いまから書くのは映画『アキハバラ@DEEP』を観た感想です。
最初に言っておくけれど、私は石田衣良の原作『アキハバラ@DEEP』が好き。原作を読んでから映画を観たということは、大きな声で言っておく必要があるだろう。
時期的にいまさらという感じで、私はほとんど公開と同時に観たのだが、なぜこんなもうどこの映画館でもやっていない頃になって書くのかといえば、結果的に褒めているのだけれど、まあじっくりDVDで観る感じがこの作品にはよいのではないかなあ、とも思うから。むしろ映画よりも勧めたいものがある。
結論を先に書きます。
おもしろかった。
2時間あっという間でした。
冒頭から鼻の奥が痛くなった。
でも、魅入りながらずっと思っていた。
「原作読んでいること前提に作ってある、コレ」
『アキハバラ@DEEP』は、アキハバラ@DEEPという会社を興した6人のオタクが、クルークという人工知能搭載型検索エンジンを世に送り出し、世界を変えてしまうというお話です。大雑把にいうとそういう話で、それこそが実はこの物語の一番大切な部分だと私は思っているのだけれど──テレビドラマがけっこう良くできていた。ただし、ドラマでは検索エンジンは出てくるがクルークという名前では出てこない。それどころか最終回で石田衣良本人が出演し「ボクの小説をメチャクチャにされた」と言うってくらいに、別物です。太陽に当たれないアルビノの少年イズムが少女になっていたり、クルークの名付け親のダルマが(クルーク出てこないから名付け親も必要ないというわけだが)バナナマン日村の演じる濃すぎるおバカキャラになっていたり。中心人物の二人がジャニーズJrということで、シリアスよりもドタバタ活劇にしたほうがDVD買う人も気楽に観られて満足だろうということもあるんでしょうが、もはや原型をとどめないところまで変形しています。でも、だからこそ。別物だから、それはそれで良かった。ドラマとしておもしろければ、それでいいって納得していなけりゃ作者本人が出演したりしないでしょうしね。

『アキハバラ@DEEP』は漫画化もされていますが、そちらでもデジキャピの運営するオンラインゲームでみんなが出逢った設定とか、新キャラも追加でやっぱりイズムは少女、肝心のページがどもらないキャラになっているなどいろいろあるけれど、これらもまあ、長編の漫画として変形させるための改変で(必ずしも成功しているとは思わないが)、それらに目くじら立てて原作と違う、って食ってかかるのもオトナゲないというものです。

そして、映画化。
石田衣良作品、初の映画化。
すでに前例が「原作をいじり倒す」という方向性でそれぞれに確立している。
そのうえであえて、やってきました。
原作にかなり忠実。
──「かなり」──
いろんなトコ飛ばしていますが、ページはどもるし、イズムは変な格好なりに原作通りの少年だし、中込はスク水ではないけれどちゃんとブルマの少女を水槽で飼っている。原作と違ってページがハッカーのスキルを持っていたりするけれど、そんなところも含めて、映画は映画でひとつの方向性をきっちり打ち出していた。
アクション映画だ。
私が『男たちの挽歌2』を最上の映画だと思うのは、キャラを描き、描き、苦しませ、追いつめ、ラストで怒濤のアクションシーンを展開する、その単純にして完璧な物語構成の質の高さによる──そういう意味で映画『アキハバラ@DEEP』は実に私好みに原作のエッセンスを抽出したといえる。それどころか、スク水少女がブルマ少女になっているのも、ページがハッカーなのも、ラストシーンのカタルシスを高めるための設定変更なのである。完全にバレになるので書けないが、物語の速度を上げるために原作にはない中込のキャラ設定も付け加えてあり、それは正直いって安易に逃げた感があるが、きれいすぎるほどにきれいにまとめようと心がけた制作者の意図が伝わってきて悪い気はしない。もっとスピードを、もっとシャープに、ラストは皆が吠えてこそ──アクション映画だという間違いのない信念によって作られている。

アクションの出来は良い。生きた完璧造形フィギュアでありファイターであるアキラを演じるにおいて、ドラマ版の小阪由佳(2004ミスマガジン)よりも山田優(パリコレモデル)のほうがふさわしいことについて異論を挟むヤツぁいないだろう。映画のなかでも山田優のビジュアルはふんだんに生かされており、原作者石田衣良作詞の楽曲『REAL YOU』も、沖縄アクターズスクール出身である山田のソロデビュー曲として使いまくられている。テレビでも何度かみかけたが、あまりにまっすぐで素直な石田衣良作詞を、踊りまくる山田が歌ってよかったと本当に思った。あれが小阪だった日には、マイクを握りしめてとつとつと歌う昭和アイドル歌手のようになってしまっていたはず。


もっとも、いくら山田優が近年乙女のカリスマ矢沢あい原作
『パラキス』のユカリで声優デビューして「いいんじゃない?」とヲタク少女たちからも認められる存在になったとはいえ、ドラマ版のほうに彼女を起用していたら、別のスジの少女たちが黙ってはいなかったに違いない(ドラマ版ページを演じるジャニーズJrサマは、身長169センチの山田よりも公式プロフィール数値においてさえ5センチも低い。少女たちの王子様と同じ画面に入れるのはDVDの売上げに影響する、というくらいのことはジャニーさんでなくてもわかる)。私個人としては、パリコレモデルよりもミスマガジンの愛くるしさのほうが好きだが、ファイターを演じるとあっては……小阪由佳が懐かしのミッキー・ローク・パンチに似た手首を曲げた独特の拳でサンドバッグを叩いている姿は、いち格闘ファンとして見るに耐えなかった。その点、山田優はパンチもキックも画になっていた。おそらく相当な練習を積んだのだろうし、記者会見などの発言をかんがみる限り、山田本人にも「アクション映画の主演女優」という自覚が強くあったようだ。ファッションモデルたちに痩せすぎ禁止令を出した某国の基準に照らしてみても、きちんと筋肉の隆起が見て取れる山田優のミリタリー・タンクトップ姿は「モニタのなかのお前でならいますぐオナニーできるぜ」という女嫌いなボックスのセリフ通り、性別や嗜好を越えて「きれいだねえ」という感嘆の念がわく。ゲーム『トゥームレイダー』の闘う考古学者ララ・クロフトを見た目で凌駕して魅せたアンジョリーナ・ジョリー同様、山田優も石田衣良原作のキャラを凌駕して魅せてくれる──「生きたフィギュアか、なるほど」──原作では比喩として読んでいた設定が、目の前のリアルになる。それだけで二時間のアクション映画としては、充分すぎるほどメインのオカズになりうるのである(余談だが『トゥーム』新作のララは、逆にアンジョリーナの影響でさらに美人化しているように思える。リアルとヴァーチャルが競い合って美を高めてゆく……時代と土地によって美は変わるものという通説があるが、世界中が電脳空間でつながったこの地上にならば、完全無欠の美の女神もいつか生まれるかもしれない)。


プロレスファンとしては、この映画のなかで神取忍と諏訪魔が山田優にボコられる役として出てくるというところに大注目でしょうが、おそらくはDVDになってから「観てみるかな」というそういう層の方々に報告するならば、神取忍ファンはそれを目当てに観てOK。地下格闘場でマーシャル山田の素早い動きに翻弄されつつ顔面殴られながら関節取りに行く女柔術家を熱演しております。もちろん負けるけど。前半の山場といっていいビジュアルのインパクトですよ神取VS山田の頭の大きさの違いと来たら。一方、ジャイアント馬場から武藤敬司へと継承された全日本プロレスの看板を、次代で継ぐだろう筆頭馬としてあげられることも最近では多い諏訪魔。毎週欠かさず全日本プロレス中継を観ている私でさえ、床にはいつくばってから「あ、いまの諏訪魔?」と気づいたほどでした(笑)。だって原作に忠実な中込SS軍団のナチ装束姿で、迷彩ベレー帽かぶっているんだもの。紅い髪がトレードマークの諏訪魔なのに。いまでこそヴードゥーマーダーズの一員として悪の権化「諏訪魔」ですが、それはあれ武藤もムタの顔があってこそのプロレスリングマスターだということで。将来的に全日本のエースとしてベビーフェイスに戻って名前が売れたときのためでしょうか、クレジットは「諏訪間幸平」でした。でもはっきり言ってダウンタウンDXで「過去の恥ずかしい映像」として使われる類のザコキャラっぷりでしたね。スタートレックで顔を緑色に塗られていたビッグショーくらいに哀れだった。
と書いてみて、昨夜観たスタートレックの話を想い出す。十年以上もやっているテレビドラマで、私が胸を張って「全シリーズ観ている」と断言できるのは
仮面ライダーとスタートレックだけなのですが(どちらも初期のは大人になってから観たのだけれど。ガンダムは思春期の頃に離れてしまったが、いまさら追いかける気にはならない)、いま繰り広げられているのは
『スタートレック・エンタープライズ』というシリーズで、初代スタートレックの時代よりもさらに昔というちょっと奇をてらった(制作者は原点回帰と言っているが)設定。で、昨日のお話しは、エンタープライズ号の乗組員である人間の男性と、異星人であるバルカン人のDNAサンプルが盗み出され、まだ肉体関係のない二人のあいだに生まれたものとして赤ん坊が「造られ」、その赤ん坊を「人類という種の危機」の象徴としてテロリストが人民扇動に利用する、というものでした。
クローンの悲哀を通じて人間の尊厳を描いた傑作
映画『アイランド』にもそういうシーンが象徴的に出てきたけれど、人は自分の遺伝子を受け継いでさえいれば、だれかが「造った」赤ん坊さえ、目を潤ませて「私の赤ちゃん」と抱きしめる──そのドラマを観ていて不思議なことに、観ているこちらも、違和感なく感情移入できてしまう。向井亜紀さんが「プロレスラー高田延彦の遺伝子を残さなきゃと思った」と語っていたのに、頷いて共感したのはプロレスファンだけじゃない。スタートレックが描くように、処女受胎はもう夢ではない。どこまでが人間なのか、という論議には意味がない。命とはなにかという論議であるべきで、もちろんバルカン人の子供が人類を滅ぼす悪なんかでないことは、今年で40周年を迎えたスタートレックのシリーズが描ききっている。セックスすると生傷が絶えない好戦的クリンゴン族でさえ、愛してみれば可愛いものなのだ。近年のスタートレックには、機械生命体も出てくる。
アクションの出来は良い。とさっき書いた理由はそこにある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ネットの海を泳ぎまわるAIを人になぞらえるのに抵抗を感じる読者がまだいるかもしれない。しかし、二〇一七年のサイゴン会議における宣言を想起してもらいたい。二十一世紀のゲティスバーグ演説ともいわれる、あの有名なAI人権宣言だ。
「仮想であれ人工であれ、一貫性のある統合された自己を保持し、独自の記憶と感情、そして自由意志をもつ存在を、わたしたちは『人格(パーソナリティ)』という。人格権は人権と同様、無条件でこれを保護する」
石田衣良 『アキハバラ@DEEP』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ゲティスバーグ演説とは「人民の、人民による、人民のための政治」というやつです。そして21世紀はいまだが、2017年はまだ来ていない。『アキハバラ@DEEP』中で「現在」のこととして「人とAIの婚姻関係を認めるかどうかという論争」が行われているのが、AI人権宣言の年の数年後などということがあるはずはないので、少なくとも宣言から十年か二十年よりもあとのことだろう。この計算から原作『アキハバラ@DEEP』の「現在」とはおよそ西暦2040〜2050年頃のことだと推測できる。ちなみにスタートレック予測では2053年に第三次世界大戦が起こる予定なので、核にまみれた地上で人とAIの婚姻を認めるかどうか論争はうやむやになってしまうのかもしれない。
そう、ドラマではそれは別物なのでまったく気にならなかった。
だが、原作に忠実な映画は、大事な部分をそぎ落としている、と感じる。
原作の語り手はクルーク=AIであり、いまは彼らと人が婚姻を認められるのかどうかという論争にまで花が咲く、読者にとっての未来なのだ。『アキハバラ@DEEP』という名の会社を興した彼らの物語は21世紀初頭のお話しなので、語り部としてのクルークを削いだ映画の世界は、原作が近未来ものだったのに対して、まるきりの現代ものであるということになる。そしてその時代設定ゆえに、映画では、クルークはアキハバラ@DEEPのメンバーのことを、こう呼ばない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の父たちと母は、おおいなる母をなくして厳粛な表情で新年を迎えた。だがその場にいた六人の誰ひとりとして、洗い清められたような爽やかな表情を浮かべていない者はなかった。アキハバラ@DEEP。
石田衣良 『アキハバラ@DEEP』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
中込威が「金など持ってもこれくらいにしか使えない」という高貴な趣味──胸に「竹下」とゼッケンを縫いつけたスク水少女を水槽で飼う──についても、原作の六人は寛容だ。寛容というよりも、昔好きだったコに似ていたからもっと見ていたかった、というタイコの発言などは、中込の悪趣味に眩暈と嘔吐をもよおす映画のボックスの態度とは真逆だとさえいえる。石田衣良の原作は、中込とアキハバラ@DEEPメンバーが実に近い位置にいる人間だということを描いている。それが、ドラマや映画では、あきらかに中込は悪趣味な変人となる。特に映画では、終始一貫して中込は「悪」である(それにしても
『下北サンデーズ』に続いて衣良作品の大役に起用の馬面。石田衣良作品映像化の代名詞となるのか。なにがそんなに気に入られてんだか。いや良い役者さんですが。同じ衣良ファン層がほぼ同時期に観る二作品にどっちにも大きな役で出ているというのは、感情移入の妨げになります「あ、またこの馬面だ」という思いが先に立ってしまって)。
理由は明解。
アクション映画だから。
『男たちの挽歌2』で男たちはラストで数え切れないほどの人を撃っては斬り撃っては斬る。その非人間的行動に観客が共感して昂奮するのは、そこまでの物語で「いやもうそういうことされたらキレるのが人だよ」という強い気持ちにさせられているからである。愛するものを喪い、人間をやめかけるなかで、仲間に支えられ、人間に戻る。そして闘う。自らの身を捨ててでも、守るべき想いのため、守れなかっただれかのため、自らの尊厳のため。
そこにカタルシスの生まれるのがアクション映画の美学であろう。
だからこそ、映画『アキハバラ@DEEP』は、中込を気持ちの悪い男にした。
私は、先に原作を読んでいたから、本当のところはわからない。
けれど、映画の冒頭で亡くなってしまうユイさんのエピソードに、すでにコブシを握っていたのは、私の頭のなかで、クルークが「父と母のおおいなる母」とユイさんを呼んでいたからだった。死んでしまったけれど、彼女の両親さえ彼女の尊厳を踏みにじって蔑んだ態度だけれど、けれど、彼女の存在なくして、クルークは生まれなかった。そう、知っていたから。クルークの最初のバージョンを生み出すために、アキハバラ@DEEPのメンバーは自らの生活を投げ出す。その産みの苦しみ、ぼろぼろになっていくなかで造り出すその描写こそが、原作ではカナメだったが、映画ではもちろん早回しの演出で「とても長い時間彼らはがんばりましたよ」と描かれた。ただでさえ決めゼリフのたびにどもるページのせいで二時間のくくりがある映画は駆け足なのだ。もちろん生きたフィギュア山田優は、原作のように風呂にも入らず目の下にクマを作ったりはしない。きれいなままがんばる。
私は、先に原作を読んでいたから、本当のところはわからないのだけれど、原作を読まずにあの映画を観て、
「そうだみんな、自分の命をかけてでもクルークを自由にしてあげなくちゃっ!」
と昂奮できるものだろうか。
アクションの出来は良い。
ただ、アクション映画としては。
脚本段階で、削った部分の大事なことはわかっていたのだろう。
だからこそ中込は、気持ちの悪い変態の悪人になっていた。
「あの馬面やっつけちゃえっ!」
山田優カッコイイし、諏訪魔含め、敵役も豪華で、萩原聖人もゲイだし、各種マニアのご要望に答えるそつない出来ではあるのですが、原作読まずに観たら、たぶんこの質問に、こう答えてしまう。
「彼らは、なんのために闘ったの?」
「水槽のブルマ少女を馬面から救い出すため」
──それはそれでおもしろいんだけどさ。
原作に忠実に作るなら、大きく道をそれている。
『アキハバラ@DEEP』は、21世紀の半ばで人とならぶ知的存在として認知される──その新しい種族の最初のひとりを産み出した、21世紀のアダムとイブたちの神話だ。彼らは結果的に少女を助けたのだが、真の目的はひとつのプログラムを電脳世界の海へと解き放つことだった。原作では、中込と彼らはどちらも変人で、でもただひとつ違っていたのは、中込はクルークを金を稼ぐ道具として扱い、アキハバラ@DEEPの父と母たちは、当然クルークを我が子として扱ったこと。自分たちが造ったものだけれど、人が生んだ人ではないし、まして人間でさえないのだけれど、クルークにものを考え、なにかを生み出す力があるのなら、クルークは親たちからも自由であるべきだと、そう彼らが考えたこと。
未来で語るクルークの存在がない映画の物語だけでは、彼らは父と母ではなく、自分たちの造った新しい検索ソフトを盗まれたから取り返しに行って、自分の会社を守ろうとする罪もない諏訪魔たちをボコボコにする危険な変人である。まんまテロ行為である。原作ではそのテロ行為を、クルークが語るからこそ聖戦となる。かろうじて中込がわかりやすい悪なので物語的には破綻していないが、原作の設定抜きで、自由になったクルークに感情移入して泣くことはできそうにない。脳内補完で「クルーくぅ、よかったなあ」と呻いていた私の頭の中にあったのは、半分が目の前の映画で、半分が原作を読んだ記憶だった。
というわけで。
激しく原作を読んでから観ることを勧めます。
いや、観たあとで読んでも良い。マンガとドラマと映画になるほど素敵なそのお話。未来のクルークくんによって語られているというのは、現代ものが近未来ものに変わるわけですから、物語の印象としてからものすごく壮大に感じられるようになるでしょう。せっかくだから、壮大な物語を記憶するのが良い。
最後にもうひとつ。
個人的なキャラ趣味の問題として、映画のキャッチコピーが気に入りません。
「アキハバラ最強の5人」
映像化作品だけに触れている人は、映画では削除されているダルマが、なぜそのニックネームなのか知っていますか? ドラマでバナナマン日村が演じていたから、ダルマ体型から来ているとか? ほんともうねえ、このキャラを愛する私としては、悔しくてならない。アキハバラ@DEEPの最年長。そしてクルークの名付け親。名付け親という偉大な地位のキャラなのに、映画で省かれたのは半沢教授も居なかったことからして、やはり「若者VS大人」の図式でアクション映画っぷりに拍車をかけたかったからなのでしょう。冷静な大人キャラがいては破綻してしまうテロ襲撃ぶりでしたから、その選択は潔い良い選択です。でもやっぱり──身長190センチ、濃紺のスーツを細身の躯に着け、ネクタイの胸にイスラム教徒のように長いあごひげを垂らしている、法律事務所をある朝突然辞めて引きこもり、十年壁に向かって壁だけを見つめ、またある朝、ユイさんの声に従って景色を見に家を出てみたら、今度は家に戻ることが怖くなって放浪する「出っぱなし」になってしまった──壁を十年見つめた修行がダルマの名の由来。でも、ダルマはなんの悟りもひらけていなくて、だけれどね、十年ぶりに外の世界を見たときに、気づいたことはある。
みんな気づいていないようですが、
この世界は広くて素晴らしいところです。
──このキャラを省くなんてっ!!
(それ言ったら日村に演らせることもだけれど)
もったいない。
彼に出逢うためにも、未読ならばぜひどうぞ。
原作読みつつDVD発売待つのがよろしいかと。
ただし、こいつは石田衣良好きのあいだでも賛否両論の作。
私も、アクション描写には物足りなさをおぼえた。
でもさ、やはりつまるところ。
クルークを、愛おしく思えるかどうかでぜんぶ決まるんだと思う。
私はこの物語を好きになれる人が好きです。

ほんとの最後に決めゼリフ。
「どんなこたえを得るにしても、
生きることは捜し求めることで、
よい人生とはよい検索だ」
どこかの星の検索エンジンからいらした皆さん。
お逢いできて光栄です。
さがしだしてくれてありがとう。
愛してる。
それでは引き続き、よい人生を。
昨日、クリスマスの売場を作り始めました。私はもともと抽象絵画を専門としていたくらいで、小説のプロットも書いている途中で勢いにまかせて変更したりするし、基本的に棚割とか事前に用意して売場を作るほうではない。ごちゃっと商品を持ってきて、空っぽの棚を睨んで「うりゃ」と作るので、だれかに手伝いましょうかとか言われても、むしろ丁重に断ってひとりでやらせてコレが楽しいんだよというくらいで。まあ日がな一日、ああでもないこうでもないと遊んでいたのですが。電飾に電気を通し、ツリーをキラキラ光らせだしたころから、通りがかるお客さんが意味もなく「うわあ」もうそんな季節なのねえ、と表情を明るくして足を止めだす。そんな季節といっても売場作っている私は汗だくで半袖姿なので、むしろこの地球の温暖化のほうにこそ驚けという感じですが(いまも自宅の私の隣では扇風機が稼働している。11月です。あと三年もすれば冬がなくなるに違いない)。まあみんな嬉しそうな顔をする。なにが嬉しいんだかわからないが、クリスマスに良い想い出でもあるんでしょうか。私はどっちかというとクリスマスも正月も面倒くさいタチで。つつがない毎日がつつがなく回っているのに、そこに余計な行事を入れないで欲しいと思ったり。特別なデートの企画して失敗して破局するカップルとか、正月にどっちの実家に戻るべきかでもめて気まずくなる夫婦とか、いっぱいいると思うのです。静かに毎日を送っていれば幸せだったのに。
で、今日は家にいて、原稿の合間に、売場で流すクリスマスCDを編集しているのですが。クリスマスといえばみんなが笑顔なのに、なんでかまあクリスマスソングってせつない曲が多いのね。とくに邦楽は。食いつきがいいので、できればJ−POP中心に選びたいのですが、そういえば去年も目新しい明るく楽しい邦楽がなくて、定番の英語クリスマスソングをベースにしたなあと思い出す。そうそう、徒然にも書きましたね
EPOも(今年も出ませんでしたニューアルバム。確実に作業は進行しているようですが、レーベル立ち上げて何年も作り込み。作家としてのものすごさは感じるものの……鼻歌でいいからあなたの歌声をもっと頻繁に聴きたいですよ、というのは職人に対して失礼に当たるものでしょうか)。なんでだか天使が迷っているだの、いつかのメリークリスマスだの、きっと君はこないだの、暗いよ。それでもケツメイシの山下達郎カバーとか無理矢理に明るい感じのものを交えて作った去年だったのですが、そういうイロモノは人の記憶に残っているので今年は使いたくない。あれこれ入れたり抜いたりしながらファイル操作していて、結局、ベースはマライアのアルバムで、とかに落ち着く。こんなにみんな笑顔なのに、どうしてクリスマスに哀しい曲が多いのか。市場原理として出しても売れないんでしょうね。なんでだか。
精神医学療法的に、哀しみには哀しみで対抗するのが良いらしく。失恋して落ち込んでいるからコメディーじゃなくてメロドラマを観る、というのが心の癒しのためには正しいのだそうです。ということはあれだ。私の背中越しにできあがりつつあるクリスマス商品群を見て「うわあ」と笑顔になった彼女のあとをそっとついて行ってみれば、数十秒後には笑顔の反動でため息をついているのかもしれないと夢想する。祭りのあとに意味もなく泣けるように。笑顔の理由は過去からの学習で、脳が記憶するすばらしくハッピーなとある瞬間のことを想いだしたからこその笑顔なのであって──そのことは同時に、最高の瞬間はすでに過去のものであることを確認しているのに等しい。
しかし、だれもがクリスマスのデートを失敗して破局した経験を持つわけではないだろうし、ひとりで過ごしたクリスマスの記憶なんてほとんどすべての人が持っているだろうし、人は自分の顔に浮かんだ笑みで数十秒後に過去の幸せを想ってどんよりするのだとしても、こんなにも哀しく切ないクリスマスソングに需要が多いのはどうも釈然としない。そこで思う。メロドラマ療法においては、メロドラマの内容というのはあまり関係ないのだということを。要は切なさに切なさ、ちょちょ切れる涙にちょちょ切れる涙をぶつけられればそれで用をなすのである。ということは。
需要があるのは、破局の歌ではないのかもしれない。
ただ人はなんとなく、楽しいクリスマスの雰囲気のなかで、胸にもやっと浮かんだ切なさをどうにかしたいなと思うだけなのかもしれない。いつかのメリークリスマスを聴いて、いつかのメリークリスマスを想い出し、いまはそばにいないいつかの恋人とのことを想い出すのではなく。もっと普遍的なもの。惚れたの腫れたの、やったのやられたの、くっついただの別れただのいうような、具体的な想い出にもとづく追憶のうえでの切なさではなく、もっと抽象的な。だれもが持つ切なさがこそ、哀しく切ないクリスマスソングを求めているのかもと考えたりするのでした。
だとすると。洋楽に脳天気なハッピ−クリスマスソングが山とあるのに、この国ではクリスマスソング=追憶のバラードという図式になってしまいがちなことからも、容易に仮説が成り立ちます。根元的にクリスマスが聖誕祭としてのハッピー行事であるキリスト教圏と違い、この島でのハッピークリスマスとは家族行事のこと。思春期に入れば、クリスマスは恋人たちの行事になってしまうここでは、いっさいのしがらみなく笑顔だけがあるクリスマスの風景は、子供時代にしかない。現実の姿をぼんやりとしかとらえられず、サンタがこの世にはいないと確信してもなお、クリスマスのプレゼントとケーキには満面の笑顔でいられた。意味なんて無い。クリスマスだから=ハッピーの風景。
失ってしまった二度と手には入らない完全無欠のハッピーとは、遠い子供時代の吹き消したロウソクではないですか? 失恋クリスマスソングを聴いて癒されるのは、完全無欠には決してなりえない現実と打算だらけの今年の私のクリスマスのせいではないですか?
──かもな。
そう思って、今年はバラード調のモノぜんぶなし。脳天気にハッピーマライアに歌い上げさせておきます。
追憶のなかでツリーを買って帰るがいいさ。
買って帰って「なんでこんなもの買ってしまったのだろう」と呟いて切なくなるのは、自分の家でやればいい。
しかし、いまもタンクトップ姿で冷たいミネラルウォーター飲みながらコレ書いているんですが。本当にホワイトクリスマスなんてこの国では夢のことになってしまった。追憶するのは、四季のあったこの国──そうだなあ、もしかするといま書いたことぜんぶが見当違いで、単に世界におけるキリスト教圏のほとんどで、冬といえば路上で凍死者が出る冬のことを指すのであって、だからこそ、寒い時期のお祭りとしては空騒ぎでもハッピーにアップテンポな曲が求められるってだけかもしれない。この島は恵まれているのだよ。半袖で冬支度をしながら、死とは無縁のぬるい寒さに切なくなったりする。結局のところ、切ないクリスマスソングが売れるのも、年の瀬の寂しささえ「わびさび」だと楽しんでいるということなのかもしれません。
クリスマスの準備をしながら、そんなことを思ったんですよね(稲川淳二調)。気のせいでしょうか。


次回は、などと言いながらさっぱり更新できていませんが、それもこれもこんなものを作っているせい。今月書き上げた原稿は20×20の原稿用紙文字数でプリントアウトという縛りのあるせいで、非常に手間。推敲するのに一度プリントアウトはじめると(私の愛用しているのは高速モノクロレーザープリンタ(
こいつの旧機種を愛し中。このシリーズ。とても出来が良いプリンタです)だというのに、それでも)、プリントアウトのあいだに週刊少年ジャンプが半分以上読めてしまいます。ちなみに原稿用紙換算枚数で1000枚。文房具も扱う店の店員なので、閉店間際のレジで毎日のように500枚入りのPPC用紙を何冊も買って帰ります。非常に不経済です。レジっこたちのあいだでも「吉秒さんはなにをあんなに毎日印刷しているのか、もしかして怪文書でも街でばらまいているのだろうか」と噂されているに違いありません(被害妄想。もちろん直接訊かれますが、言葉を濁して謎のある男を演出してみる毎日です……にしてもモニタで見ると見つからない誤字脱字がプリントアウトすると見つかるのはなぜなんだろう)。綴じ糸で綴じた原稿のカタマリ(という感じだまさに。厚さは10センチを超える)を見つめていると、手書きで原稿用紙に小説書いていた時代の人たちは、こういうカタマリをまさしく「作る」感覚で書いていたのかもしれないなと思った。創作というよりも工作。そして、工作であるがゆえ、1000枚をパンチして糸を通し、机の上にどんと置いてみたら、いかにもできあがった気がして気分が良い。それにしてもだ……画面で書いたものを印刷するのではなく、直接原稿用紙に書いていた文豪たちは、推敲するためのプリントアウトなんてもちろんしないのだから、絶えず書く文字が完成稿の一文字だったということ。いくらでもいじり回して、10分少々で印刷し直せる私と、もう消すことのできない最後の一文字を最初から書く緊張感のなかでの執筆者と。どちらの言霊により強く魂がこもるのか。いやもちろん負けはしないさ私のほうが言霊を操っていると、胸を張って言える覚悟は持っておきたいですよねこの便利な時代にも。つーか便利な時代なのになぜどこの出版社もいまだに紙に印刷させて送らせるのかね。思うに「読む」ためのすばらしい装置がまだ開発されていないからだろう。紙が一番読みやすいんだ。不便でも。毎日配って回る面倒くさい新聞はニュースメールにとってかわられはしない。しないのかな本当に……数年後には、紙の本はなくならないなんて発言していたのを恥ずかしく思うことになるんだろうか。どっちかというと先端でネトゲーとかいじっていたりする私ですが、それでもそれはなんだかいやな時代だなあと、感じてしまうのは私が古びつつある証左なのでしょうか。この時代でも、かたくなに原稿用紙を使う人はいる。そんなふうに「新聞は紙に限るぜ」と高い金払ってわざわざ紙の新聞をがさがさ読むようなのが、レトロでハードボイルドだと呼ばれるようになってしまうんでしょうかしらん。でもこの紙の束、このカタマリ、わくわくするんだもの。見つめているとニヤけてしまいます。詰まってんだよ、ここに。魂。
「じゃあ書評の意味がないじゃないですか」
そんな気もする。
「意味はあるよ。書評は、先行するテクストを材料にした二次的な読み物だ。それだけだがね」
京極夏彦 『邪魅の雫』


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
近年の受賞作家は低年齢化のせいなのか妙に老成した冷たい視点を持っていたり、逆に感情の高まりを実際的に過激な暴力で表現する傾向にある──それはあたかも少年犯罪が多発する現代の様相とシンクロする──そういうくだらない文学批判や書評をそこかしこで目にすること、それ自体を嘆かわしく思う今日この頃。文学の最先端が世相を映すのは当たり前のことで、だとすればそれを批判するしかできない書評家の皆さんこそが老いて時代の感覚からずれてしまったがゆえに違和感を感じるのでしょう。一方、その賞と対をなすあれのほうも、なんというか「まだ知らないヒトに教えてあげる」的受賞者が多いと批判されていたりして。
確かに、京極夏彦の某賞受賞作も「そこかよ」という感じですが、売れているものを後付けでもっと売ろうと受賞させた結果なのであれば、確かにそこだと納得できる。売れているんだから間違いはないんだし。まあ賞与える側としても、危険なくらい尖った超新人とか、すでにそこそこ売れている実力個性派とか、そういうのに冠を与えるのなら意見の一致をみやすいって側面もありますでしょうし。あまりにもジャンルの内部が細分化すると、統一王者とか決めにくくなるもんですからね。昨今の大量繁殖した深夜アニメとか。もうアレとソレとは同じアニメだけれどまったくの別物として論じるしかなくて、どっちが良いとか悪いとかの問題ではない。問題ではないのなら、どっちも放送して気に入った少数派がディープなファンとなり派生するCDやゲームやDVDなんかを買ってくれるのにたよってそれで成り立たせればいい。で、それで成り立つのなら、そもそも優劣なんて決める必要性がない。
というわけで。
ヒマだけど本持ってきていないなあ、と思えば出張先や旅行先でもケータイひとつ、パソひとつあれば読み切れない量の小説をそこかしこからダウンロードできるこの現近未来社会において、だれが読んでもおもしろいなんてものは、むしろ毒にも薬にもならないくだらないものなんじゃないかとさえ思ってしまいかねない。統一王者は、ただ単にジャンル内でもっとも破綻しなかった優等生であったりさえするのではないかと思ったり……しません?
そう考えると、ちょっとアンダーグラウンド要素を入れたジャンプ的、と言われ、実際にコミックバンチや少年マガジンで作品がマンガされたりもする、某賞受賞者、石田衣良なんて人の小説も、確かにものすごく優等生でまとまりよく端正な印象があるけれど──最近、立て続けに石田衣良関連作品に接していて、なんだかすごく私はこの人の作品に肯定的な気分になってきたので、それについて語ってみます。
こうも数撃たれて、それがことごとく端正だと、かえって奇形な感じがしてくるのですね。しかも愛らしい。人間を肯定して、青春賛歌を歌って、夢を応援し、加齢した女性の肌を褒めちぎり、もちろんセックスもバイオレンスもグロテスクなところを含めて美しく描く。
つい先日終わったドラマ『下北サンデーズ』が、とても良い出来だったのに9話打ち切りという憂き目にあったことは、裏番組に『渡る世間に鬼ばかり』があったことと関係がないとは言えない。あの時間枠に石田衣良作品の、しかもセックス&バイオレンスなしのまさに直球なジャンプ的作品を置いた時点では、『渡鬼』の視聴層はそもそも『下北』みたいな熱血青春喜活劇など興味がないだろうし、だとすれば『渡鬼』をおそれて他局が勝負を逃げている時間帯に『下北』ぶつければアンチ『渡鬼』層を根こそぎ持っていけるんじゃないかという計算が立てられていたに違いなく──事実、『下北』が始まったところで『渡鬼』の視聴率になんら影響があったわけではないことから、その作戦の半分は的を射ていたと言えるのでしょうが──ただし、あとの半分は紛れもなく読み違えていた。


原作・石田衣良、監督・堤幸彦。
『IWGP』の黄金コンビ、再びのタッグ。
わくわくした──私は単純に歓声を上げて、観て、おもしろくて、打ち切りに憤慨したひとりだったのだけれど。
ドラマの中盤から視聴率が落ちたのは、あきらかにそういうことだった。
「なにこれ、ぜんぜん期待してたのじゃない!」
私は、わざわざ予約して待つほどではないが、石田衣良の名前が目についたら買って読む程度には石田衣良を読んでいて『下北』のドラマ化は、まさに『下北』な感じでなんの違和感も覚えなかった。でも、原作ありきでないヒトは。石田衣良が、ジャンプ的弱小少年たちの夢見る日常を描いた『4TEEN』で某賞を受賞した、なんのひねりもない恋愛小説も書く、ときには株相場師の話も書いたりする、むしろAボーイのダメさ加減のほうをこそ愛情持った視線で描く、実は『IWGP』こそが異例的にハードボイルドな作家だということを、承知のうえではなく、新ドラマを観た人は。
「上戸彩、キモっ」
という感想しか持てなかったことだろう。
ドラマが良い出来であるかないかということよりも前に、あまりにも「石田衣良&堤幸彦」ブランドに期待したモノとはかけ離れていたはずだから。

『4TEEN』でも言えることなんだけれど、なんというかそのあまりにも嘘くさい美談と、あまりにも情けない主人公たちと、あまりにも役不足で人間としてダメっぽいのに救世主や守護天使の役割を担わされたサブキャラたちが、結局のところ傷を舐めあって励まし合って明日も生きていこうねというような鼻につく物語こそが石田衣良なのであって、リストカットだのスカトロだの包帯少女やペットのスク水少女、垂れかけた肉とか白血病とか夢だけ食べても生きていけるさとか、そういうのを「それはそれとして」こういうシーンとかセリフとかってグッときたりしない? という問いかけの作風こそが。そここそが石田衣良だとするならば。あのドラマはあれでよかったと思うんですが。
上戸彩はキモい。
しかしまあそれはよい。
気をつけておきたいのはDVDのタイトルに「ブルマ」とついているにもかかわらず、その回の上戸彩が履いているのはショートパンツであること。私はドラマを観ながら「ああこれでまた反感かって視聴率が……」と思っていたが、まさか打ちきりになるほどだとは思わなかった。
劇中で座長を演じる佐々木蔵之介が、大阪で演劇をしていたことのある私にとっては『惑星ピスタチオ』の佐々木蔵之介で、その人は大阪の小劇団からスターダムにのし上がった代表格のような役者なのだが、それが東京で売れない小劇団やっているという設定で演じている(というか佐々木蔵之介が退団したせいで現実のその小劇団は解散に追い込まれたのに、その佐々木蔵之介がテレビで「売れたらおしまいだ」と信念持って演劇やってる小劇団を率いているという……その皮肉)、そういうのも私にはおもしろかったけれど、興味のない人にはキモい目と目のあいだが離れた馬面のロン毛がキモい上戸彩に説教していてなおキモい、というだけのことだったのかもしれない。ブルマも嘘だったし。もう観なくていいやと思ってしまったのかもしれない。まあ結末は見えているわけだ。石田衣良だから。アンハッピーエンドになるわけないので、だったらハッピーエンドなのである。ブルマをはかない上戸彩をどこぞの馬面が説教しているドラマなど観ても、時間の無駄である。そう結論づけられたのかもしれない。
実際のところ、石田衣良作品はそうだ。
そうであるということにおいて、あのドラマは良くできていた。
ありえないまでに良くできた話なのだ。
ものすごい美談。みんないいヤツ。
親指立ててサイコーと涙できる人しか観てはいけない。
『4TEEN』の第一話は何度読んでも呻いてしまう──勃たない14歳の羞恥心8割の苦悩と、ケータイの電源を切る友人たち、聖母のような腐れ女子高生──ブラボー!!
コミックバンチや週刊少年ジャンプに確かに似ている。
大衆演劇とか、プロレスとかにも似ている。
まさに『下北サンデーズ』はそういう演劇界の話であり、石田衣良がプロレスファンかどうかは知らないが、いつかこの人がプロレスものを書けば、ひさびさに中島らものようなプロレス愛に満ちたプロレス小説が書けるのではなかろうかと夢想したりさえする。どっちが勝つかはわかっているが、そこまでの過程でいかに「魅せる」かということに命がけで、客を納得させ酔わす──そういう部分もそうだが、同時に──悪役は、あくまで悪い役の人である、という点も石田衣良にプロレスを感じる理由。
怪しい人は出てくるが悪人はいない。
石田衣良作品でどうしようもない悪人というのは、ほとんど『IWGP』シリーズにしか登場しないのである。
ドラマ『下北サンデーズ』は大衆に支持されなかった。
でもそれが好きだった私は、もうひとつの作品のことを憂えた。
『アキハバラ@DEEP』
すでにマンガ化とドラマ化がされている。
そして石田衣良作品、初の映画化。
比べる材料がたくさんあるぶん、石田衣良作品について考えるには絶好のモチーフである。
というわけで観てきました。
次回は『アキハバラ@DEEP』を材料にした二次的な読み物と致します。
とか言って書くのが疲れてきたので先延ばしにするだけなんですが。
いやでもほんとドラマ『下北』、良いですよ。
藤井フミヤも良い味出してた。
たぶん再放送もないだろうからDVDで観てください。
いっそ深夜枠とかのほうが視聴率とったんじゃないかと思うんだがなあ……

カレーはナンの添え物だ。
そう私が言ったら反論されたので、
ピザの主役は生地だろうと応戦した。
アンチョビ・ピッツァ。
アンチョビを抜いてもかろうじてピザの体裁が残るが、
生地を抜いてアンチョビだけの姿をそう呼ぶ者はいない。
北京ダックの皮は春包のために焦がされる。
餃子もピロシキだって、具抜きの餃子はあり得ても、
生地抜きのピロシキなどありえない。
酒好きでしかも蒸留酒派なので、
パンとウォッカを婚姻の儀式の道具にする、
凍える国の単純な思想にあこがれていた。
体をあたためるウォッカと、生きるための小麦粉。
その摂取が生きること。
生きることを愉しむのはその摂取を愉しむこと。
カレーパーティーが終わって。
見ず知らずの客人とゲームを始め、
余ったナンとウォッカでくつろぎながら、
「次こそ殺してやる」
「ハヤテの雷神むずすぎっ」
(パッドで出るのかアレは?)
盛り上がって日付も変わり数時間。
ふと振り返ったら少女たちは、
凍える冬に向かって毛糸を囲んでいた。
そっちのが可愛いよ。
ううんそっちが素敵。
すだちを着飾らせている、
彼女たちを見ていたらあたたかくなった。
暑いから肌を磨き、
寒いから着飾る色をさがす。
そうやってヒトは愉しんで生きてきたんだ。
パンとウォッカ。
でもパンにつけるカレーがあるとなお。
酒だけでなく毛糸と暖炉があればなお。
生きていることは愉しい。
毛糸の色に悩めばなお愉しい。
彼女たちに訊いた。
タイトルは?
「こいするすだち」
──彼女たちは愉しむことを知っている。

『ぼくは生まれるという恐ろしいまちがいをしてしまった。世界はぼくが思い描いていたような場所じゃなかったから、兄弟たちがいる暖かくて安全で快適なところにもどりたい』
マイク・レズニック 『キリンヤガ』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界はすばらしい場所だと夢見る生まれる前のとかげは、まだ見ぬ世界を怯える兄弟の制止を振り切って世界へと、生まれた。世界にはなにが待っているかわからないと兄弟たちが止めたのに、希望に満ちたとかげには届かなかった。
輝く太陽と、あたたかい雨。
飛び交う虫たちを、喰いたいだけ喰う。
夢見るとかげは、生まれてしまった。
生まれたばかりのとかげは、はじめて見る世界をじっと、じっと眺めて。
やがて言った。
『太陽はどこにあるの?』
『虫がいないよ、ぼくの空腹はどうやって満たせばいいの?』
『この、透明な壁はなに?』
『ぼくを見つめる、あの巨大な目はなに?』
とかげはすぐに気づいた。
生まれたことは、まちがいだった。
兄弟たちの心配は本当だった。
ぼくはここで飢えて死ぬ──
そのとき神が現れた。
『とかげのあいしかた』の話。 未熟な神は、大きく切った飲み込みがたいピンク色の新生児をとかげに与えたが、飢えに怯えるとかげに選択肢はなく、今度はいつ食料を与えてくれるのかわからない気まぐれな神が与える肉片を、むりやりに頬張った。飲み込むのに一時間近くかかり、消化するために翌日はまったく動けなくなる。
あたたかい雨は降らなかった。雨を作る小さな機械で、いろいろな神がとかげに雨を降らせたが、それは愛情ではなく興味本位によるもので、水道の蛇口から取ってきたばかりの冷たい水だった。
なにより、一日中、巨大な目がいくつもこちらを見ていることが我慢ならない。
ぼくは、なんのために生まれてきたのだろう──
ロシアリクガメが死んだのは、もともと難しいと知っていたのになんの知識がなくてもリクガメのエサと水をやっておけばよいのだろうと考えた浅はかな神のせいだ。
フトアゴヒゲトカゲが死んだのは、はっきりと消化不良のせいだった。痩せ始めたことに気づいた神は、慌ててネズミの新生児を与えることをやめ、コオロギの缶詰に切り替えた──一度に、コオロギの半分しか口にしなくなっていたものの、まったく食べないよりは良い──体重が戻れと思った、二週間後、口許にコオロギを差し出してもぴくりともせず、イミテーションの岩石のうえで、まぶたを閉じて眠ったように死んでいるカラダを見つけた、神は本当に悔やんだ。それはまぎれもなく神のせいだ。
イロカエカロテス──伯爵は、自傷行為をやめようとしなかった。繊細な伯爵には、巨大な目から放たれる視線に、一日中晒されるなどという世界は居心地が悪すぎて、カラダを傷つけ、一度は口にした肉と血の味にも再び口を閉ざし、コオロギだけは食すが、ただ生きているだけの状態だった。水槽という世界の中心で、最後まで伯爵は誇り高くオレを見るなと叫び続け、季節の変わり目に死んだ。もうこんなところには居られないと、そのぐったりとしたモノになった伯爵のカラダが言っているようで、神は言葉を失ったが、すべては神自身の行いのせいだった。
イエアメガエルは、いまはどこかの水槽で元気に暮らしていると信じたい。
ヒョウモンイエトカゲモドキと、クランウェルツノガエルは、神の度量や技量に関係なく、与えられるだけの食事を貪るように喰い、数ヶ月で二倍近い体長になって、いまも元気に生きている──あたたかい雨の降らない、太陽のない、透明な壁と巨大な目に囲まれた、世界で。
神は悔いている。
喰いものだけを与えていれば、とかげはどんな世界でも生きていけるのだと。
そんなふうに考えた、自分の浅はかさを。
繊細な心たちから、折れて死んだ。
「すごいなあ、こいつらの体長からすると、このピンクマウスの一片って人間にとってのギャートルズのマンモス肉みたいな大きさだもの。そりゃ二日にいっぺん喰えば充分だよな」
バカみたいに笑って発言していた神は、自ら水槽のなかで二日に一度天から降ってくる自分の体重の三分の一くらいの食べ慣れない肉の塊だけを喰って──狂わずにその閉鎖的な世界で生き続けられるか試してみればいい。
愚かな神よ。
商いのためというイイワケさえもできない。
愚かな神は、生まれたばかりのとかげを無駄に玩んで死なせた。
戻りたいと泣くとかげに、遠くの声が言う。
こうなった以上、あなたはここにとどまるしかない──と。
どこにもつながらない世界に生まれてしまった、とかげは、絶望のうちに生きるしかない。
生きることさえ、させてやれなかった。
ごめん。
そんな言葉で、すまないことはわかっているが。
売る場所があるから生まれてきたとかげたちであって、それを売ろうとして失敗する行為に矛盾はなく、次への反省にすればいいのだろうとアタマでは思うものの、偽物の岩のうえで、眠ったみたいに逝った、とかげのたたずまいが目に焼き付いてしまった。触れると、あたたかかった。まだ、この世界にいるみたいに。もう、冷凍の新生児と愛玩動物とのあいだになんの区別もなくなってしまった、ただの肉の塊に、確かに愛情を感じて言葉に詰まった。忘れられない。
もっとどうにかできたはずだと、思う。
ごめん。
とかげのあいしかたのしっぱい。
もしも、彼らをこれから愛そうと思ってここにいるあなたには、特に言いたい──そもそも、とかげを愛するあなたには言わずもがなのことだろうけれど。
つらい。すべてを自分に依存していた、とかげが死ぬのは。飼っていた猫を喪ったときと、もちろんなにも変わらない。こちらを見つめる瞳が、放つあの独特の視線の感じを、二度と感じられないのかと思うと、叫びだしたいくらいにどうしようもなく、悔しい。
私には与えられない。
でも、しっぱいはとても簡単だということは、伝えられる。
あいするなら、知識を先に蓄えて欲しい。
生きるために生まれてきた夢見るとかげを失望させないで。
生まれたばかりのときには戻りたいと想ったけれど、まったく奇妙で想っていた世界とは違っていたけれど、生きてみればなかなか快適な世界だと、あなたのとかげに想わせてやって欲しいと願います。