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 この世界ときたら、それは他人のもので、おれの本来住む所じゃないと感じる。現にいまだっておれは、他人の国の他人の夜更けに、他人の言葉でしゃべっている。明日の朝おれは他人の国の他人の朝を歩くだろう。そんな感じは欲求不満に過ぎないと思うこともあるんだが、とにかく実感ということをいえば、おれにはこの世界にぴったりして生きているという実感がないんだよ。


 大江健三郎 『叫び声』

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「現実の爬虫類も好き?」

 と、とかげの指輪をしていたら訊かれた。考えてみると子供のころにカエルを飼っていたりミイラにしたりといった記憶はあるが、愛玩動物として爬虫類を飼ったこともなければ、飼おうとも思わない。でも、動物園の蛇や亀のいる建物はわくわくする。キリンよりもオポッサムよりもとかげが好きだという感じは、ある。

 自分がはめている指輪を見て考えた。
 なんでこいつらが好きなんだろう?

 じいっと考えていると、そんなことを今まで深く考えたことがなかったので、本当にどうしてなんだろうという自分自身への疑念が生まれてきた。なんだかある性癖をなぜ自分は持っているのだろうとあるとき突然考えてしまって、考え込んだがゆえにその性癖を生む原因となった過去の忌まわしい出来事を記憶の彼方から呼び起こしてしまうような……とてもポジティブだとは感じられない予感が、私の頭をよぎる。

 思い出したのは、冒頭引用の大江健三郎だった。いやそうではない。この作品のこの文章を思い出して、ああそういうことかも知れないと「思った」のだ。想像したのである。私は、私が爬虫類を愛さずにはいられない理由を。

 彼らは、変温動物だ。
 実は、そのことこそが彼らの魅力……少なくとも私が彼らに感じる魅力なのではないかと考える。

 ヒトは恒温動物である。自分のまわりが暑かろうが寒かろうが、常にそれよりも高い温度で一定している。温血動物ともいう。

 一方、彼らは自分のまわりの暑さや寒さによって、自らの体温も変える。違うな。体温というものがそもそも自分のまわりの空間の変化と同一なのであり、とかげは暑い夏には熱いとかげになり、寒い冬には自らの生命維持さえ危ぶまれる低温にも従順に逆らわず寒くて冷たいとかげになる。生きていけないくらいに寒いとかげになってしまった彼らは、体温を上げる道は選ばずに、死んだように眠る……冬眠のさなかに凍死する彼らは多いらしい。

 しかし、どちらが魅力的かと問われれば、私にはあきらかに世界にぴったりとよりそって生きている彼らの有りようのほうが、ヒトや毛の生えて血の流れた鳥だのといったイキモノよりも魅力的だ。そうやってぴったりと世界に寄り添って、世界が厳しいときにも厳しいイキモノになりながら、しかし彼らは今まで生き残り、きっと世界が完璧に滅ぶまで生き続けるのである。それに比べて、ぽっと生まれた温血動物たちの、寒かろうが暑かろうが、関係なく自分は自分でいればいいのさ、という生まれようと生きようは、どうにも浅はかな思いつきのように思えてしまうのだった。

 (余談だが、『叫び声』に出てくる黄色い人種と黒い人種のあいだに生まれた美しい少年「虎」は、自らをそうして黄色と黒のまじった美しいイキモノだと想いながらまわりの世界に流されあっけなく死んでゆく……爬虫類の美しさを考えるとき、私がこの作品を思い出したのは、もしかするとそのすばらしく魅力的で可愛らしい「虎」という名の少年のせいかもしれない)

 そういうのがきっと私が爬虫類も好きな理由で、そうもちろん私は現実の爬虫類も好きだ。愛している。そういう尊敬の念さえ抱いているんだということを答えたら、ふうん、と言われた。まあそうだろう。好きなものは好きだから好きでいいのだ。考えるということが浅はかなのだと、私はとかげに学んでいないわけで。

 今年もそろりそろりと、流れるままに終わってゆきます。

 叫び声


 雪ですよ雪。近畿大雪。私の勤め先なんてさらに郊外型ホームセンターなので山のふもとで「雪国?」というような朝でした。そして私はカー用品担当。男性従業員が全員で駐車場と店のまわりの道路を雪かきしている中、私だけが店内でひっきりなしに鳴る携帯をとりながら接客も……そう。タイヤチェーン売れまくり。ほかの売り場にはひとっこひとりいない。一日が終わるころには、見たこともないくらいケタの少ない数字の並ぶモニタ上の売り上げ確認画面で、なんかの祭りでもあったのかと思うようなカー用品の逆にケタ違いな売り上げ。ずぶ濡れになってがたがた奥歯を鳴らすオトコドモが帰ってきて、暖房の効いた店内にいた私は恐縮しきりだったが、みんなも倉庫に山積みだったタイヤチェーンを余すところなく売り尽くした(ということは後半、すいませんそのサイズは売り切れましたと頭を下げ続けたということでもある)、私を気の毒そうな目で見ていた。実際、疲れたよ。テレビで見たけどチェーン取り付けも行っているオートバックスでは購入三時間待ちの装着一時間待ちだったとか。出かけるのやめようという発想がないのかね。アマゾンもチェーンは軒並み在庫切れ。きっと近畿需要だ。普段こんな大雪ないから、いざ降るとあれがないこれがないって……追加発注したけれど、ちゃんと入ってくるんだか。いやそれよりももう降らなかったらどうしよう。アホほど注文してしまった。

 帰ってホワイトシチューを作りました。あったかいものが食べたくて、土鍋シチュー。パンとワイン。アボカドとトマトのサラダも添えて。

 ふと本棚を見て、まったく忘れていたそれに気づいた。

 ディアプラス。あら朔夜さんの新作ですねとか思って嬉しくなっていたら、そういや発表もある号だねと……まったく忘れていた。

 結果を見てその雑誌を床に投げつけて力一杯踏んづけたあと、バックドロップも決めてつばを吐きかける。嘘。すばらしい作家さんたちの描く素敵な世界たちにそんな真似はできません。でも罵ったのは本当。

「なんだそれは?」

 以下、興味のない人には毎度のごとく意味不明なイニシャルトークと、興味のある人の大半にとってもどうでもいい吉秒のどうでもいい話。

 思えば、この出版社の出す評価にその手のセリフをなんど口にしたことか。またです。なんだこの伝わりにくい評価の仕方。えーっと。三次選考通過で、でもなんか私の頭の上に※印がついている──シルシのついている方は「ボーイズラブ的な恋愛をテーマに捉え切れていない、いわば「ボーイズラブ度」が低い作品を書かれた方です」──Dの方向性が変わってから絶えず私の頭の上にあるこのシルシは、今回もきっちり私の頭上に輝いているのでした。

 ──ていうか。なにがわかりにくいって、だったら私はなぜそこまでの選考過程を通過しているのかということなんですが。これはあれですか私の好きなプロレスにたとえると「まあ確かにそこそこ強いけれどねプロレスラーとしての華がないよね」っていう高山解説でこき下ろされるようなことなんでしょうか。だからそういう言われ方って言われた当人はすごく戸惑うんですけれど──強さを求めてきたのに。華がないって、いったいおれは明日からどうしてなにを鍛えればいいの? もうヒンズースクワットも手につきません。

 ほかの団体に行く気はないから。ここで戦いたいから。考えます。ひとつわかったのは、今回の私の書いたのは半分以上が濡れ場だったということで、D編集部のいう「ボーイズラブ的な恋愛」は決して=アナルセックスとオーラルセックスの過剰な描写ではないということ(笑)。わかってみればものすごく困って、私は今月書いていた原稿を一から書き直すことにしたクリスマス。いまからDの原稿を始めてしまうと、肝心のWのほうが時間が足りなくなるおそれ大なのですが。んな高山解説されて噛みつかなかったら、それこそそのレスラー終わっていますからね。

 濡れ場が増えればいいってものじゃない──私に決定的に欠けている「ボーイズラブ度」ってなんだろう。なんとなくわかる気がしないではない。自分の中でも、本来自分が書いていなければ読まないであろうボーイズラブ誌を乱読していて、受けつける作品と受けつけない作品があることは確かなのだ。それはいわゆる小説全般を指して「リズムが合わない」とか「なにかひっかかるものがある」といった肌の合わない感ではなく──そうだよな。結局、男性向けポルノを論じるのに「ヌける」か否かで論じるのが究極であるのと同じように──まったくなにも感じるモノがないBL小説というものが、私には確実にある。

 逆説的に、そのなにも感じない作品たちの傾向を統計立てて分析してみると、どうやら私は「攻め」と「受け」の両方が「笑顔」でいる作品に無反応であるらしい。セックスの絡む恋愛小説において、本来ならば双方ラブラブで笑顔振りまいているならそれは物語としてただの「恋人たちの風景」を描写したものであって、それこそ現実に電車の中でイチャついているカップルを見て微笑ましく心が温かくなる人より「け」と唾を吐く人のほうが多い方程式に当てはめて、需要などあるはずがないとゾウリムシでもわかる。けれどBL業界には確かにそういう物語が存在していて、なぜだかそこには需要があるらしい。これは私には理解できない謎だ。

 もちろん、古来からの男性向けポルノや女性向け少女漫画の下流に当たる「いつのまにかぼくはあのひとのことを好きになっているみたいだ」というパターンこそが王道では、ある。そしてそのパターンならば──つまりは最初に手首をつかまれて「なにするんだよっ」というようなセリフのある作品ならば──私も萌えられるのである。でも同じそのシーンで、ヒロインが「あっ」とか言っちゃって、すでにその時点でセリフの末尾にハートマークが感じられる行間であったなら、それは私にとっては「け」なのだった。

 ところで今号のDの表紙ですが。

 男二人が向かい合って抱き合い、ひとりは胸をはだけ、ひとりは半ズボンで、彼の手は彼の頭を撫で、彼の指先は彼の鎖骨にそえられていて、二人は読者に流し目腺で、二人そろって「笑顔」である──け。

 実証として、今月発売のボーイズラブ誌六冊が私の手元にあるが、そのどれもが男二人のツーショットイラストであることが共通しているものの、二人ともがそろって「笑顔」なのはDだけだ。ほかの五誌は、どちらかが甘えてくる片方に困った顔でむしろ怒り顔だったり、どちらかが不敵に笑んでいても、もう片方はクールに読者を睨めつけている。そして私の作品はDでもっとも評価が低い。

 答えは簡単だ。

 今年のプロレス大賞授賞式で、話題賞を審査員満場一致で受賞した『ハッスル』のインリン様ことインリン・オブ・ジョイトイに、豪腕プロレスで知られる『NOAH』の小橋建太と『健介オフィス』佐々木健介が拍手を送ろうとしなかった、そういうことだ。でも実は私は川田利明のファンなのである。だれもが認めるデンジャラスな実力派レスラーでありながら『ハッスル』でも踊ることができる──このプロレスたとえ話にいったい何人が頷いているか疑問だが、まあ聞き流せ。

 答えは簡単だ。

 このリングはおれの肌にあわねえ、と背を向ける気がないのなら、私が今やるべきことは、そこで踊る作法を身につけることだけ。謙虚な心と従順な学習姿勢。というわけで「これでどうだ」的な筆致で書いていた今月の原稿はDには評価を求めるだけ無駄だと悟ったので、書き直す。

 なんだか毎回同じことを書いている気がするが、まあそれもそれ。この業界で泳ぎ続けて十年越えて、もはやこれが私の人生だから。読み捨てられる小説を書くために、今日も今日とていますぐ悩もう。冬は日の落ちるのが早くて、気がせく。

 以上なんということない話。あっさりと終わり。
 みなさま良いクリスマスイヴでしたか?
 クリスマス商品の値下げをやっていて、バイトの男の子に手伝ってもらっていたのだけれど、話をしているうちに。

「吉秒さんって部屋汚れないでしょう?」

 という結論に彼は達した。実際のところ、私は決まったものが決まったところに置かれていないと我慢できないタチなのだが、かといって雑誌を床に平積みできないほどの潔癖性ではない。

「いや、そうじゃなくて」

 彼が言うに、ぼくならこのクリスマスツリーは来年まで置いておいて高い値段で売りますもん、ということなのだそうだ。言われてみれば、私はまったくそんな発想は持ち合わせていなかった。今年レジャー用品を担当するようになった私は、前任者が昨年のぶんのクリスマス用品売れ残りを倉庫に山のように置いていったことに「なぜ?」という感想しか持てずにいたのだ。確かに手には仕入れ原価を記した紙を持ってはいるのだが、私の値付けはそんなものおかまいなしの叩き売り。値札のシールを貼るそばから売れていく。なにせ150センチのファイバーツリー500円とかだから(当初の売値は3500円)。

「もったいないですよぉ」

 と彼は言うが、私が値下げしているのは業者が返品を受けてくれない売り切り商品なのである。いやちょっと考えてみろって、と私は彼に語ってきかせた。
 うちは駅前店だ。土地代は結構なものだ。たとえば倉庫に売れ残りのツリーを一年保管するとして、一畳ぶんのスペースを使うとしよう。この近所で六畳のワンルームの家賃が六万だったら借り手はいるよな? じゃあだいたい一畳で一万円。一年だと、十二万円。いま値下げしている額がそれを上回ると思うか?

 で、彼は私が自分の持ち物も邪魔だと思ったら即座に捨てる性格だと見抜き、さっきの発言に至ったのでした。
 しかし実際さあ、今年売れなかったものが来年になって売れるかといったらそんなことありえないって。ラッパーサンタ人形(ラップで歌いながら踊る。かくかくと首を前後させる動きに子供たち阿鼻叫喚)なんて、いくら値段下げても売れないし。だって私自身がタダでもいらないと思うんだから。がんばってジョン・シナ語POPとかつけてアピールしてみたが、無駄なことだった。

 でも、ちょっと嬉しいこともある。
 そのジョン・シナ語POPも、一部のマニアックなプロレスファンが通りすがりに「シナだ」と言ってけらけら笑ってくれた。社内でだれひとり「Wordlife!」の叫び声に反応するやつはいなかったのでほんとニンマリした。別にその人はラッパーサンタ買ってくれなかったし、となりの彼女に「なにそれ」と言われていたが。

 同じようなケースだが、クリスマス用品売り場でかけていた曲に反応してくれた人も嬉しかった。エンドレスで流れるCDは私が焼いたCD-Rで、ジャズアレンジのクリスマスソングをベースにaiko、浜崎あゆみ、ケツメイシ、小田和正、ミスチルといった声に特徴あるキャッチーな人たちのクリスマスソングを編集したものだった(なんてことを堂々と書いては本当はいけないのだけれど、今回のお話はその行為によってCD売った話なので許してください)。ぜんぶ、だれかがだれかのクリスマスソングをカバーしている曲で、事実「これ、あゆ?」なんて言って足を止めてくれるお客さんも多かった。そんななか、純然たる私の趣味で入れた、カバー曲ではない一曲に、心を動かされた人がいたのである。

「レジャー担当の方ぁ、クリスマスツリーの売り場までおまわりください」

 店内放送で走っていくと、お客様はツリーの陰に置いてあるラジカセをいじっていた。

「あのー」

 私が声をかけると、彼女はその曲をふたたび再生させて、私に訊いたのでした。

「ごめんなさい、商品のことではなくて……あの、この曲ってなんていう曲なのかと思って知りたくて」

 にんまりした。確かに、知っている人が聞けば「はっ」と振り返るくらい特徴ある声なのだが、知らない人はだれだかわからないだろう。でもあなたも聴いたことあるはず。私は曲の説明をして、彼女に「いまミューズのCMでナレーションやっている人ですよ」と追加情報まであげた。メモまで要求され、私は自筆で、その曲の詳細を彼女に手渡したのだけれど、いまになって言葉が足りなかったと後悔しているのでこれを書いている。

 その曲は、EPOさんの『聖き彼の人』という曲。二十世紀にJ-POPで一時代を築き、その後海外デビューし、数多くの名曲を生んだシンガーソングライター。しかし、新世紀の始まりとともに「音楽によるカウンセリング」や「ワークショップライブ」といった、より個と個が近距離で接する歌手活動へと移行してしまったため、いくら私がメモを彼女に手渡しても、街のCD屋さんではその曲は手に入らない可能性が高い(80年代『ひょうきん族』のED曲を歌っていた時代の彼女を懐かしむアルバムはどこのCD屋でも手にはいるが、その後、POPからよりソウルフルな曲調へと変化していったEPOのアルバムはなかなか目にしない。そこからの時代の彼女の歌こそを愛する私などはとても哀しい。ちなみに今年もベストアルバムの新しいのが出ています。レーベルを渡り歩いた彼女なので、ベスト盤がそこら中から出てくる)。

 言葉が足りなかったのは、きっとあなたの心を揺さぶったのは、耳に届いたのがアルバム『Soul Kitchen』バージョンの『聖き彼の人』だったから。クリスマスアルバムや、最初に『聖き彼の人』がマキシシングルとして出たときのバージョンは、曲名の通りとても清らかな曲なのです。けれど『Soul Kitchen』は。

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 アルバムの冒頭曲から、娘と母の虐待があった過去と今を歌い上げるEPOは、もはや癒し系を通り越して精神の奥深い領域をえぐり出す作業を始めている。愛されたくて、扉の中から叫んでいるのは、私なのか、それとも「あなたが逝くとき涙を見せるかわからない」心を病んだ母親のほうなのか……そこから始まるこのアルバムは、ある意味非常にバランスが悪い。可愛らしい恋の歌にもきこえる数曲と、文字通りの魂の叫びである数曲。その混乱が、その後立て続けに発表されたアルバム二枚でも続き、2001年のアルバム『air』を最後に、EPOはCDの制作を停止する。インタビューの中で、またいつか作る気はあると語っているが、今は作ることができない、とも明言する。彼女は、あの二十世紀の終わりに、大きな転換点にいたのだと思う。

 『聖き彼の人』のなかで、自分のかたわれをさがす天使は、地上の祝福に怯えながらさまよう彼の人に呼びかける……「どんなにへたな歌でもいい あなたとわかる声で 私の名を呼んで」……と。もともとは微笑みながら歌われていたその歌詞が、『Soul Kitchen』バージョンではとことん切実な哀願の叫びに聞こえる。自分のかたわれに笑みながら手をさしのべていた天使は、いつのまにか自らもさまよって彼の人に声をあげてよどこにいるのと助けを求めているかのようだ。

 そして、聴くたびに不安をかき立てられるのだが『Soul Kitchen』は、私がとても好きなEPOのアルバムなのです。彼女にそのことをちゃんと伝えれば良かった。あの時期の、あのEPOの歌があなたを揺さぶったのだと。そういうのって、歌う側と、聴く側との、波長の微妙なところでかみ合うかどうかの問題だと思うから。

 ともかく、クリスマスの嬉しい出来事だった。
 あの彼女が、あの彼女のあの歌に、ちゃんと出逢えたことを心から祈ります。
 心に触れるなにかを見つけた瞬間のだれかを見るのは、恋に落ちる瞬間のだれかを見るのに似ている……よかったなあ、と。ただそう思う。EPOさん……いちファンとして書くよ。目の前で歌うことも、カウンセリングも、きっと多くの人の心を揺らすのだろうけれど。大多数の人々のそばにそっと居る、新しいアルバムのあなたの歌声も、きっといろんな人を救うはず。そんなふうにいろんな人のそばで居たいなあ、と小説を書く私だから、できるのに考え込んでやらないあなたは、ちょっと歯がゆい。
 待っています。