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 ↑今日も次々とあきらかになる事実。
 もう、なにがなんだかわかりません。
 でも、はっきり言えることもある。
 ここにあるのは失望だけだ。
 本当には、なにがあったとしても。

Chris Benoit

 クリス・ベノワ。
 その男が死に、これまでにわかっていることのいくつか。

●ベノワは、日曜日にタイトルマッチが組まれていたテキサス・ペーパーヴュー大会を土曜日の午後になって「家族の緊急事態」とだけ告げて欠場する意向をWWE本部に伝える。関係者は当日来場の可能性も模索し、翌日曜日の飛行機便をベノワのために予約したが、その飛行機にベノワが乗ることはなかった。

●日曜日、大会を欠場する意志を固めていたベノワは、早朝、三時五十一分からの七分間で、五通のテキスト・メールを仕事関係者に送っている。一括送信するには七分は長く、事前に書いておいたメールを、送信のさいになって数分間、躊躇した可能性がある。

●日曜早朝のメールのうち二通は、WWEの社員リチャード・へリングと、ベノワの同僚レスラーであるチャボ・ゲレロに送られており、メールの内容が月曜日に自宅を捜査官に捜索させてくれ、という内容だったため、ベノワの自宅があるジョージア州ファイェットビル郡保安官が出動要請を受ける。

●新築したばかりのベノワの自宅は、厳重な防犯設備のうえ、二匹のジャーマンシェパードが放し飼いになっており、応答のない自宅内部に保安官が進入するまでに多くの時間を要した。その後の現場検証も時間をとり、ベノワの自宅内部の様子がWWEに第一報として伝えられたのは、月曜日午後四時のことであった。

●月曜日午後十時。捜査に当たったポプ警部補による記者会見が行われた。

 そして、私は知った。
 新日本プロレスで活躍し、WCWの雄だった。
 ベノワがメールを送ったチャボ・ゲレロはエディ・ゲレロの甥だ──エディが逝ったとき、チャボが最初に電話したのがベノワだったという──そのチャボにベノワはメールしてきた。

 『エディ・ゲレロの死』のこと。
 『PRIDE対UFCとWWEの偉大なる歴史』の話。

 ↑読んでもらえばわかると思うが、私は日本のプロレスが好きで、WWEはWCWからの流れで観ているプロレスファンである。こういう私にとって、エディ・ゲレロは、そしてクリス・ベノワは、特別な存在だった。特にWCWの時代にみせたベノワの孤高の闘いぶりは、昨日までの私にとって指針といえた。エディの死は哀しかった。しかし今回はあのときとは同列に語れない。世界でもっとも尊敬されるレスラーと呼ばれるまでになった、ベノワは死んだ。だが、それだけではない。

●記者会見では今回の出来事は「自宅における多重殺人事件と自殺」と発表された。

●現場の状況から、クリス・ベノワ(40)はナンシー夫人(43)を絞殺し、就寝中だった息子ダニエル(7)の顔に枕を押しつけて窒息死させたものと推測される。その後、自宅の地下にあるトレーニング・ルームで自らの首を吊った。

 この凶行の原因について、いくつかの見解。

●公称プロフィールにおいてさえ180cm100kg(実際の身長が180cmもないことは衆知の事実である)という、日本のプロレス界においてさえジュニア・ヘビー級の骨格でありながら、世界最高峰のヘビー級タイトルをいくつも奪取したベノワが、筋肉増強剤ステロイドを常用していたこともまた、衆知の事実だった。40歳を迎えたベノワが、現在のWWEトップレスラー陣の潮流である過剰にビルドアップされた肉体と並んで見劣りしないためには、その摂取と極限を超えたトレーニングが必要となっていた状況が推察される。同年代であるHHHやショーン・マイケルズがかつてのユニット『D-ジェネレーションX』を復活させるなどしてキャラクターで観客を魅了するのに対し、新日本プロレスとWCWで『nWo』旋風が吹き荒れていた当時に群れることを嫌う一匹狼としてキャラクターを確立させたベノワが一線で戦い続けるためには、アンチエイジングな方向で突き進み、衰えを拒絶するしかなかった。ステロイドには、鬱病の兆候が出るという副作用がある。

●ベノワの息子、ダニエルが脆弱X症候群(fragile X syndrome)であったという発表が公式にWWEから出ている。これは現在唯一、遺伝性であることが確認されている精神発達障害であり、脳の発達に必須な遺伝子の一つFMR1遺伝子が含まれるX染色体の異常のため、本来必要である蛋白産物が合成されなくなり、結果、脳の発達が促進されないという障害。X染色体に異常が認められるが発症しない保因者(脆弱X症候群の診断を受けているのは全保因者の一割程度であるとみられている)を含め、数千人に一人という発生率の高い症候群である。ダニエルについても他の子供と対話することができず他の子供を恐れているという周囲の証言があり、自閉症の兆候があったものと推察できる。脆弱X症候群においては、男児のほうが女児よりも症状はあきらかであり、知能障害に至る女児が患者の3分の1であるのに対し、大部分の男児が精神発達遅滞をきたすと報告されている。かつて、クリス・ベノワに対し、同症候群の支援団体が、尊敬されるレスラーであるベノワに団体の顔になって欲しいと正式依頼したことがあったが、これをベノワは拒絶した。

 ステロイドに関しては、スポーツの世界ではもはやなにかあるたびに原因として取りざたされるものであり──だからといってそれが原因ではないという根拠にはならないが──ステロイドの副作用による鬱状態が原因で家族を殺したなどと言い出しては、鬱であることが殺人者の要因であるかのようにとらえられてしまう──これははっきりと間違いだ。鬱病で自殺したという話ならともかく、他人を殺したことに対し、それはなんの説得力も持たない。

 ここには失望しか生まれない。世界でもっとも尊敬されるレスラーは、自らそのすべてを黒く塗りつぶしてしまった。その生き様を指針にしていた私のようなファンを、まったく無視して。

 殺人者になった。

 優秀なフィクション作家なら、男女の心中を美談として書くことは可能だろう──辺境の島国の練習生から世界最高峰のチャンプになった男と、その男を惚れぬいた女が、世界の頂点に立ったとき、建てたばかりの巨大な新居の中こそを、人生の終着点としてともに死を選ぶという、メロドラマに仕立てることはたやすい──しかしそれが読者の共感を呼ぶとすれば、そこには男も女も、自分で自分の人生を選んだという大前提があるからだ。好きに生きて、好きに死ぬ。選んで一心同体になった二人が、だれにも迷惑をかけずに逝ったのなら、それがどんなに愚かしくても、私はエディのとき同様に、彼らの死を悼んだだろう。

 けれど、七歳のダニエルは。

 パパのことが、ママのことが好きだったにせよ嫌いだったにせよ、選んでクリス・ベノワの人生にかかわったわけではない──子供は、他人だ──痴話喧嘩の果てに心中になったという話とは、まったくの別の話だ。私の尊敬していたレスラー、クリス・ベノワは、先週、七歳の子供の顔に、マクラを押しつけて殺した。同じ日に、彼の鍛えられたその腕で、最高のエンターテインメントが演じられる、それを観られると座席に座り、PPVの料金を払ってテレビの前にいた、すべてのファンを裏切って。
 その腕一本で生きてきた、彼の商売道具で。
 力いっぱい七歳の男の子の息の根を止めた。

 最悪だ。失望しかない。
 その状況を見れば、なぜまず妻の首を絞めて殺したのかについて、これも最悪な想像しか思いつかない──脆弱X症候群は遺伝する。ただし、それがX染色体に含まれる異常であることから、保因者男性クリス(XY)は、もしも彼に娘(XX)がいたならばその全員に前変異を伝えるものの、息子(XY)には伝えない。一方、保因者女性ナンシー(XX)の子供には性別に関係なく五十パーセントの確率でこの遺伝子が伝えられる。
 クリス・ベノワには、息子(XY)がいた。

 彼が、リングで演じたキャラクターのいくばくかが本当のことならば、おそらく彼は、原因を取り除いたあと、結果にマクラを押しつけるとき、叫び泣きわめいていただろう。そうして、苦悩のすべて(だと彼が感じていたもの)がすべて息絶えた世界で、傍目にはそれこそが苦悩の源(みなもと)のように思えるトレーニング・ルームへの階段を降り、自分も終わらせた。

 彼ほどのエンターテイナーが、想像できなかったのだろうかと不思議だ。

 それならば順番を入れ替えて、トレーニング・ルームで自分を終わらせるのを真っ先に持ってきていれば。

 そこで世界は終わったのに。
 自分なしで、妻も息子も生きてはいけないと思ったのだろうか。
 七歳の息子が?
 いま他人を怖がる上手くコミュニケーションをとれない状態であっても、生きている息子が。
 自分なしでは幸せを感じることはけっしてないと?

 クリス・ベノワの身長は私と変わらない。
 でもとうてい、どんな努力をしたって、私は世界最高峰のヘビー級チャンプになれるだなんて、夢にも思えない。
 彼は、夢見た時点で勇者だったし、きっとその野望を実現させる過程は、ほとんど狂気の沙汰だっただろう。
 カラダを破壊し、改造し。
 心を病んでまで。
 それでも彼はチャンプになったのだ。
 ありえないことにヘビー級の世界最高位に。
 彼はもっとも尊敬されるプロレスラーだった。
 それに異を唱える者なんてだれもいなかった。

 昨日までは。
 最悪だ。失望だけしかない。
 七歳の少年の未来を彼は信じられなかったのだ。
 そんな世界は壊してしまえと勝手に決めた。
 世界一、可能性を信じている男だったはずのクリス・ベノワが。

 私はいま本当に泣いている。
 悔しくて。

 生み出したキャラクターは、もう創造者のものではなく、それを愛したすべての人たちのものだ──偉大なるおこないは、観客を得た時点で、もう演者だけのものじゃない──その姿がだれかの勇気となったとき、その姿はもう、だれかにとっての祈るべき十字架であり、その十字架を建てただれかが、祈るだれかの信仰を理解できないとしても、すでにそこに十字架のある以上、建てた本人にさえ蹴倒す権利なんてない──十字架を支えるのがしんどくなったなら、そっと消えればよかった。残された十字架に、人々は建てただれかの偉大さを思い、そこからまた絶えることのない勇気を得ただろう。

 ひとりで逝けばよかったんだ。
 クソ野郎だ、あの男は。
 追悼番組も観る気になれない。
 こんな裏切りを、私は許せない。

 ものすごくむずかしいことだけれど、どんなに落ち込んでいて、どんなに酔っていて、かつての彼の雄姿をどれほどなつかしく想い出したって、私はもう絶対に「ああ、クリス・ベノワは良いレスラーだったよなあ」と口にしない。思いもしない。最終的に七歳の少年を窒息させることに使われた筋肉で、演じられたあのクローズライン、ナイフエッジ、ジャーマン・スープレックス──
 すべてクソだ。

 悔しくてしかたない。
 私の大切な宝物が、コナゴナになった。
 かつて尊敬していたひとりのレスラーが。
 一夜にしてコナゴナにした。
 自分で自分の生んだすべての世界を。
 だいなしにした。

「おれはお前たちを愛してる!!」

 嘘でもリングから言ったからには。
 彼には少なくとも演じる責任があった。
 やりとおせないこと。
 それは最悪だと、私は彼から学んだのに。
 これこそ最悪だ。
 どこに向かって叫んでいいのかわかんねえよ。
 ……クソが。 
 
 Chris Benoit the rabid wolverine !!

 ──凶獣、クリス・ベノワ!!
 彼はそう呼ばれていた。
 狂った獣。皮肉だよな。
 笑えない。ぜんぜん笑えない。
 最悪だ。


「なくなっちゃったね」
 
 カラになった瓶を見つめ、ため息をつく。
 それは、濤(トウ)が瑞賢(ズィハ)を追ってこの街に来たとき、リュックに入っていた唯一の食べ物だった。
 
「どこかに、売っていないかな、ズィ。豆のまんまでもさ」
 
 小さく肩をすくめ、瑞賢は首を振った。
 仕方がないさ、というように。
 簡単に、あきらめてしまったかのように。
 濤には、この街にはなんでもあるように思えるのだが、いまだ言葉もカタコトの身では、近所のスーパーで買い物をするのが精一杯だった。
 それでさえ、一言も話さないのに、肌の色も変わらないのに、なぜだか自分の正体がばれて、じろじろ見られていることを確信する。
 瑞賢に言うと、この街のだれも他人のことなど気にかけてはいない、と断言されるのだけれど、濤は、人間はどういうふうに生きたってどこで暮らしていたって、まわりにいる他人のことは見ているし、よそ者は嫌われるものだと信じていた。
 見た目が同じでも、自分にはまだ、よその土地の匂いが残っているから、ばれるのだ。
 でもそうならば、この瓶がカラになったことで、ぼくのよそ者の匂いは薄らぐかもしれないな、と皮肉に思う。
 
「でも、豆が売っていないわけがないよ」
 
 スーパーでも見かけた。
 濤は自分が持ってきた瓶の中身の作り方を詳しくはわかっていなかったが、祖母が作っているのを横から見たことはある。
 
「この街は湿気ている。豆は味噌になる前に腐ってしまうさ」
 
 瑞賢は、春餅(チュンピン)の最後の一枚を、竹スダレのうえから取り、いらないのか? と濤に示して見せた。
 濤が首を振ると、瑞賢は一瞬だけカラの瓶に視線をやり、また小さく肩をすくめて、豆板醤だけを塗った春餅に、残った鶏の照り焼きひとかけらと、白髪ネギをのせて巻いた。
 濤は、豆板醤も、この街に来て初めて食べた。
 カラいので、あまり好きではない。
 
「甜麺醤なら、百貨店に売っている」
 
 瑞賢が言ったのは、むくれている濤を見ながら最後の春餅を食べるのがイヤだったからに違いなかった。
 でも、濤の瞳は、それで少し輝いた。
 
「テンメンジャン? なにそれ」
「同じ大豆から作る豆味噌だ」
「なに、同じのがあるの?」
「麹(こうじ)が入っている。トウが持ってきたのとは違う。本当の味噌だ。この街の店では、春餅にそれを塗って食う」
 
 濤は、麹がなんであるのかはわからなかったが、自分が幼いころから食べてきたものと、この街で手に入るよく似たものは、まったく違うものなのだということは理解できた。
 そしてそれよりも、瑞賢がこの街で、この部屋の外でも春餅を食べていたことに動揺した。
 春餅が、こんがり焼いたアヒルの皮だけを剥ぎ取って食べるバカげた料理にも使われることは知っている。
 しかし、濤にとっては違う。
 それは毎年の春、最初に畑に出た野菜の芽を、つぶした鶏肉と一緒に山ほど包んで食らう……みんなが冬の終わりと収穫のはじまりに狂ったように飲んで踊る、祝いの料理だ。
 それは、実りへの祈りだった。
 この街では、小麦も鶏肉も野菜も、一年中変わらず手にはいる。
 だから、濤はたびたび春餅を作った。
 祝いと、祈りの想いで。
 瑞賢に、食べてもらいたかったのに。
 
「お客さんと、そういう店、行くんだ」
 
 きっとズィは、そのぼくの知らないなにかの入ったこの街の豆味噌でアヒルの皮を巻いた春餅と、ぼくの祈りとを比べていた。
 バカげてはいないが、安っぽい、ぼくのひきずる過去を。
 もう、ズィは捨てた、過去を。
 
「お前も行きたいのか?」
 
 見当違いのことを瑞賢が言ったので、濤は立ち上がり、テーブルをまわって近づくと、振りかぶる動作なしに、瑞賢の頬を打つ。
 辛いだけの春餅をほおばっていた瑞賢は、それを噛み砕いて飲み込みながら、自分の頬を打った濤の瞳に、濡れたものがたまっていくのを見つめる。
 
「……なんだ。これは」
「しらないよ」
 
 言って濤は、瑞賢の胸にくずれるように落ち、首筋に両腕を絡め、声を殺して泣く。
 小さく息を吐き瑞賢は、自分を追ってこんな場所に来てしまった、弟のような恋人の背をさすった。
 
「甘えたいなら、素直にしてくれ」
「だって、ズィが」
「おれが?」
「冷たい」
「……忙しいんだ」
「そんなの、知ってる。でも」

 濤の唇が、瑞賢のはだけたシャツの隙間から、肌を舐めた。

「わかったよ……待ってろ。シャワー浴びてくる」
 
 立ち上がろうとする、瑞賢の躯を、絡めた両腕で押しとどめる。
 
「やだ」
「なにがだよ」
「香水の匂いがする」
「だからシャワー浴びてくるって……」
「やだ」
「なんなんだほんとに、トウ?」
「ズィの匂いも消えるから……いやだ」
 
 それは最後に残った匂いだ。
 もう昔とは違うけれど……だれかの香水の匂いまでするけれど……瑞賢の匂い。
 ぼくに残ったズィの匂い。
 濤は、むさるように口づけた。
 胸に、鎖骨に、首筋に。
 唇に……唇を。
 舌を、からめる。
 カラい、豆板醤が染みた。
 でもやめなかった。
 泣きながら。
 来週もまた春餅を作るんだろうと思った……この街の調味料で、知らない匂いになった祈りの料理を。
 それでも作って、食べるだろう。
 やがて、濤の涙は、声に変わる。
 何度も呼ぶ……まだ馴染めない街の、小さな部屋で……それでもなにものにも代えられないから追ってきた、彼の名を。 
 
「ズィ……ごめん……ズィハっ」
 
 そのあとに、愛の言葉は継げなくて、なにかを祈ることもできないままに。
 ただ、名前を呼んであえぐ。
 確かめるために。
 濤は自らの世界の名を呼び続けて……
 溺れゆく。
 いっときの甘い忘却。

cyunb

 Yoshinogi Takumi
 Shonen-ai Cooking Elegy
 Song 1
 『Chun Ping』

(吉秒匠
 BL料理哀歌
 1曲目
 『春餅/チュンピン』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 日本では「ボーイズラブ」という和製英語で表記されるこのジャンル、英語圏では逆に「Shonen-ai」と表記するようで。当サイトのアクセス解析を眺めていますと、なぜだかこのところ英語圏の検索エンジンからそっち方面の検索をかけてうちにヒットする方々が多い。国内ではあいかわらず料理ネタが無尽蔵に検索されている、みんなほかに興味はないのかよ。『伝言』でも話していたが、この状況はどうにも不本意だ。

 というわけで、アクセス解析の示した顧客のニーズに素直に応える実直な管理人、吉秒匠はこのようにシリーズ化して発信していくことにいたしました。まあそんな大げさなものではないが。日常的レシピ垂れ流し、日本のBL事情が知りたくてなにかを探している異国の子女になにも提供していないなど、役立たずにもほどがありますので、寄せ鍋的に調理してみる一曲目……さあ訳せイングリッシュな腐女子ども(もしくは日本語恋しい異国のジャポネゼル)。日本語を学んでついでに中国料理まで伝授する、なんと親切なサイトだ『とかげの月』。

Become a Yamato-Nadeshiko that
can do the Chinese cuisine by translating Japanese.

If you do so

Shonen-ai of the real (made in Japan)
...fresh Caress... is obtained.

 萌え狂え(笑)。
 というわけで春餅。
 それは文字が示すとおりの春の餅。

 ビールと老酒で収穫を祝うのです。
 アヒルの皮だけ食べるなんてバカげています。
 命はまるごといただけ。
 マクロビオティックや身土不二の思想といった、雑穀と魚を食えアクも取るな身近な命をまるごと食うのだ、的なものがどちらかといえば菜食主義者の宗教じみて論じられている昨今ですが、命をまるごと食うというのなら、やはり肉も卵も喰らうべき。ていうかマクロビを現代で実践するなら、身のまわりにあるものすなわち世界だと思うのです。小さな村で閉鎖的に暮らしていた昔ならば、それは川でとれた魚と畑の野菜で毎日の食事をまかなうのが自然かもしれません。でも、いま身近なものって。現代の身土不二とはマクドナルドでハンバーガーを食べることでは?
 しかしそんな私も、マクロビアンの語る「陰と陽」という考え方は好きです。
 確かに肉とか塩とか熱いものとか冷たいものとか、過剰なのはいけない。
 バランスは大事。
 崩れたら死ぬ。
 そういうことをたまに春餅作って、私もこの私の生きる街で思うのです。

 ニワトリ飼って、キュウリとネギ育てて、豆で味噌作って、唐辛子をがりがり食って、小麦をひいてねって焼いて、それでできるゴチソウ。本当に春餅は御馳走な感じがする。作るのは簡単なのに、それゆえ、単純な材料を人の手が料理に仕立てた、あたたかみがダイレクトに伝わってくる。自分で作ってさえ、そう思う。

 毎日、こういう食事でもいいなあ、と思う。
 スーパーマーケットなんていらないなあ、と思う。
 思いながらグラスを傾け、ぷはぁ、と息を吐いて。
 肝心なことに気がつく。
 ビールの作り方を私は知らない。
 ああだめだ、冷蔵庫のない田舎も、酒屋のない無人島も、私の暮らせる場所じゃない。

 そしてやはりこの街で生きるしかないのだと覚悟を再び決め。
 泣くのをやめて悦びに声をあげながら。
 百貨店で買ってきた甜麺醤と豆板醤をべったり塗って、どこかの国から冷凍されて私の元に届いたニワトリの肉をこんがり焼いて食らう。
 春餅は、そんな料理。
 ていうかほんとに蛇足だな私の小説や文章。
 欲しいのはレシピなんでしょ。
 ほら、もっていくがいいさ。
 作って食えばいいさ。

 嘘です愛してる。
 トウにその言葉は言わせられなかったけれど、好きという言葉さえ嘘くさくて書けなかったけれど、それは言ってしまうと闘えなくなるからだ……トウはあしたもあさっても、その街で闘いつづけなくちゃならないから。私もそうだから。せめて春を祝って祈る料理で、自分がなにを愛しているのか確かめてみてください。
 なぜ、ここにいるのか。
 もっと単純に考えられないのか。
 単純な料理のなかに、見いだして。
 溺れて、眠って、また醒めて。
 明日も闘いつづけるがいい。

 吉秒匠。
 春餅/チュンピン、レシピ。

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●材料
 強力粉400g
 薄力粉50g
 熱湯300cc 

●作り方

cyun

 小麦粉二種を合わせ(中力粉でも可)、菜箸でまぜながら熱湯を注ぎ入れます(写真①)。入れた端から小麦粉が固まりますが、このグルテン凝固が生地をまとめるので、かならず熱湯で。我慢すればさわれるくらいの温度になったところで、手でこねます。台に移し表面がなめらかになるまでこねまくります(10分くらいか。あなたが180キロをベンチプレスで上げられるなら3分でいい)。最後にひとまとめにしてラップで包んで冷蔵庫で30分以上寝かせます(写真②。そのあいだに具材を作りましょう。それらについては後述します)。
 
 ここが春餅の春餅たる醍醐味。寝かせ終えた生地を、棒状にのばし(慣れないうちは時間がかかって生地が乾くので、濡れ布巾をかぶせたボールに生地を入れ、少量ずつちぎって出しては使うと良いでしょう)、端から二切れずつ切り出しては指先で500円玉くらいの直径にのばし、そのひとつの片面にごま油を塗りつけます(写真③。刷毛で塗ってもいいし、小鉢に入れたごま油に直接チョンとつけてもいい)。そして重ね、綿棒でのばします。できるだけ薄く。薄く薄く。重ねた二枚の生地が密着して、もう離れられない一体感をかもしだしますが、それでも二枚のあいだにはごま油という永遠に越えられない壁があるのです(素敵っ)。のばしたところで熱したフライパンへ(鉄製のものがあればそっちのが焼き色はきれいに出ます。油を引く必要はなし)。片面に焼き色がついたらひっくり返します。その頃にはもう、のばした二枚の生地が、もう別れたいと内部から分離をはじめているはずです。両面焼けたら、熱いうちに望み通りに二枚にはがします(ヤケド注意)。焼いては剥がし、重ねていきますできあがり(写真④)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 熱いうちに食べるって料理ではないので、休日の夕食のために昼のうちから作っておくのがよいのでは。なにが楽しいといって、ごま油を利用した二枚ずつ焼くという手法。これにより、これ以上のばせないところまで綿棒でのばした生地が、さらにその厚みの半分に仕上がるわけです。油の偉大さを思いますね。オイル交換はこまめに行いましょう。

 具材はニラ玉とか野菜炒めとかが、ボリューム出て食事って感じになりますが。北京ダック風のおつまみを望むなら、だんぜん照り焼きチキンでしょう。

 照り焼きチキン、レシピ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●材料

 鶏もも肉一枚。
 しょうゆ 大さじ2
 みりん 大さじ1
 はちみつ 小さじ1

●作り方

 材料を合わせ、鶏もも肉を漬けます。10分くらい。ごま油を引いたフライパンで皮の面から焼きます。焦げ目がついたところで裏返し、肉に火が通ったかなというところで、漬け汁を投入します。あとはからめつつ汁気のなくなるまで両面焼きましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 キュウリとか、白髪ネギとか、甜麺醤と豆板醤とか。

醤

 添えて出すがよろし。照り焼きチキンも包みやすい大きさに切ってね。巻いて食う料理のなんとウキウキすることか。私もトウと同じく、北京ダックなんてバカげていると思う。これはお祝いの料理だよ。おなかいっぱい食べなくちゃ。でも数十枚の春餅を店で頼むとバカバカしい金額になるので、これは自分で作ってだれかと食べる料理。ソーセージとチーズとか、アボカドとゆで卵とか、タコスを意識した具材でもビールに最適。甘辛く炒めた挽肉なんかも中華極まって良い。

 というわけで一曲目。
 レシピはいっぱいストックがあるけれど、テンションが上がらないので次回はいつになるのか未定です。吉秒匠のやる気を出させてみようかというBL各誌編集者の皆様、連絡お待ちしております。イラストなども随時募集しております。まだまだBLに魅力は感じているのですよ。ちなみに次回予定としては「まだ熟れきっていなくて実がかたいアボカドに手を出してしまったのだけれどなんとかおいしく食べられる調理法はないか」を用意中。すでに二曲目にしてレシピのほうが小説化しやすいように操作されている感は否めません(笑)……ああそうですとも私のヒロインはいつだってショタですよ大人でも。いつか書けるようになってみたい「ゴージャス受」とか。どうでもいいですが「ゴージャス受」という言葉を思うとき、いつも「ライオネス飛鳥」という言葉を思い浮かべてしまうのですけれど、実物はともかく、その名のカタカナと漢字の絶妙なからみ具合が、インパクトあると思いません? そういえば大阪の食堂で「ゴーヤーチャンプルー炒め」というメニューがあって、あれも忘れられないな。店主の親切心なのか無知なのか、わからないところがまた、むしろ「ゴーヤー”炒”チャンプルー」とかにしたほうが近所の大阪プロレスの客とかよろこぶんじゃなかろうかと思ったりするのでした。ほんとどうでもいいが。

 愛こそすべてだ(嘘くさい)。
 ヘンなつっこみを入れるな愛こそがすべてだ!!

 愛してる。

 愛はともかく、春餅は本当においしいです。
 おためしあれ。


 
 どうやら『サイレント・アイズ』が自らお気に入りの作品となったようだ。

 『サイレント・アイズ』の話。

 ↑日本における前作を読んで書いたことが、ことごとく的外れになってしまったディーン・クーンツ最新刊の刊行状況。とりあえず、ハヤカワ文庫から出てきたということにまず驚き。ハヤカワ文庫でクーンツって。『ウィスパーズ』とかそうだった。ひとつのSF教科書、ディーン・R・クーンツ&エドワード・ブライアント&ロバート・R・マキャモンの短編集『ハードシェル』(ナイトビジョン4)の背表紙に、モダンホラー、と書かれていたころの話である。私はまだ小学校を卒業したばかりだった。それがいまになって「日本語版翻訳権独占早川書房」と印字されたクーンツを再び手にすることになろうとは。なにがすごいといって、なんだかんだで日本を含め世界中の出版社を網羅するいきおいで作品権利を売り買いされているクーンツの人生である。出してみたが売れないとか。売れないから出さないとか。出さないならよこせと言ってみても、相手は出さないが譲らないと退け、そんなこんなな事情で、またしてもこんなことになったのだろう。それとも作戦か?

2000『From the Corner of His Eye』
2001『One Door Away from Heaven』
2002『By the Light of the Moon』
2003『The Face』
2003『Odd Thomas』
2004『The Taking』
2004『Life Expectancy』
2005『Velocity』
2005『Forever Odd』
2006『The Husband』
2006『Brother Odd』
2007『The Good Guy』

 あと、AXNでドラマシリーズにしようとしたけれど失敗した「クーンツのフランケンシュタイン」の、テレビにできなかったから小説版が何冊か出ている。毎年数冊刊行のうえ、テレビだインタビューだと、巨匠のくせに働きすぎです。さすが職人、きっとこの人は、このペースのまま人生の最後まで書き続けるのだろう。売れても売れなくても書き続けるのだろうが、ここにきてまた人気が上がってきたりしているところが巨匠の巨匠たるゆえんである。愛と正義の人。独特の頑固な説教臭さ。その普遍性には、いつの時代も需要がある。

FRANKENSTEIN

 で、日本。
 刊行ペースが落ちている、加速して追いつくんだと前作のときに書きましたが、ワープしました。あっちでベストセラーになった『ベロシティ』も、『オッド・トーマス』のシリーズも、むろん『フランケンシュタイン』も、すっ飛ばして昨年の『ハズバンド』がやってきた。想像することは難しくない。

 しつこく言い続けるが、某超訳で有名な(そういえば最近、広告も見ないな。落ち目か?)出版社が三部作の一冊目を出して打ち止めにした事件(解決して欲しい、ほんとに。モラルの問題として、読者を舐めていると思う)から、刊行が止まっていたクーンツ。各出版社にとっては手を出しにくい。あの出版社はあの三部作の出版権を法外な価格で買ったはず。それなのに一冊で刊行中止ってどれだけ売れないんだクーンツ。それともそれは超訳のせいか? しかしまあ君子危うきに近寄らず。おそるおそる出してみた『サイレント・アイズ』はけっこう市場に好感触だった。だったら買ってみるかクーンツ。でも、『オッド・トーマス』はシリーズなのでまず買えない。『フランケンシュタイン』は映像のほうとの兼ね合いで権利関係は複雑だ。『ベロシティ』は、記録破りのベストセラー作である、高い。

 というわけで『ハズバンド』。
 あいだが何年分か抜けたけど。
 D級SFからポルノまで書いてきたクーンツの、真骨頂といえば真骨頂。完全無欠の「読み捨てられるための」ペーパーバック。作家の本分は、読者の退屈を数時間埋めること。職人の信念が描き出す可もなく不可もない。でもおもしろい。
 
 『ウォッチャーズ』でクーンツ好きになった人は多いが、そういう人の声として最近よく「クーンツは変わった」というのを聞く。

 watchers

 なにが変わったかといえば、それはより単純化されてきたということなのだと私は思う。あのころ、まだクーンツの描く悪役には、哀れみをおぼえることができた。クーンツ作品にあまりピンとこない反応が多い日本で『ウォッチャーズ』が例外的にウケたのも、悪役側のキャラ設定が「狩りをたのしむ追跡者」と「たのしむ心を持たない異形」という二段構えだったことが大きい。結局のところ、どう猛な異形の人工生命体を作り出したのも人間であり、他人を傷つけることを悦んでいるのも人間である、というクーンツの青臭い美学が、まぶしかったからに他ならない。

 『ハズバンド』でも、あいかわらずの勧善懲悪で、ハッピーエンドで、主人公は善人で、初めて持った銃にがくがくぶるぶる震えながら愛するモノ、守るべきモノのために闘う。それらはなにも変わっていないのだが、いつからだろう……それがおそらくは「変わった」部分だと確信できることに……いま、この現代に描くクーンツの悪人は、いつのまにやら「絶対悪」となっている。プロレス的なヒールとベビーフェイスの対立のなかで、人間のなかには善も悪もあるが強い心で善なる者であり続けるのだ、というあのころのメッセージとは、物語の構図こそ同じでありながら、決定的な差違がある。

 『ハズバンド』の敵キャラは、完璧な異常者。
 それどころか、主人公の両親さえ変人である。
 変人とは、ちょっと変わった人、という意味ではない。まったく理解できない変な人なのだ。敵は矯正不能な人格破綻を抱えていたり、狂信者だったり。『ウォッチャーズ』のころのクーンツのリングには、葛藤があった。悪だからといって殺してもいいのか、それでも相手は人間なのに。しかしいまのクーンツ・リングには、そんなお涙ちょうだいの甘っちょろいお約束などない。野田秀樹が『ロープ』で描いた、がんばれば無効にできるかもしれない決まり事がそこにはない。

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 なぜ、あくまでもロープをつかってはねかえる?
 まるで催眠術だ!!
 いったー!! 催眠術。
 もどってくるー!! どーん。
 いったー!! 催眠術。
 もどってくるー!! どーん。
 そこでとまれないのか? プロレスラー。
 とまれるはずだ。人間ならば。
 めざめよ催眠から!!
 レスラーならば。
 しかもその名にプロがつくなら。
 きみらが職業戦士であるならば!!


 野田秀樹 『ロープ』

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 宮沢りえが絶叫する。
 それでも藤原竜也はロープにとばされてはもどってきてどーんとやられる条件反射。

 かつてのクーンツもそうだった。
 職業戦士としての凝り固まりすぎているほどのストイックさから、お約束のうえにお約束を紡ぎあげる手法で名を売ってきた。愛と正義の人、と彼は呼ばれるが、彼自身は「愛や正義はだれにでも理解できるから」売れるので使う、と公言してはばからない。プロレスラーが、お約束を無視してロープに投げられても「それが?」と立ち止まってしまっては興業が成立しない。かつてはそうだった。

howto

 しかしいま、リアルな戦闘が身近にある、この世界で。
 ロープから返ってこないプロレスこそが支持を得はじめていたりする。
 お約束に「それが?」と醒めてしまう観客のほうが増えたから。
 プロレスラーは飛ぶ。
 プロレスラーは殴る。
 だれでもわかるものは売れる。
 いま、多くの人は、痛いということがどういうことか知っている。
 観客を沸かすために、自らの選手生命を短くする危険を冒して、三メートルの高さから頭を下にして飛び降りるプロレスラーに喝采する……それで本当に背骨を折ったレスラーがいて、膝がまっすぐ伸びなくなったレスラーがいて、それが本当に危険なことだと知っているから。
 喝采する。
 
 ロープからはねかえってきてやられる、という芸そのものには、いまでも玄人をうならせる上手下手がある。それは職人芸である。奥深いが、ライトユーザーに喝采されるものでは、もう、ない。愛と正義も、お約束の状況では、もう、輝かないのだとクーンツは考えているのだろう。

 世界のほうが歪んでいる。
 絶対悪は存在し、理由もなく家の中をバイクで駆け回って人をひき殺そうとする殺人者は突然に襲ってくる。金なんてなくても妻は誘拐されて身代金を要求される。そもそも家族もみんな異常者だ。自分以外の全員が危険である可能性が高い。

 でも、主人公は、愛と正義のために飛ぶ。
 命をかけて飛ぶ。
 喝采をください。

 世界はもう、そうなっているのだ。
 日本で、クーンツが「変わった」だからあんまり……という意見がよく聞かれるのは、まだこの国に、いったーはねかえってきたーどーん、で拍手する純朴さが残っているからだろう。近年の、記憶がなくなったり目が見えなかったり不治の病だったりする恋愛物語の繁殖は、世界が過剰なエンタメに狂ったような喝采を与えてもっともっとと騒いでいる方向性への、いや昔ながらのメロドラマこそ最強でしょう、という純朴なるアジアの抵抗のように私には見える。そういえば越中詩郎ブーム。過激でスピーディーな現代プロレスの進化のなかで「昭和プロレス」という呼ばれかたが市民権を得たのも、同じ理由によるのかもしれない。演歌はなくならない。年寄りがみんな死んで、もういったいだれが聞いているんだという時代になっても、演歌歌手は細々と生き続けるだろう。

 もはや古典と呼ばれる名作群をもち、還暦を過ぎ、まだベストセラーリストに名を出す、ディーン・クーンツ。その彼がまだ「変わった」と評価されることこそが驚きだ。小説家は、なによりもまず良き読者でなければならない。そう言ったクーンツは、過去の自分の作品を大幅に書き直す作業を新作執筆と並行して行った。「次の時代に残すためだ」と言う。内容は同じでも、魅せかたが違う。次の時代にも読まれるためには、次の時代の潮流に合わせる必要がある。

 そうして、巨匠は己の過去の名作とされるものを書き直す。
 そうして、共感を拒絶する現代型な異常な世界を描き出す。
 『サイレント・アイズ』で試したことを成功だと感じ、お気に入りとして続けることを選んだらしく、近年のクーンツ作品では、善人までもが一見すると異常に感じられるほどの強烈な個性を持っていることが多い。それはこの、すべての人々が似たもののない個性的なキャラクターであろうとする現代と、そしてこの先とを、にらんでの計算だとしか思えない。気に入ったのは、その計算式。クーンツ自身は、やはりいつでも愛と正義の人なのだ。

 クーンツは「変わった」。
 それは世界が変わったからだ。

 逆説的に、クーンツ作品のなかに世界が見える。
 それでも、愛と正義は、美しいものだと。
 それだけは、普遍のものだと。
 納得できるのである。

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