかった。ゴーストはじっと暗闇を見つめた。ときどきスティーブを本当に理解できるのは自分しかいないのではないかと思うことがあった。彼らはあまりにも長いあいだ一緒にいた。しかしそれがスティーブにとっていったい何の役に立ったというのだろう?
ポピー・Z・ブライト 『ロスト・ソウルズ』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ハイトーンのボーカリストが全力で歌えば目の前のワイングラスを超音波で割ることはできるだろうが、もしも彼がそのグラスをすばやく疲れずに割りたいのなら、手で持ち上げて床に落とせばいい。
ヴァンパイアも熟練してくるとだんだん人間くさく、というかオッサン臭い発言が増えてきて、そういう本気で千年生きている師匠クラスのヴァンパイアとなると、手を使うのも面倒くさがって「きみ、開けてくれたまえ」……人を使うのが一番ラクなんだよ、と、まるで超能力なんて使わなくなるものらしい。
(師匠といえば、制作中のハリウッド版『ドラゴンボール』のキャストが発表された。ていうか、キャラ設定自体がなんだかおかしい……悟空は学校でぱっとしない青年だが実は武道の達人……っておいっ! その時点ですでにドラゴンボールから逸脱しているし。もちろんブルマは同級生なのだろうから恥丘パンパンとかされずに、ちょっと勝ち気な幼なじみのツンデレ系であろう。そして師匠。
Master Roshi 武天老師 チョウ・ユンファ
うおおおおおお。キタ。
ユンファ好き。さてそこで問題になるのは、ユンファはこの映画で亀の甲羅を背負うのかどうか、である。もしも背負わないのだとしたら、カリビアンのあの禿げヒゲで中国では「中国人を侮辱している」と出演シーンをカットされまくったそれの再来ということで、まあドラゴンボールから亀仙人の出番をカットしてもお笑い担当なのでたいして気にすることもないようなものだけれど……なにより恐ろしいのは、ハリウッド的に「ユンファにエロ仙人ってスゴくね?」というようなノリで亀仙人エロ設定だけが忠実に使われ、お笑いシーンがとんでもなく寒いことになっている予感。的中しそうで恐ろしい。ユンファに禿げコメディキャラが定着しつつあるのも恐ろしい)
人の心が読めたり操れたりするからといって、操り人形を作って口説いた気になっても愉しくはない。ヴァンパイア同士であれば、心を解放してすべてを読みとれるようにすることは可能だが、そうしたところで相手がなにをどう読み取るかは操ることができないため、正確に想いを伝えたいなら携帯電話を使ったほうがいい。そりゃ心のなか覗かれたらウザかったり面倒くさかったり、もうちょっとどうにかなんないのかなこいつは、というのもあるけれど「大好き」……文字にすれば、それが相手に読める己が心のたった一部分。それは嘘じゃない。だから千年生きたヴァンパイアこそ、そうするようになる。寡黙になり言葉を選び、手紙の単語だけを信じる。
ヴァンパイがヒトの形をして人の世のなかで生きる限り、突き詰めればヒト臭くあるのがもっとも幸福なのだと気づいてしまうという──その悲劇こそが、ヴァンパイアという題材の、古くから物語であつかわれ、人間に愛されてきた理由にほかならない。
ヒトはヒトを超えられない。
けれどもし超えたらどうなるのか。
死に怯えることなく、他人の心はすべてわかり、圧倒的な身体能力を有していて、気に入った美しい相手を自分の仲間にして生きることができる。
望むものすべてが得られれば、ヒトは幸福になるのか。
当然ながら、人間は、自分が手に入れることのできないそこに幸福のあることなど望まない。オペラ座で上演されるヴァンパイアの舞台は、すべて恋に破れ焼け死ぬヴァンパイアたちの叫びで幕をおろす。それを観た観客たちは有限で不自由な、ヒトであることに幸福を感じるのである。
プロレスだ。
奇をてらってはいけない。
大前提として、その図式は崩せないものであるからこそ、ヴァンパイアなみに数百年、ヴァンパイア物語は紡がれ続けてきたのだから。ヒールはヒールであり、観客を完璧に裏切って勝利などしてはいけない。他団体との差違を魅せたいのなら、たとえば入場曲や、衣装で魅せるに留めるのが鉄則。
(ただし
『仮面ライダーキバ』や
『ブレイド』のような、ヴァンパイアやその能力そのものをヒーロー視した物語は別系譜として存在する。あと
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のようなあきらかにヴァンパイアをゾンビの一種として貶めまくったクリーチャー化する手法も、ことにゲームなどで散見される。しかしゾンビの一種まで貶めるならともかく、Xbox360でいうと
『エム エンチャント・アーム』や
『カルドセプトサーガ』で召還クリーチャーとしてヴァンパイアが描かれたりするのは……「ふっはっは貴様が我が主か」などというヴァンパイアはどうにも間抜けっぽくていけない。古今東西のモンスターを集めるというお題目だとヴァンパイアは外せないし、孤高の伯爵イメージが定着したモンスターというのは、主役以外ではなかなかあつかいにくいものですね)
というわけで、
スティーブン・キング
、
ディーン・クーンツに次ぐモダン・ホラー第三の男と呼ばれたロバート・R・マキャモンが元締めだったとされる「スプラッタ・パンク」の潮流は、ブラムストーカー賞を二度獲りながらマキャモン自身の私生活が破綻していくという(笑)まさにスプラッターでこそないもののパンクホラーな展開によって第二世代に引き継がれることとなった。
キングやクーンツよりもマキャモンの世界観が女性にウケるのは、だれが見てもあきらかなところ。実際、スプラッタ・パンクの第二世代であり新時代の吸血鬼小説の騎手とされた、ふたりの作家は女性だった。

ナンシー・A. コリンズの『ミッドナイト・ブルー』を推す声もあろうが、私としては、やはりスプラッタ・パンク以前のソムトウが描いた15歳のロック少年吸血鬼がアンニュイな『ヴァンパイア・ジャンクション』

そして、アン・ライスの
『ヴァンパイア・レスタト』での現役大御所ロックシンガー実は吸血鬼告白小説のレスタト様の系譜を継いで進化させた、ポピー・Z・ブライト『ロスト・ソウルズ』の登場こそが大きな波だと感じる。
『ロスト・ソウルズ』の数年前に若き日のジャック・バウアーが街のやから的ヴァンパイアを演じた映画
『ロストボーイ』というのがあるのだが、タイミング的にも、タイトルが似ているのを見ても、きっとブライトはこれを観て憤慨したのに違いない(憶測です(笑)。しかしこれも同時期
『ニアダーク』は、まず観ていたと思う。ロックヴァンパイア小説執筆中にそういうイメージの映画が公開されて、観ないってほうが不自然だし。ロードムービー的展開もここから来ているかも。『ロスト・ソウルズ』を書くために大学を中退したという肩書きが、彼女がなにかに駆り立てられてしまった事実を物語っています)。
そう、彼女はきっと軟弱な不良のように描かれたヴァンパイたちを見て、憤ったのである……破れた革ジャン着てバイクに乗った酒とタバコのヴァンパイアっていうのはねえ!!
嘆美なものなのよ。
と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この時間をえんえんと引き延ばさなければならなかった。このキス、たった一回のキスをどこまでも長く引き延ばさなければならなかった。すぐにスティーブは身を引くだろう。スティーブの舌のあの芳醇な味はディキシー・ビールのものではなかった。それははるか昔に過ぎ去った子供時代の夏の味、さらにそれに恐怖の暗い味が絡み合ったものだった。スティーブはすでに自分がどれだけゴーストに頼り切っているかということに脅えていた。彼自身がそう告白したのだ。この一回のキスが終われば、もう二度めはない。これ以上のことにスティーブは対処できないだろう。これだけでもすでにスティーブが混乱しかけていることにゴーストは気づいていた。しかし彼はどうしようもなくそれを必要としていた。
ポピー・Z・ブライト 『ロスト・ソウルズ』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
スティーブとゴーストはヴァンパイアではない。
千年生きるヴァンパイアは、歳をとらないがゆえに人里離れた古城にでも住むべきなのだけれど、ドラキュラ伯爵や、レスタト様の時代と違い、ときはすでに現代。ヴァンパイアたちは、せいぜいひとつの街で十年暮らすのが精一杯である。なにせ歳をとらないのだ。正体がばれてしまうのである。ばれたときには、それまで街で血を抜かれて死んだ者たちのすべてが、彼らのエサになったのだと知れるのである。
やむをえず、ヴァンパイアたちは、広大な世界に暮らしながら流れ生き、実際的には狭い人間関係(ヴァンパイア関係)のなかでしか生きられない。そうして流れ着いた現実のヴァンパイアたちは、ヒトにとって、目の前に現実に現れた永遠だ。それはもうむちゃくちゃなものなのである。
それを哀れだと、オペラは描いたわけだけれど。
人間は、それに拍手して哀れよねえと囁きあったのだけれど。
実際のヴァンパイアは、不死は。
醜い。
それを目の当たりにしたヒトは、いまなにをすべきかを直感で考え行動するようになる。おれたちはここにいるよな、と、確認せずにはいられなくなる。他人に感応する特殊能力を持つゴーストは、ヴァンパイアの醜い魂に心を荒らされてゆく。そして初めてスティ−ブは、ゴーストを失うことの恐ろしさに気づくのである。だから口づけたのだ。彼とのキスは二度とない。でも彼は今後もゴーストを頼り、ゴーストは彼を想い、彼らの魂は続いてゆく。
狂いかけたことで与えられた、たった一度のキスに、永遠を求めるゴーストこそ、人間の魂が凝縮されたヒトそのものではなかろうかと……ブライトは描く。ヴァンパイアは、ヒトの女の腹を食い破って生まれてくる。これはそれまでのヴァンパイア像とは違い、それこそがスプラッタ・パンク第二世代と呼ばれるゆえんなのだが、よく考えてみればそれは単純化されただけだ。
もともと、吸血鬼に噛まれた人間は吸血鬼になる、という設定はあったのだ。
ひとりのヴァンパイアが生まれるとき、ひとりのヒトがこの世から失せる。
全体で見れば図式はなにも変わっていない。
スプラッターというと眉をひそめるかたも多いだろうが、それはタブーを消し去るという手法だ。本当に血みどろのホラー映画はいっそコメディなのであって、それゆえにハリウッドでも血の流れない日本ホラー映画のリメイクが「新鮮だ」として盛んに行われた。ホラーとひとくくりにはできない。スプラッター映画は、恐怖映画ではない。スプラッタ・パンクは、破綻した吸血鬼小説ではない。
入場曲を変え、衣装を変え、けれんみを増し、単純化した。
過剰演出した。
ヴァンパイアを「永遠に生きるヒト」として描いた。
すると社会の枠組みから彼らは外れざるを得ず、街から街へと渡り歩く、さすらいの無法者になった。人間関係が築けないから、刹那の快楽である酒とタバコと女とドラッグに溺れて、暴力に溺れて。
永遠とは、そういうものだろうか。
そういうもののように、思える。
永遠の命を持つがゆえに、ヴァンパイアは孤独に膿んでゆく。
だがそれは、考えてみればこの世にヒトと吸血鬼の二種類がいるからであって、この世に生きるヒト型生命体のすべてがヴァンパイアならば、だれも孤独に悩む必要はないのかも知れない。
……そうなのだろうか?
今年の四月から、国内でヒト人工多能性幹細胞=万能細胞=iPS細胞を再生医療目的で保存管理する試みがはじめられる。捨てられる臍帯や胎盤から、iPS細胞を作って保管(もちろん妊婦の了承を得てでのことだ)するのだという。
同じく今年に入って、マウスの体細胞から作られたiPS細胞を使い、角膜になる幹細胞にまで分化させて培養することに成功したチームがある。倫理的問題からマウスを使用しただけで、人間でもほとんど問題なく同様の培養が可能であるらしい。
つまるところ、万能細胞バンクから買った細胞を育てて新しい自分自身の目を作ることがすでに可能になっている。今年に入って一ヶ月のあいだの進歩だ。まさにヒトは一瞬で進化する生き物になったとされる技術的特異点に、いま到達しているのかも知れない。
自分のための自分の肉体のスペアを作ることが可能になる未来は、もうすでに未来と呼べないそこまで来ている……すべてのヒトが千年生きる社会が、やってくる。ヴァンパイア・マグナスのように、自ら炎に飛び込みでもしなければ死ねない社会が。
実際に革ジャンやチェーンや安全ピンの着用率は上がるだろうか。
バイカーやロッカーは増えるだろうか(怪我しても「直せる」のならバイカーは確実に増えるだろう。リスキーな形状のバイクも数多く登場するに違いない)。
ヒトは、それでもまだ恋をするだろうか。
たった一度のキスに、ときめくだろうか。
『ロスト・ソウルズ』
喪われし魂。
永遠はただ、膿んでいくだけなのか。
永遠のなかの、一度のキス。
それを本当に永遠にしたいと望むのは、醜いことだろうか。
たったひとり生き延びるならそれは地獄だろう。
けれど、永遠に変わらず彼のそばにいられるなら……
永遠によって魂は喪われる?
はたして、それほどヒトの魂は弱いものだろうか。
