めでたく今年も仮面ライダーの新作がはじまりました。

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 『仮面ライダーキバ』公式サイト 

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 いきなり1986年の葬式からはじまるので、

「な。二年連続で時空を股にかけるタイムトラベラーものなの?」

 と、確かに去年の『仮面ライダー電王』は、ぜったいに救われないタイムトラベルものを一年間の大河ドラマとして見事に描ききってハッピーエンドに仕立てたのは素晴らしかったんだけれど、やはりイロ物の感が最後までぬぐえず……やっぱり電車の操縦席がバイクというのは「仮面ライダー」としてどうなのかというそういう根本的なところが昭和ライダーからのフリークとしては、でもねぇ、という萌えきれないところがあって。

 また今年も必要以上に凝った設定で見せられるのかと思うと、食傷気味なところが……ところが。番組開始五分で状況一変。なんか短パンの女戦士が出てきてステンドグラス怪人と鎖で闘いはじめた。で十分後。舞台は現代へ。その女戦士(と見せかけて別人?)が、今度はバイクで登場、一年間ご無沙汰だったバイクアクションを華麗に披露して車で逃げる何者かにがっつんがっつん攻撃を加えている。

 『キバ』というか仮面ライダーのスポンサーであるホンダの公式サイトを見ると、さっそく今年のライダーバイクのベース車両がご紹介。シャドウだ。アメリカンだ。『響鬼』好きだった私としては(むろん実生活でのカワサキ・アメリカン乗りとしても)、『電王』がオフロード車三昧でしかも操縦席だったということで丸一年、仮面ライダーのなかにバイクを観る楽しみを失っていたところだったから、大歓迎。仮面ライダーキバのデザインがマントをつけた伯爵のごときものなので、ボリュームあるバイクが選ばれたのでしょう。
 そう、今年のライダーは一目見てぴんと来る。

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 ヴァンパイア。

 1986年からはじまったのは、その時代から現代まで続く闘いを描くため……現代の汚染された空気にアレルギーを持つ少年が、コウモリのモンスターに自分を「噛ませて」変身する。第一回のラストは、女戦士が、なぜか怪人を倒したライダーに向かって刃を向けるシーンで終わるのだけれど、これでストーリーラインは、ほぼ見えた。

 キバはヴァンパイア。
 倒すべき敵、ファンガイアもまたヴァンパイア。
 女戦士はヴァンパイア・ハンター。
 この闘いは永遠のように続けられている。

 ──仮面ライダーは悪の秘密結社によって造られた怪人である。
 悪によって生み出された力が、悪を討つ。
 力とは、使う者の魂によって色を変えるもの。
 それが仮面ライダーの本道だ。
 『キバ』の初回に、それを見た。

 同じ石ノ森章太郎原作の『キカイダー』で、友人たちと旅行に行き、みんながごちそうに笑顔の隣で、胸のハッチを開けてガソリンを自分に注入している人間の姿のキカイダーは、いま想いだしてもいつでもどこでも瞳が潤んでしまう、私にとってのヒーロー像そのものです。ヒトの側に立ち、ヒトのために犠牲をいとわず闘う、そのヒーローの本質は敵の側にあって、けっしてそのヒーローがヒトとして認められることはない。

 ヒトに害するヴァンパイアを倒す、正義のヴァンパイアもまた、ヒトであるヴァンパイア・ハンターに狩られる者である──でもふたりはわかりあうんだよね、溶けあえないけれど、ひとつにはなれなくても、理解して共存することはできる──仮面ライダー魂は、そこにある。

 たのしみです。『キバ』。

 ところで、コウモリのモンスターに自分の肌を噛ませる、という変身方法は、素直にとれば「血を吸われている」のではなく「なにかの物質を体内に注入している」そのために主人公は最強のヴァンパイアへと変身する。そうとらえたほうが自然だ。

 ヴァンパイアに血を吸われた者もまたヴァンパイアになる。

 その設定も、吸血鬼モノではよく使われる。
 おそらく、この設定の発生当初は、肉を喰らう獣──たとえば野生の狼など──に、村の子供が襲われるといった出来事のなかで、生き延びたヒトが狂犬病を含むあまたの感染症によって奇態なふるまいに及んだり、死を迎えたりする。それらの連想から、キバを持つ怪物に噛まれると、当然のようにあちらからこちらにもなにかが流れ込む、ということになったのだろうが。

 現代においては、その設定を眺めて、感染症を思い浮かべる人のほうが少ないだろう。
 仮面ライダーキバは、なんらかのドーピングをしている。
 オリンピック競技で、試合前に自分をヒトの領域を越えたモンスターと化すために薬物を注射する──変身するアスリートたちを実際に目にしているこの世では、そう見るのが自然だ。

 不死の体=身体ver.2.0。
 レイ・カーツワイルの著作に出てくる言葉である。

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 きたるべき永遠の命が手に入る夢の未来まであと数年と信じて、健康オタクな毎日を送る偉大な科学者、レイ・カーツワイルは、反論する人々に「ヒトの技術は指数関数的に発達するものだ」と言ってはばからない。

 ヴァーナー・シュテファン・ヴィンジ(Vernor Steffen Vinge)は数学者であり「サイバースペース」という概念をあつかったほとんど最初の小説家だが、彼の提唱した技術的特異点(Technological Singularity)なる概念は、その後、ウィリアム・ギブスンらによって確立されるサイバーパンクというムーヴメントのなかで、ファクションとしてはこう描かれることが決定した。

 技術的特異点を越えたあとのヒトの世界は、ひどい。

 ざくっと語ってしまえば技術的特異点とは、ヒトは動物の一種ではなく、その進化はダーウィンの語ったような少しずつ環境に適応して変化したがゆえのものではすでになくなっていて、ビッグバンのようなものになったのだということで──エネルギーが溜まりに溜まり、ついに爆発する、その一瞬こそが技術的特異点。

 ヒトは知識を蓄積する。
 そしてヒトはひらめく。
 昨日までは夢物語だったが、技術的特異点を越えた今日は、人類は不老不死を手にしている。
 血管にナノマシン、最新の病まない遺伝情報はインターネットからダウンロードできて、猥雑な思考は人工知能に代替させることで、人の脳はもっと純粋に夢見ることができるようになる。

 カーツワイル先生は、その日になったら死ななくなるからと健康オタクなのだけれど。
 多くのSF作家と、その作品のファンたちは、その地点にヒトが到達するまでに人生をたのしんでおかなければと思っている。

 血管になにかを注射したら強い躰になれる。

 死さえも超越するほどの。
 それは幸せなことだろうか。
 最強の死なないモンスターになって数百年。その膨大な時のなかでヒトは、憎しみや絶望や虚無よりも、愛をより増幅させて高次元な魂の極みへと到達できるものだろうか──私はおそらく三百年くらいですべてをやりつくして、どうせ死なないならヒトを襲って害をなすモンスターになってしまう自信がたっぷりある(笑・最近でいうと『sola』の夜禍人という存在が、あまりに長い時間のせいで愛憎劇に走ってしまった典型でしたが。いや実際、十代の青臭くどろどろした人間関係が千年続くと、好ましいことになるとは思えません。恋は愛に変わってこそ永遠となれるのです(ぉ良いこと言った))

 仮面ライダーキバが、ヒトのために闘っているのかどうかはまだわからない。
 ただ単に、愚かしい同族を狩ることに悦びを見いだしている、それもまたただの狂った獣の姿なのかもしれない。しかし、彼はヒトの世で生きている。汚染された空気にマスクとメガネが外せなくても、ヒトと化け物との共栄の神話、仮面ライダーシリーズの主人公になったのである。

 仮面ライダーは孤独だ。
 だがしかし仮面ライダーは、愛に生きねばならない。
 ゴシック様式に彩られた銀の鎖からまるライダー。
 ぜひこの一年で、ヒトを越えたヒトもまた美しくあり続けるのだと。
 夢見させて欲しい。

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「お前が、いつか呪わしく憎むべき存在になったときに」老女王はいった。「お前は初めて愛のすべてを理解するようになるだろう。それが不老不死なのさ。ものごとが嫌というほどよくわかるということがね!」彼女は両手をさし上げて、再び吠えた。


 アン・ライス 『ヴァンパイア・レスタト』

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(ヴァンパイアの話をするつもりが、思いがけず新ライダーもヴァンパイアがらみだったので、話が脱線してしまった。ヴァンパイアと不死についての徒然を次回も続けます)
 
 いずれ僕たちは死ぬ。何もわからないまま。われわれには何ひとつ理解することはできない。そして、この無意味さは永遠にどこまでも続いていくんだ。僕たちはもはやその目撃者にもなり得ない。自分たちの心を納得させるだけの、ほんのかけらの力さえ、僕たちには持てない。僕たちは何も知らないままただ消え去るだけ。ただ、死、死、死があるばかりなんだ。

 アン・ライス 『ヴァンパイア・レスタト』

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 ニューヨーク・タイムズによると、2001年の米同時テロ後にアフガニスタンやイラクに派遣された米兵のうち、帰還後に人を殺したり、殺人罪で訴追された者が少なくとも121人に達している、ということだ。

 ショッキングな見出しだが、この数字はどうなのだろう。
 公式発表では、昨年、イラクでの米兵死者数は899人。
 一年だけの数字だ。しかもこの数字は年々増加している。民間人の死者は2万人以上。多国籍軍が2007年にイラクで実施した空爆は合計1447回。アメリカのホームレスの25%にあたる約20万人が、退役軍人だという統計がある。
 データは山ほどあるが、眺めているとこう思う。

 この世は地獄だ。

 121人のうち、3/4は犯行当時も軍に籍をおく現役の軍人であり、犯行の半分以上で銃が使われた──しかしてこの世が統計通りの地獄なら、私は121人という数字をショッキングに思えない。今年は2008年、だとすればその数字は言いかえれば「一年に10人ほどの帰還兵が人を殺した」──怖ろしいことであり、大変な数字だが、今日もその国のホームレスは駅前で凍って死んでいる。

「彼らこそがスーパースターだ」

 昨年末、クリスマスにイラク米駐屯地を慰問したプロレス団体WWEの様子を見た。
 今年で五年目の慰問です、とアナウンサーが絶叫するが、それはその国の情勢がまったく変化しないどころか悪化していることだけを伝えている。


   
 イラク駐在米軍慰問公演
 『TRIBUTE TO THE TROOPS』

 ぼおっと眺めていると、その砂漠さえ、飢えた人々さえ、傷つけあう殺戮者の群れでさえ、だれかの書いたシナリオ通りにすすめられているプロレス──ドラマのように思えてくる──兵士たちは笑顔だ。1500回の空爆をした年のクリスマスに肩をたたきあって新年を迎えている。

 ドラマ『LOST』で、帰還した主人公が呟く。
 あの地獄に戻りたい、と。
 もういちど飛行機が落ちて地獄に辿り着けばいいのに、と。

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 ところで『ヴァンパイア・レスタト』。
 それは、現代によみがえりしヴァンパイアのお話なのですが。

 レスタトは、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のタイトルで映画化もされた『夜明けのヴァンパイア 』の主人公をヴァンパイアにした張本人で、非常にろくでもない人物のように前作では描かれているのですが『ヴァンパイア・レスタト』では、そのレスタト自身が憤慨して自らを語るという自伝の形をとっていて。

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 このあと、ヴァンパイア・クロニクルズとしてシリーズ化される、アン・ライスの吸血鬼世界が、まだ手探りでありながらも確実に形を成していく、まさにひとつの新たなヴァンパイア像が生まれる瞬間がそこにはある。

 そのインタビューによって有名になったヴァンパイア・レスタトという吸血鬼の名を、レスタト本人がコスプレするという屈折した形をとることにより、光る肌と尖った犬歯を持つレスタトは観衆の前に立つことを可能とし、ロックスターとして名をなすまでになる。
 そして書かれた自伝。
 当然ながら、レスタトもまた、かつては人間だった。
 けれどヴァンパイア・マグナスによって吸血鬼となった。
 受け継がれる吸血鬼の魂──吸血鬼に血を吸われたものもまた吸血鬼になるという設定は、それ以前からも存在していたけれど、アン・ライスがやってしまったのは、それを甘美なものとして描く視点の創造──レスタトは、状況としては噛まれてヴァンパイアになる。
 けれど、ならばなぜ彼は選ばれたのか。
 
 望んだからなのだ。

 まだ人間だったころの青年レスタトは、友人であり(作中で明言はされていないが)愛人であるバイオリニストの青年ニコラと、ふるさとを捨ててパリでの同居生活をはじめる。
 けれどやがてふたりはすれ違い、耐えきれずレスタトは、ニコラへと問いかけてしまう。

 ニッキー、きみはぼくと来たことを後悔しているのか?

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「もちろんしてないさ。僕が言いたいのは、君が可能だと考えていることは、本当は不可能だってことなんだよ! 少なくとも君以外の人間にとってはね。狼を退治するのと同じことさ」


 アン・ライス 『ヴァンパイア・レスタト』

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 人の身であったときからレスタトは特別で、狼の群れに襲われても生き延びたその存在感を指して、人々はなかば崇め、なかば畏れて、レスタトを『ウルフ・キラー』と呼んだ。そして街に出てからも彼は変わらず、不可能なことも彼が望めば、実現可能な現実になったのである。

 そして、ヴァンパイア・マグナスが現れる。
 ニコラの前から、レスタトを奪い去るために。
 彼を、ヴァンパイアにするために。
 彼が、望んだから──ヒトが究極的に望むものが永遠という言葉で表されるのなら、それは別の言葉ではこうも表すことが可能だろう。

 死。

 ヒトは生物なので永遠たり得ず、しかし永遠がもしも特別な力で可能となるならば、それは死と同義だ。吸血鬼になったレスタトの爪は、ヤスリでいくら削っても、一日のうちにもとに戻る──のびる、のではない──彼が吸血鬼となったその瞬間の状態に戻るだけ。髪も、肌も、若さも。変化しないだけ。
 それは、ヒトとしての死の瞬間と変わらない。
 腐らない死体である。

 ヒトはヒトを理解し得ない。
 ヒトはヒトのために生きたりしない。
 ヒトはヒトを愛するけれど、それはヒトを愛する自分を愛して生かすという前提あってのことだ。
 ヒトはヒトと争い続ける。
 何千発の爆弾を落としても。
 変わらない。
 
 二歳の娘を壁に投げつけて殺した帰還兵は、そこに望んだ地獄を見て救われたのだろうか──彼はなにを見ただろう。なにか見えただろうか。なにか知っただろうか。それともやっぱりそこには、死だけがあったのだろうか。なにもわからないまま。
 ヒトを捨てたところで救われず、ヒトとして死ぬだけか。
 ただ、死、死、死があるばかり。
 何も知らないままただ消え去るだけなのか。
 何も、もてないまま?

 ヴァンパイアは総じて、けだるい。
 死んでいるからだ。
 永遠のなかで、その先にも永遠しかなく。
 退屈で死にそうなのだ、死んでいるのに。
 死んでいるのに死んでいないというのは、実に退屈だ。
 ヴァンパイア・マグナスは、レスタトを吸血鬼にしたあと、火に飛び込んで燃え尽きる。レスタトに、くれぐれも焼けたあとの灰をまき散らすようにと言い残して──そうしないと、また自分は蘇ってしまうから、そんなのはごめんだと、苦々しげに言って。

 愛が解決策だ、などというのも寒い話だし。
 生きる意味を考えながら生きるのが生きるということだ、という屁理屈に納得できるのは馬鹿だけだ。
 今日も今日とてヒトがヒトと争うのをとめるためにヒトがヒトを殺して心に傷を負いまたヒトを殺して。
 なんだ? 退屈なのか?
 そんなにプロレスが好きなら、パイオツカイデーなディーヴァが好きなら、もうヒトのことなんて放っておいて帰ってビール飲みながらテレビでも見ていたらどうだよ。
 永遠を、望んでいるうちに。ヒトひとりの人生など終わるよ。
 ぼくらはレスタトにはなれないんだし、なりたくもないだろうさ。
 ヒトの血が足りなくなると、テラテラと肌が光るんだ。
 そうすると仮面をかぶるか、ヒトを殺して血を飲むしかない。
 なにが望みだ?
 それは実現可能なことか?
 まだ飽きないのか。
 
vampire
 米酢とか、もっと小洒落てワインビネガーとか、そんなのはダメだ。酢じゃない。ディスカウントストアに行けば一瓶98円で売っているのが酢だ。穀物酢ってやつだ。酢の物作って食ったら顔しかめるような酸味のきついやつ。しかしそれでこそ酢ってものじゃないか?

 たとえばウィスキーでクリアブレンドのまろやかさを宣伝している銘柄があるけれど、それってけっきょくシングルモルトの個性を消し去ってのっぺりしたかわいらしいのに仕上げたってことで、本気でウィスキーを愛するなら煙の味がするようなどぎつい美人に惚れるべきだろう?

 いやもちろん、まろやかなのが悪いわけじゃない。ただ、クセのないだれにでも愛されうる個性、などというものが、本当に絶賛されるべき個性なのかどうなのかは、はなはだ疑問だ。とっつきにくいが実はキュート。そういうのがいいな。話しかけるのには壁があるが、話しかけてみたら実に深みがあって飽きない。そういうのがいい。

Fried_chicken

『クリスピー・プロ・フライドチキン』のこと。

 そんなわけで、つっこまれたので補足。
 可憐なおかまも泣いて許しを請うシンプルさです。

 キュウリのレモンサラダ、レシピ。

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●材料

きゅうり 一本?
レモン 大さじ3?

(もちろん瓶入りレモン果汁でよい。ウォッカトニックを愛する私のレモン消費量たるや、生レモンでは追っつかないので我が家では数本常備しています。分量はこんなもんお好みだ。写真のキュウリは手巻き寿司の残り物を乱切りにした)

●作り方

きゅうりにレモンをかけてまぜる。

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 実際のところ、フライドチキンにはこういうヴァンパイアも眉根を寄せて苦笑うシンプルなレシピがよい。
 ていうか。

 ケンタッキーフライドチキンのチキンにはなぜコールスローなんてサラダがついているの!?
 モスバーガーでもチキンセットに当然のようにコールスローが。

 冷静に評価してみろって。
 脂ぎったチキンフライをがっついて、その箸休めに脂と卵でできたマヨネーズの和え物を本当にチョイスするのが正解か?
 どうせキャベツのサラダなら、それもレモン果汁だけで和えて欲しい。
 獣も寄りつかないすっぱさの極みが人間様の優雅なる叡知というものだろう。
 焼鳥屋でときどき、キャベツのざく切りに酢をまわしかけただけのつきあわせが出てくることがあるが、あれこそベストチョイスだと思う。穀物酢のやたら鼻にツンとくるようなのだと最高。きっと経費節減のために50円くらいの酢を買ってきているのだろうが、だったら生キャベツでいいのに酢キャベツにこだわるガード下の魂に拍手。気を効かしたつもりで塩だの化学調味料だの勝手に振りかけて出す店には二度と行きません。

 ぶっちゃけ、ケンタッキーの暇なフライドチキン屋だったころには、冷蔵庫で三日保存しても見た目に変化のないこってりコールスローが選択肢として唯一だったのだろうけれど、可能ならばフライドチキンには新鮮な緑色の野菜に酢とかレモンとかがぜったい合う。

 そういうこっちゃ。

 こっちもつっこまれたので補足。

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 鶏肉、放り込むだけで焦げ目ってつかないよね、って。
 ええ、つきませんよ。
 あらかじめ焼いてください。
 なぜそこをはしょるって?

 たいした問題ではないからです。
 レシピなんてものは分量とおよその作り方があればいい。
 端折れるところは端折ったシンプルなのがいい。

 焦げた肉が好きなら焦がすとよい。
 生が好きなら生で喰えばよい。
 レシピ通りに作ったって要は魂の叫びがそこに加えられるかどうかというパッションの問題。

 叫べ。
 そして作り喰え。
 面倒くさいなら喰うな。
 今年もそんな感じで。
 料理しましょう。

 ジャンバラヤのときに書いた「ピザのレシピを今度」というのが実現しないまま時が経っているので、それもざっくりやれたらいいな。ちっちゃい抱負。実現できる願いを抱くのが肝要。毎週のように食べているものって、あえて作り方とか写真撮ったりとかパッション萌えないってとこあります。毎日味噌汁作るひとは、味噌汁のレシピなんてもの自体なにそれって感じなのと一緒。

 味噌汁は長ネギとわかめが好きです。
 長ネギはくたくたになるまで火を通して欲しい。
 味噌汁を丁寧に作れるひとというのは、ぜったいに悪いやつじゃないよなぁ──と好きなくせに野菜室に長ネギがあってもあらかじめ刻んで冷凍したネギを使ってしまう自分を愚かしく思ったり。

 手早く作って喰いたいときにすぐに喰う。
 というのと、だれかを待たせてでも手をかける。
 そのバランスに、生き様って出るものです。
 絶妙に大雑把なのが理想だな。
 そういうのがいい。
 パリ・ダカールラリーが中止になった。
 出場する予定だった選手やスタッフたちが一様に、

「一年間の準備が水泡に帰して無念だ」

 という内容のコメントを出した。
 闘い勝利するために研ぎすまし計算し、多くのものを捨て、それでも得たいものがあったのに、直前になってその試合の舞台そのものが消え失せた──私も、これまでに何度か「雑誌がなくなったから原稿をお返しします」という状況になったことがあるが、それはまだましだ。なんにせよ私は闘い終えたあとなのだし、市場原理で淘汰が起きるのはしかたない──けれどパリ・ダカ、は。

 脅されて中止になったのだという。

 いまではもう隣人のようにおなじみになってしまったテロリストという人たちが、フランスと近隣諸国との接近を非難する声明を出し、明確にフランスがテロの標的となったことから、フランス政府がレースの中止を主催者側に要請した。
 そんな理不尽な話はない。 

 世界で最も過酷なモータースポーツ。
 サハラ砂漠を縦断する9000キロオーバーのコース。今年は開催30回目、8年連続13度目の優勝を狙っていた三菱自動車チームは、来年からディーゼル車両での参戦が決定しているため、今年が最後の三菱パジェロ神話を披露する舞台だった。コースに占める砂漠の割合が今年は大幅に伸び、画的にも観て飽きない過酷さを増した激闘となるはずだったのに。

 なにげに毎年放送を観ていた。
 大きな車両がごろんと転がるようなでこぼこの砂漠を砂煙あげて走る姿。平らでまっすぐな高速道路だって500キロも走ればクタクタになる。それが荒れ地の9000キロなんて死にに行くようなものだ。どれほどの準備と、どれほどの鍛錬をすれば、その舞台で勝つことの確信など得られるのか。
 それがぜんぶ無駄になった。
 死にに行くようなレースだけれど、極論それで死んだって望んでの本望で、他人に殺されるのとはわけがちがう。

 某大国が、スローガンとして使っていた。

「我々はテロには屈しない」

 脅されたからといって大統領が演説を中止したりしていたら、国は回らなくなるので、どこかからテロリストのライフルが狙っているとしても、強行する。サミットもオリンピックも中止しない(そういえば、ついにスピルバーグと中国との芸術顧問騒動は、巨匠の降板という結末に落ち着いてしまったようだ。現代社会で大量虐殺が行われていることと石油が採れる国だから強く言えないとか、同列に語ること自体があきれる話なので監督の姿勢を私は指示する。そしてオリンピック史上初の、組織委が外注せずに自力で作った開会式になると中国側は発表したが……心配です。中国にも高名な演出家はいっぱいいるだろうに、なぜに自分たちで作ってしまったりするのか。巨大な組織が個人の思いつきのような勢いで動くところがあの国のすごくてヘンなところだと思う)。

 でも確かに、狙われているとなったら、9000キロは守りようがない。
 でも、だからといって中止するとなったら。

 テロリストという人たちの思いつきで世界が動かせることになる。
 今回の発端となった声明はアルカイダ系のイスラム過激派からだったが、彼らは世界中で本当に人を殺してまわったことで、あきらかにこのところ発言力を増している。先月24日、旧フランス植民地であり、パリ・ダカのコースの一部でもあるモーリタニアで、旅行中のフランス人家族四人が殺害された。実行犯たちは、もともとは「布教と聖戦のため」に闘うと叫んでいた組織のメンバーだが、犯行声明では、いつのまにやら「アルカイダ組織」という肩書きがついていた。
 吸収合併により、そこら中のテロリストたちが発言力を持つその名を使い始めている。下っ端の下っ端の下っ端のチンピラが「おれのバックにはあの組織がついている」と名乗ることで、脅しを成り立たせ、得たいものを得るという悪循環がはじまっているみたいだ。

 脅される側には、線引きのしようがない。
 本当に脅しをかけてきたやつらがパジェロを吹き飛ばす地雷をコースに埋めたり、ミサイルランチャーで狙ったりするような実行力を持つ暴力者なのか、それとも虎の威を借る狐なのか、判別のしようがないのでチンピラの脅しにも屈するしかない。

 他人の世界はうかがい知れない。

 けれど。近ごろの、この世界は最低だ。
 旅行者とか、レーサーとか、なぜ殺す。
 テロリストの精神のなにひとつ私は理解できないけれど。大国を脅すために、その国で暮らしている一般人を狙うなんていう行為を、その巨大テロ組織の全員が良きこととか、やむを得ない手段などと考えて納得しているのだとしたら、そんなのは理解うんぬん以前に誤りだと断定できる。

 近年、研究者のあいだでよく指摘されるテロリスト組織の新人育成法がある。

 イスラム教では、ジハード(聖戦。外への闘いという意味の解釈によってこれも誤訳の可能性あり)で戦死した者は天国に辿り着くとされていて。
 その天国というのが、実に生々しい。

「72人の処女膜が再生する永遠の処女とセックスを永遠に愉しみながら決して悪酔いしない酒とごちそうに囲まれる場所」

 ──これが天国だ。
 まあ、まちがいなく天国だが(笑)。
 と私は苦笑するが、生まれてこのかた文字を読むことも言葉さえろくに教わらず、まわりの大人はテロリストで、銃の扱いだけ教え込まれた幼児の精神のまま青年の肉体を得た若き新人テロリストにとって、崇拝する幹部から口伝いの伝承として語られるこの「天国」の描写。
 そのためにジハードに向かうのだという、思考。

 これは、私にも理解できるのだ。
 それは、童話を読み聞かされて白馬の王子様を夢想する少女の思考となんら変わらない。

 生き残った青年は、死んでいった友を思いながら、また新たな読み書きできない新人テロリストに、72人の永遠の処女の童話を語って聞かせるのだろう。そうやって、いま。あの吸収合併を繰り返して巨大になりはてたテロ組織を、動かしているのは本当に「あの大国のせいでこの国の一般人が死んでいるのだから奴らも同じ目にあって当然だ」というような誤っているにせよ論理的な思考をたどっての決定なのだろうか。

 パリ・ダカが中止になった。
 ただでさえ壊れていく地球で、人が人を殺し続ける。
 脅しに、報復、果てはだれでもいいからと的にする。
 考えたくもないが、ちょっと真剣に、ヒマだからこんなことを繰り返しているんじゃないのかな、と、思ってしまった。そんな天国はねえよ、この世で生身の女くどいたほうがどんだけ幸せかわかんないよ、と新人テロリストになる前の少年たちに、なんとか教えられないものだろうか。近所のハナちゃんは可愛くないんだろうか。可愛いと思うなら銃なんて握ってヨソの国見つめているのが不毛なことだと、学がなくたってわかんないもんだろうか。きっと悪い酒ばっかり飲んでいるから、悪酔いしない酒なんてものが聖戦に向かう動機になり得てしまうのだ。フランスの透き通ったシャンパン持ってまあ飲んでみろよ、殺しあうことになんの意味もないよ、とだれか話をまとめられないものだろうか。
 そんなに難しいことなんだろうか。
 くっさいセリフだけど。
 憎しみあうより、愛しあうほうが簡単だと私は思うんだけれど。
 
 片方に金があって、片方にないから。
 あまりに荒れ果てた地では、余裕もなくなって、わかることがわからなくなるんだろうから、まあ天国ほどではないにせよ、座って酒飲んでメシ食って愛しあって眠れるくらいの余裕を、世界中で実現するっていうのは、空の月に行って旗立てるよりも難しいことなんだろうか。

 どうにかなんないのか、この世界は。
 ただ走ることだけ考えていたレーサーが今年は走れませんでしたなんてニュースを年明けに読まされるのは、うんざりだ。その理由が人と人が憎しみあっているために危なくてその辺も歩けたもんじゃないから、なんてのは馬鹿げている。

 比較的平和な国で、暮らしているから馬鹿げて見えるのか。
 でも近所のハナちゃん愛するより、見も知らないだれかを殺すことのほうが大事なんて男が、そんないっぱいいるってことのほうが、妙に難しく面倒くさいことになってしまっている気がしてしかたない。

 はじまりました、2008。
 こんな話からでもうしわけない。
 それにしてもパリ・ダカ、どこかの平和な砂漠の国でやりなおせないものかなあ。
 長距離レースというものは、スタートの瞬間までこそがレースであるという側面があって、レースそのものは完成した舞踏を披露する舞台のようなものだ。
 観客になりそこねたことが、実に哀しく。
 くやしい。
 どこのだれにだって観客から舞踏を奪う権利などないはずなのに。


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「見る客がいなかったら、どんなに高度な舞踏も、ただの運動だ」

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 上遠野浩平 『禁涙境事件 ”some tragedies of no-tear land”』