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 過去がないから空っぽなんだと思っていた
 でも本当ははじめから 僕は空っぽだったんだ


 峰倉かずや 『スティグマ』

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 夏の終わり頃、けれど私は、校則違反の制服の妙に肌が透けて見えるような半袖カッターシャツさえ暑くて脱ぎ、Tシャツ姿で玄能を振り上げていた。玄能とは大きな槌のことである。ハンマーだ。RPGの巨人キャラが肩に担いでいるような大きなハンマー。私はそんなものを汗だくになって振り上げ、いったいなにをしていたのかといえば、なにをしているんだか自分でもよくわかっていなかった。

 とりあえず、毎日は楽しかったが、来年になって特にやりたいということもないのに来年になったら自分は高校生ではなくなるんだということだけが確かで、そんなとき、つきあっていた彼女が美術部員だったこともあって、私は放課後の美術室にちょくちょく入り浸っていた。美術部の顧問の先生は背が低くてひょろりと痩せた飄々とした人で、自分の妻の顔でウォーホルのマリリンモンローのコピーをした作品を、美術準備室の自分のデスクの上に飾っているような人でした。

 夏休みにも美術室へ顔を出す私は、自然とその先生とも話すようになり、私が中学の時には美術部員だったと知るや「ヒマならなんか作ってみろよ」と言い出したのだった。私が通っていた中学は全員がなにかのクラブに入らなければならないのであって、私は美術の授業中に「おれも美術部員だ」という発言をしたら「おまえなんか顔も見たことない」と先生に言われる幽霊部員だったのであり、しかも中学二年の時に引っ越して転校した先の中学では部活など入らなかったから、中学時代の半分ほどの幽霊という薄っぺらさだったのだけれども。

 ともあれ、私はウォーホルが高名なアーティストであるというところからレクチャーを受け、レクチャーを受けたがよくわからないまま暇つぶしに『美術手帳』(高名な美術雑誌です)などをぱらぱらめくっているうち、フランク・ステラに出逢ってしまった。ちょっと衝撃を受けた。ステラは抽象の半立体を得意とする作家で、その作品はとんでもなく巨大。なにかの広告でもなく、なんのメッセージがあるでもなく、作品タイトルも『道シリーズ』のナンバーなんたらとか書いてあるが見るからにいい加減につけたもの。極彩色で意味のない形で、恐ろしく巨大で、出っ張ったりへこんだりしている。

 私はひょろりとした先生に、幼い頃に父が好きだった前衛彫刻芸術の展覧会によく連れて行かれたことなどを話した。幼い私にとって、美術館の高い天井に届くような、わけのわからん形の彫刻たちが、どんなに大きく見えて、どんなにわけがわからなかったということを。私は父に訊ねたことをおぼえている。幼い子の当たり前の問いを。

「これなに」

 ──父は建築家であって、建築家とは抽象立体造形作家と地続きのようなものだが、その父も私の問いには答えられなかった。答えられないから、笑ってごまかしててきとうなことを口にする「なんなんだろうなあ。なんだと思う?」──わからないから訊いているのだと、野球帽をかぶって手を引かれるような年齢の私は思った。

 そういう話をしていて、先生に指摘された。「そんな小さなとき見たもののことを、強烈におぼえているということは、すごいと思わないか」。そして昔語りが始まり、自分も子供が見たら脳裏に焼き付いてはなれないような作品が作りたく、創作の時間が取りたくて美術教師になったのに、時間なんかまったくとれねえよ、というような愚痴になって。私は美術部の彼女とは別れたが美術部に残り、非常に気まずい思いなどしながら美術部員としてステラの真似をしてハンマーを振り上げ丸太をへし折って組み上げショッキングピンクに塗ったりしていた。

 「もっと大きな作品作れば、作品面接で入れる美大もあるぞ」などと先生が言うので、ああそういうのもおもしろいかと思ってハンマーを振り上げ続けていたら、いつのまにかデッサンもやっとけなどと言われてすっかり美大を目指す人になってしまっていて。デッサンなどやるとますますハンマー振り上げるほうが楽しいので、美術準備室で作ったはいいもののドアから出せないような考え足らずの巨大立体など作っていたりしたら、美術室は一階だったので廊下や窓の外から「なにやってんの」というような目で見られることが多くなり、その当時の私はオールバックに固めた髪の毛が乱れてまとまらないと登校しないような神経質な見た目で、それが汗だくになって美術室で創作というよりも破壊工作を笑いながらやっているのだから、近づいてはいけない不良というのとはまた違う意味でちょっと怖い人だったと我ながら思う。

 昼休みだったか、私に告白してきた一年生の女の子がいた。そのときつきあっている相手もいなかったので、考えることもなく「ああいいよ」というようなことを言ったら、その子は友達数人のところに駆け戻っていって私に見えているところできゃあきゃあ盛り上がっていた。女子とはそういう生き物。ふつうに歩いていただけなのに呼び止められて告白され、返事をしたら廊下に放っておかれた私は、もう行っていいものやら、それともなにかわからないが次の約束でも交わした方がいいのか、バカみたいに立ちつくして待っていると、その子が戻って来て言った。「あたしも美術部に入ります」。

 というわけで、私はその後輩と卒業するまでつきあったのだけれど、案の定というかなんというか、やはりその子が私に目をつけたのは玄能を振り上げていたからで、何度かデートしたり、夕暮れの教室で乳繰りあっているところを見回りの先生に見つかったり(その子のファーストキスはまさにそういう教室で、泣いた理由を私に「夕焼けがすごい赤いから」などと言ったのは、なかなかいま思い出しても良い話だと思う)、青春な日々を過ごすうち、訊いてもいないのに「好きになった理由」などを語り始め、そこで初めて私はその少女漫画家に出逢ったのだった。

 楠本まき 『Kiss xxxx』

 それを少女漫画と定義していいものやら謎だが、マーガレットに連載されていたのだからそうなのだろう。だれかのことをよく知りたいとき、その人が読書家なら、本棚を見ればいい。映画よりも、小説や漫画の、時代遅れなものや、そんなにヒットしたわけでもない一冊がその人の本棚にあったら、それがその人の「大切なもの」と「大切でないもの」を指し示していると思ってまず間違いない。

 六畳間の壁一面の本棚が常時手をのばす唯一の本棚である私を例に取ってみれば、すぐには手に取れない場所にしまい込んでしまう本たちと、そこにいまでも居座っている本たちは、意味合いが違う。本棚の本は、いわば枕元の聖書のような存在だ。十年以上も「すぐ手に取れる」本棚に自らの居場所を獲得し続けている何冊かがある。私に愛された……私を形作る一要素となった本たちである。

 楠本まき、岡崎京子、干刈あがた、彼女の本棚に並んだそういう作品が、彼女が私のことを好きになった理由だったらしい。読んでみた。十年間だけの作家生活で死んでしまった小説家であり、出てくる男がことごとく醜い作品ばかりの漫画家だったり、最悪にブルーな読後感を残すエンタメ作家であったり……そこに共通点はある。異常に「空白」が多いのだ。楠本まきの作品を読んだそのときまで、私は隣の家のお姉ちゃんが読んでいる少女漫画らしい少女漫画くらいしか少女漫画を読んだことがなかった。そのため、神経質的な極細の線で輪郭を描き、トーンをまったくといっていいほど使わない真っ白な画面にこそ驚いた。そして納得した。物事をシンプルなカタチに削っていくことに、彼女たちは美を見いだしている。

 人生で初めてのセックスよりも、お母さんが朝から煮込んだカレーのほうが「よかった」。そう語る岡崎京子作品の少女は、新しいことを知ったがゆえにシンプルなものの見方にたどり着いてしまう。やることがないから玄能を振り上げていた私は、確かにステージの上で自らを壊すように歌う『Kiss xxxx』の主人公の心持ちに似て、振りかぶっていたかもしれない。干刈あがた、というのがいまでもよくわからないが、全共闘の時代の息吹を残したままやたらと風景を愛でる傾向のある彼女の作風もまた、そういうことなのだろう。私は『ハチミツとクローバー』のなかに出てきた「空っぽの音」という表現に干刈あがたを思い出す。アニメの方ではやたらと強調されていたくるくる回る自転車の車輪の画を、私は確かに十代の頃、彼女の作品の中で見たのだ。

 そんなわけで少女漫画も読むようになった私は、美大で演劇を始め脚本を書き始めたとほぼ同時に腐れた小説を書くようになり、微々たる小金をそれで稼いでしまったので、その後の人生を「どっかでなんか書けねえかなあ」と思って生きるようになった。そもそも私の創作動機というのは玄能があったからそれを振り上げるといったところからはじまっているので、小説もそんな感じ。つきあった彼女の部屋にウィングスという雑誌が転がっていて、その小説賞がたった百五十枚の原稿で数十万の賞金だという。というわけで私はコミケにいったことがないどころか同人誌というものを読んだこともないのに「同人系」と呼ばれていたその雑誌に原稿を送り始めたわけで……なんといういい加減な人生。けれどまあとてもシンプルなことに、それから十年くらい、私はウィングスと格闘している。そもそも書き始めたことに動機がないので、悩む要素がないからだと思う。まわりで姿を消してゆく書き手さんたちを見ると、ほんとそう思う。


 そんな私の本棚で、楠本まきよりも、もっと手に取りやすい場所にある一冊が、

 峰倉かずや 『スティグマ』

 この漫画も総カラーなのに、白い。冒頭からエンディングまで余韻でできているような作品であり、ウィングスという雑誌を代表する作家の作品でもある。そもそもその雑誌の「ウィングス的」なるものを持たずにそれを書こうとし続けている私は「うーんこれはアリだろうか」と悩むたびに、開く一冊。ものさし、聖書。

 と、思っていたら、今朝の読売新聞に良いコラムがあった。引用しよう。

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 彼女の作品には男と男の恋愛ものが多い。いわゆる「BL」系。この種のマンガはたくさんあるが、大概つまらない。あまりに「つくりもの」じみているからだ。書き手と読み手に都合いい要素だけで、恋愛にしてしまおうとする。その点で、男性のポルノとよく似ている。
 よしながふみも絵的には優男の美男ばかり描く。しかし、彼女の作品が決定的にちがうのは、「つくりもの」っぽさを人の生きる一部にできるところだ。

 佐藤俊樹 『愛書日記』

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 彼女もウィングスを代表する書き手(ウィングス初の月9ドラマ化『西洋骨董洋菓子店』で雑誌の発行部数を飛躍的に伸ばした作家である。ちなみに佐藤氏のコラムは別の出版社から出ている『大奥』を評してのもの)の一人で、白い画面のトーンを使わない漫画描きだ。無言のコマが多い。余韻である。この評は、よしながふみ評であるが、ウィングス的なるものを指し示してもいる。

 冒頭引用のようなセリフが、大まじめに心に届く。どのページをめくっても一編の詩のようなセリフが並び、それを飾り付けるようなモノトーンのシンプルな絵が並ぶ。それでいてそこにはきちんと物語がある。銃撃戦でさえも、セックスでさえ、俯瞰で描き、ひどく淡泊ななんでもないページの一部にしてしまう。

 先日、流れたニュースに私は「あーあ」とつぶやいた。

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 集英社の文芸誌「すばる」8月号に掲載された作家、篠原一さんの小説「19℃のロリータ」が、1998年に祥伝社から刊行された漫画家楠本まきさんの漫画「致死量ドーリス」と類似していることが分かり、同社は「著作権上の問題がある」として、6日発売の同誌11月号におわびを掲載した。

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 篠原一は、17歳のとき『壊音 KAI-ON』により史上最年少で文学界新人賞を受賞した小説書き。その後、立教大学文学部に進学。立教大学大学院文学研究科ドイツ文学専攻博士課程に進んだが、現在休学中。十代の終わりに、近畿大学非常勤講師の男性と結婚している。本人が運営していた公式サイトは閉鎖中。

 十代で文学賞を受賞するケースは最近とても増えていて、それはむろん本を売るための話題作りの一環として「史上最年少」という言葉が、若い新規読者も獲得すれば「近頃の十代がなに考えてるんだかわからない」という大人の読者も獲得する魔法のように作用するからでもあるんだろうが、それと同時にこの手のニュースもひどく多くなってきた。篠原一は、受賞作にしてデビュー作『壊音 KAI-ON』からして盗作疑惑が取りざたされていたのだけれど、そのときの話はまだ、ストーリーに村上龍作品の影響が色濃く表れているという程度のものだった。私もそうだが、バブルの時代に村上龍を読んでいた小説書きは、多かれ少なかれ彼の影響は受けていると思うので、それはまあいい。

 が、近年の『誰がこまどりを殺したの?』と水城せとなの『ブレックファスト』、『サマータイム』と小野塚カホリの『LOGOS』、『スカボロフェア』と峰倉かずやの『スティグマ』、そしてとどめの『19℃のロリータ』と楠本まき『致死量ドーリス』にいたっては、もはや言い訳さえできるものではなく、編集部に問いつめられて本人も盗作を認めたんだという。

 盗作されたとされる作品の半分以上が自分の本棚にあって、その中の数冊を聖書のように愛でてウィングス的なるものを学習し、ウィングス小説大賞で編集部期待作など何度か獲っている私は、このニュースに関してそのへんのワイドショーのコメンテーターよりも的確に話せると思う。

 篠原一は、同人誌も書いている。そちらは本人も認めるとおり(そのあたりの発言がまずくてサイトを閉めたのだと思われる)、各種小説や漫画からの影響に満ちている。そもそも「やおい」とはそういうものだし、パクること=同人誌といっても過言ではない。しかしそんな中から、コピーしているうちに学習し、質の高いオリジナル作品を執筆し始める書き手たちがいた。二十世紀の終わり、そういった同人作家たちを集めて創刊されたのがウィングスであり、その後、各社は同じような新人発掘方法をとって、マンガが文学にとってかわる、とまでいわれるほど、それまでの「漫画的」なものとは質の違う作品が生まれ始め、また読者にも支持され始めた。

 十七歳の小説書きが書いた作品に、なんの影響も色濃く表れていない、なんてことはあり得ない。私も、安倍なつみと同じ過ちを十代の頃にしていた。目にとまったものと、自分の頭に浮かんだものを、ごちゃまぜにしてノートに書き記していたのである。いざなにかを書こうというときそのノートは非常に役に立つが、なにせ自分でもどの言葉が引用で、どの言葉が自分のものなのかがわからない。誰だって、最初は「空っぽ」だ。私はモノを書いてお金をもらうようになったとき、ノートを二冊に分けた。引用を記すノートには、作品と作者を明記するようにしたのである。いまでもこの『徒然』に冒頭引用する言葉はそのノートから引く。

 彼女たちは、そこでまあいいか、と思ってしまった。そして彼女たちは、とても有名人だった。自分で思っている以上に。私が美術室で玄能を振り上げて作った作品は、大学入学試験の作品面接に持っていったが、それを見て審査員だった某アーティストが言った。「ステラだね」。そしてこう言ってもくれた。「まあ、ここから自分の作品になっていくのだろう。それにしても、よくこんな大きなもの作ったな」。笑って。恥ずかしくてうれしかった。それが文学賞の選考会で、もしも審査員が文学者であって少女漫画やましてBLなど読んだこともなく「これはすばらしい才能だ」と拍手してしまうことを考えると、実に怖い。そしてそういうことは、簡単に起こりえるものだと、思う。

 篠原一『スカボロフェア』と峰倉かずやの『スティグマ』は、そういう意味で、完全な罪だ。見比べればわかるが、彼女は『スティグマ』を片手に持ち、読みながら書いている。私は自分の書いたものがウィングス的に許容されるかどうかを計るために同じ作品を手に取るが、真似ようとしたことは一度もない。それは絶対に楽しくない作業のはずだから。自分のオリジナルが書けるほど力量があれば、多大な労力を払ってほかのバンドの曲をコピーするなんて無意味だと誰だってわかる。それなのに彼女はやった。そしてついに朝刊の記事になるレベルまで罪を重ねてしまった。

 どこへ進めばいいのかわからなくなったとき、聖書を開くのは良き行いだ。過去のだれかの作品なくして、現代のだれかの新しい作品などあり得ない。文学だろうがエンタメだろうが、それらは絶えず進化している。私は、作り手の心がこもっていなければ作品に心が宿らないとは思わない。読み手の心を動かす作法は「技術」であり、それは旧時代の職人から新時代の職人が継承するものである。人の一生など短い。

 魅せ方、を確認するためにだけ聖書を開かなくてはならない。
 「これ」を魅せるにはどういった技術が必要かをパクるのだ。
 その「これ」までもをパクろうとした、彼女はなにがしたかったんだろう。締め切りがあるけれどなにも書けないから? 作品を発表し、お金と読者の声が戻ってくる関係が欲しかったのだろうか。いやたぶん、そんなに深く考えていなかったのだと思う。彼女にとってそれが書くことだったのだろう。もともとそうで、しかし文学者としてデビューしてしまった。彼女が同人誌界で同じ作品を発表したなら、それはアリだった。お金も読者からの声も、そこでだって手にはいる。彼女は、自分がいる場所を認識できていなかった。

 もう表舞台では書けないだろう彼女が、旦那さんともうまくやって、しあわせに「若い頃恥ずかしいことやっちゃって」と笑いながら同人誌や官能小説などの舞台に舞い戻ってくることを願ってやまない。とても彼女を近く感じる。なぜ文学なんて方向に行ってしまったのかと非常に残念に思う。BLの世界では、ストーリーの確信犯的なパクりも許容される。エンタメにおいては、読者が昂奮したかどうかだけがすべてだ。良くできたアクション映画によく似たB級映画が量産されることは、消費者にとって至福なことであるのだから善だ。だれもそれを責めない。『スティグマ』によく似た別の作品が描けるなら、文学界では罪になるのだとしても、私は興味本位でそれを読んでみたい。『スティグマ』と同じように心に届くものがあるのなら、パクりでもなんでもいいと思う。それを作っただれかを、絶賛する。

 創作の基本はマスターベーションだと思う。
 それをどうカタチにするかなど考える時点でおかしなことなんだが、人類はここ百年くらいをかけて、それを成り立たせた。最近では、びっくりするほどおもしろくない映画なんてものは少ない。九割の魅せ方はすでに確立され、残りの一割に作者の色づけがある。すでにあらかたの技術が確立された現代では、創作とは「選択」と呼べる。マニアックな作品しか書けない、なんて作家は旧時代のものだ。現代ではそれを文学者と呼ぶ。いま、ウィングス的なものを書こうとする書き手のすべてが「その技法を選択した」作家。「BL」という手法もそう。あらゆるジャンルがそう。同人誌、という技法を選択したのに、同時に文学者を目指してしまった彼女は矛盾に満ちた選択ミスをしたと思う。

 最後にまた引用しようか。

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 君がもうその眼に映せなくなった
 青い空を探しに
 僕らはまた歩き出した
 今君が見ている暗闇に今度は
 僕が道標を灯そう
 手を繋いで 放さないように
 どんなに遠くても小さくても
 見失ったりしないように──

 峰倉かずや 『スティグマ』

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 さあ、書ける人は書こう。
 気持ちよくなることにも、最低限のルールはある。
 隣でオナってる人をつっつかない、とかそんなこと。
 難しいことじゃないんだが。
 いったん見失うと、サルみたいにやっちまうのがヒトだ。
 自戒して酔いしれましょう。


 




 
「そしてたぶん」アグネスが、考え考えいった。「その数多い枝のすべてが死んだとき、最終的に人は木全体の形と美しさによって判断されるのね」
「枝が少なすぎるのは」マリアがいった。「論理的に誤った決断をくだした数は称賛に値するほど少ないけれど、同時に、責任を負う危険を避けて、人生という贈り物をじゅうぶんに活用しなかったことを意味するのかもしれない」


 ディーン・クーンツ 『サイレント・アイズ』
 
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 電脳空間(サイバー・スペース)という言葉を発明したことで有名なサイバー・パンクの生き神ウィリアム・ギブスンは、『攻殻機動隊』がパクった擬態ポリカーボンや人脳ハッキング人形使い、『マトリックス』がパクったマトリックス空間や聖域ザイオンなどの発明者として近年さらに名を高めたが、彼の代名詞のようなその言葉は、彼以外には使いこなせない抽象的な概念であるゆえに、ギブスン読者以外にはあまり認知されていない。

 結節点(ノーダル・ポイント)。

 たとえば鉄道結節点とは、地上に枝葉のように走る線路と線路がつながっている場所を指す。ギブスンはその言葉を、SF世界に持ち込んだ。時代の結節点を視ることのできる能力者が、彼の「新電脳三部作」と呼ばれる作品群のヒロインである。

VL

あいどる

FM

 時代の結節点という発明は、それまでSFで盛んに使われていた並列世界という概念を様変わりさせた。そのことを如実に感じさせてくれるのが、日本における巨匠クーンツの最新刊(涙に濡れる諸事情によってこの国での最新刊はクーンツ2000年の作だ。加速して追いつくんだ講談社と田中一江サマ(訳者))。

 『サイレント・アイズ』

 原題は『From the Corner of His Eye』……彼の瞳の隅で?……私は無神論者で私の実家にも神棚はないが、祖父母は浄土真宗のお経をうたう。そういう頭では、このタイトルはぴんとこないところがあって、それを見越して田中一江サマは『サイレント・アイズ』という邦題にしたのだろうと思う。輪廻転生の上に成り立つ大自然と八百万の神の文化には「彼」と呼ぶべき天から我々を見下ろす視点は存在しないから。

 クーンツのつけた原題の言わんとするところは「彼はとても忙しくて何もかもをきちんと見つめていることなどできないけれど、でもやっぱり世界のすべてを視界の隅にはとらえているんだよ」ということなんだろうと思う。ちょっと皮肉な見方でキリスト教文化を見つめる仏壇文化の私たちは、その表現に苦笑してしまう。

 万能の絶対神という存在がいるならば、なぜこの世に涙する者が生まれるのだろうか──「視界の隅では見ている」という考え方は、万能という言葉とは相容れないはずだが「それでも彼はちゃんといる」と納得する正常で人間的な矛盾に満ちていて素敵だ。彼は概ね非道いけど、でもあたしには優しいことがあるんだ。えへっ……信じているうちは、破綻はない。毎日のようにテロだ地震だ今週は世界で何万人死んだ、なんて新聞を読んでいると、ちょっと視界の隅で見てちょっと優しいときもあるくらいでは、彼のことを信じられなくなってしまいそうな時代ではあると思うが。

 そんな時代に突入する前世紀の終わりと新世紀の初め、クーンツはこれを書いたのだ。

 それまでの数年を、サスペンスやホラーのジャンルで書き続けていたのに、そのキリスト教的時代の節目に、彼は彼を「ミクストジャンルの帝王」と世間に言わしめたかつての作風を呼び戻してきた。

 超自然能力者あらわる。その存在によって、クーンツ作品は予想できないものになる。愛と正義の人であり、絶対のハッピーエンドを信条とする作家であるのに、彼が世界的な支持を受ける「意外性」に満ちたストーリーテラーである根拠がここに。クーンツ作品は、あらゆるジャンルの垣根を越え……ここが大事なのだが……越えなかったりもするのである。

 サスペンスがサスペンスのままで終わることも多い。けれど、たまに超常現象によって事件が解決したりもする。SF的な超近代兵器で事件を解決したりもする。クーンツ作品に完全な密室は存在しない。彼の作品には、いつでも「万能」の彼が存在しているのだから。なんでもありの世界で先を読むことはできないのだ。この世界がそうであるのと同じように。

 『サイレント・アイズ』の主人公は三人いる。
 生ける「悪」、イーノック・ジュニア・ケイン。その悪意は冒頭から理由もなく愛している妻を惨殺するところからフルスロットルで表現される。クーンツ作品でおなじみ「哀しみの書」が今回は登場しないかわりに、ジュニアはシーザー・ゼッド博士の全著作を車に積んで逃亡生活を送る。ゼッド博士の代表作は『あなたは幸せになる権利がある』。ジュニアはゼッド博士の言葉を信奉し、自らを高めてゆく。幸せを追求し、その過程では殺人もレイプもおかまいなし。
 あと二人の主人公はお子様。
 ジュニアにレイプされた少女セラフィムの娘、エンジェル・ホワイトという名の黒人幼女。
 父の死とともに生まれたバーソロミュー・ランピオンという名の白人少年。

 バーソロミュー、というのはキリスト十二使徒のひとり「聖バルトマイ」の英語読み。セラフィムも、エンジェルも、いうまでもなく天使。登場人物の名前を見ただけで、クーンツがなにを書こうとしているのかがわかる。

 『サイレント・アイズ』はクーンツの書く聖書だ。

 文庫本で上下刊各1100円。京極夏彦も色あせる、あわせて1200枚の大長編である。よって見た目も聖書なみに分厚いのだが、その内容もまったくもってそれである。愛と正義の物語が、いくつかの事件と、それを解決する奇跡によって人を心酔させる物語をかたち作っている。ネタバレでもなんでもなく、当たり前にバーソロミューは超能力少年で、悪は結果的に打ち倒される。クーンツ作品の通例だが、そんなラストは、読者を酔わせるためのエッセンスにすぎない。悪が去ったあとに生ける人々を描写する。それこそがクーンツだ。もちろん、そこにはゴールデン・レトリーバーも出てくる(笑)。電車の中で下巻を読んではいけない。私は涙を浮かべて前の座席の人と目があってとても気まずい思いをした。

 それはさておき、結節点の話に戻る。この世界と並行する別の世界があるというのがギブスン以前のパラレルワールドの定義だったのだが、結節点という概念でそれは変わった。並んで走るいくつかの世界は並行ではあるが、平行ではない。そこに結節点があり、分かれた世界からまた新たな世界が生まれるのならば、その姿の全体を見渡したとき、それは末広がりのいくつもの支流を持った川のようになるはずなのだ……細かな枝をいくつも天に向けてのばす、オークの木の姿に似て。

 クーンツが七十年代に……つまりギブスンが結節点の概念を発明した八十年代以前に……書いた並行世界ものといえば『ブルーノ』が思い起こされる。それは別世界からやってきたトレンチコートを着た熊(!)の警官が、同じく異世界からやってきた犯罪者を「この世界の」人間の青年とともに追いつめるという掌編である。あらすじを聞いただけでもわかるとおり、その当時のクーンツ先生の頭の中にあったパラレルワールドとは、人間さえも存在しないまったくの別世界がこの世界と並行に存在している、という古き良きSFの伝統を踏襲したものだった。

 そして2000年。ミレニアムの年に書かれたクーンツ最新の並列世界ものには、ギブスンばりの能力者、バーソロミューが登場する。

 彼には結節点は見えない。しかし彼は、すでに生まれた隣の世界を感じることができる。雨降りしきるこちらの世界の中で、雨の降っていない世界の中を一瞬だけ通って、濡れずに歩くことができる。だがその能力はギブスン作品の主人公がそうであったように、やはり現実的にはなんの意味もないのである。結節点が見えたからといって、世界を思い通りに動かせるわけではない……その無意味さを、愛と正義の人、マスター・ディーン・クーンツは、素敵に利用する(余談だが、ギブスンの『新電脳三部作』を指して「結節点を視ることのできる能力者を登場させるなら、その能力で時代を動かす物語にするべきだった。あのシリーズはSFとしてパンチが足りない」と評する人は多い。しかし、私はそういうギブスンが好きだ。わかっていてもどうにもならないのがこの世のおもしろさじゃないか? 遠吠えか?(笑))。

 こう考えてみてはどうだろう。
 結節点の先に、二つの世界が生まれる。その世界はそれぞれにまた枝葉のように分かれる。天に向かって枝をのばすオークの木のように人それぞれの大木が育ち、それぞれの木が集まって森ができているのが世界だ。その考えに依れば結節点で分かれた片方の世界では、あなたの愛する者が亡くなっているが、もう片方の世界では生きている。もしも結節点で選ぶことができるのならば、あなたは迷わず愛する者の生きる世界を進むだろうが、それでももう片方の世界は消えたわけではないし、その世界で愛する者の死に絶望するあなたも消えない。

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「ときどき、ここではさみしいことがあるよ、ママ。でも、ほかのいろんな場所ではさみしくない。パパがママやぼくといっしょにいて、ぼくたちはいまよりもしあわせで、なにもかもうまくいっているところがいっぱいある」


 ディーン・クーンツ 『サイレント・アイズ』
 
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 バーソロミューは、別の世界で生きている父親を感じる。ということはいま自分がいる世界は誤った側の世界のはずで、実際、ほかの世界でなにがうまくいっていようがなかろうが、この世界での現実は変わらない。だが、うまくいっている世界があると思うことで涙が止まる。ママに抱きしめられる少年は、幸せだ。それは矛盾ではない。愛らしい少女、エンジェルを見たすべての人が思う。セラフィムがレイプされなかった世界があるならばその世界こそが正しいに違いないが、だとすれば生まれなかったエンジェルを、いま私は愛することができない。

 この難問に、クーンツはあっさりと回答を提示する。

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 すべての人の生涯は、深く、複雑にからみあっているものだ──死んだ人も生きている人も、まだ生まれていない世代の人も──だから、全人類の運命は個人の運命であり、人類の希望は、すべての人の心とすべての人の両手に託されている。したがって、人は一度失敗しても、成功に向かって再度がんばらなければならないのだし、ひとつのことが行き止まりにぶちあたったら、なにかもっと新しくていいことを灰の中から築きあげなければならない。苦痛と悲しみから希望を紡ぎ出さなければならないように。というのも、人はひとりひとりが、人類というタペストリーを強くするために──生き残るという、まさにその目的のために──欠かせない糸なのだから。


 ディーン・クーンツ 『サイレント・アイズ』
 
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 自分のいる片隅を照らせ。そうすれば、世界を照らすであろう……神は万能だがなにぶん忙しい。彼が視界の片隅で、気づくことができるように私は私がここにいるのだと明るく照らし続けなければいけないのだ。もしもすべての片隅が、すべての人類の心がけによって明るく照らし出されれば、世界中が明るくなって注意散漫な忙しい彼も、いまよりはもう少しよく世界を見渡せるようになって、よい仕事をしてくれるはずだ。彼が私を殴るのは私のせいだという発想は、とりあえず捨てよう。彼がその愛の力のすべてを発揮できるように、私は笑顔で歌うのだ……いま思い出したが、私はキリスト教系の幼稚園に通っていて劇で三賢者の一人をやったことがあった。幼い頃にきちんとその意味は教えられていたはずだが、本当に賛美歌を歌う意味というのを理解したのは、さっきクーンツを読み終えたから。卒園式でもらってどこかへ行った聖書なんかよりも、ずっとクーンツはキリスト教精神の伝道者として活躍している。私はなにかを信じるつもりはないが、その考え方は、嫌いじゃないな、と思った。

 『サイレント・アイズ』は、短編ながらこれをクーンツのベストだと言う人も多い『黎明』で投じた問いへの、自らで出した回答でもある。その短編の中で、クーンツは無神論者の男が、妻を亡くし、息子を亡くしたはてに、無神論者のまま、この世界の理不尽さに折り合いをつける場面を描いた。

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 ”過去というのは、始まりの始まりに過ぎない。現在やそれ以前のすべてのことは、いわば夜明け前の黎明である”。
 もちろんウェルズが書いているのは世界史と、人類を待ち受ける遙かな未来のことだ。しかしこの言葉は、人間の死と、それに続く謎めいた再生のことをいっているようにもとれる。百年生きる人もいるかもしれないが、それでもその長い人生は夜明け前の黎明に過ぎない、と。


 ディーン・R・クーンツ 『黎明』
 
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 ……それに続く……彼は愛する者の死を「まったくの自然のもの」だと定義したうえで、この考えに至る。死という自然があり、けれど「どこかにいる」愛する者の魂も信じる。彼は教会に行くようにはならない。かといって仏教徒にもならない。悲しみながら、けれど生きるのだ。この黎明に。

 クーンツの書いた聖書『サイレント・アイズ』には、クーンツ・フリークならば見逃せない点がひとつある。前作『汚辱のゲーム』まで、作品の前文として必ず登場していた架空の書物「哀しみの書」がない、ということも目を惹くが、それよりももっと気になる点。装丁では混乱しないためだろう、変更されていないものの、原文のクレジットにそれが明記されている。

 Copyright by Dean R. Koontz

 ──なにかの気まぐれだろうか。いや──前作とがらりと変わったミレニアム越えの作品内容からして「哀しみの書」を今回は使わなかったこともあり、単なる気まぐれだとは思えない。クーンツ・フリークのあいだでは知れ渡った話だが「ディーン」と「クーンツ」のあいだの「R.」は、クーンツの父親レイの「R.」だ。

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 暴力沙汰も、ひどくなる一方だった。ぼくを刺そうとしたことも二回ある。二回目のときは、手にしたナイフをとりあげるのに大騒ぎだったよ。人前での出来事だったから、誰かが警察を呼んだ。父は精神病棟でしばらく過ごし、その後、老人ホームに移った。悲しい話だけど、四十年以上にわたる年月の中で、父に関する楽しい思い出はひとつも浮かばないんだ。暗い思い出ばかりさ。


 エド・ゴーマン×ディーン・R・クーンツ インタビュー
 
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 1991年の夏、クーンツの父は死んだ。その翌年に発表された『ドラゴン・ティアーズ』から、クーンツは「ディーン・クーンツ」とクレジットするようになる。本人は「R.が装丁の中で収まりが悪いから」と言ったらしいが、あきらかに父の死に起因しているものと思われる。働くことをやめ酒と暴力とあまたの浮気に彩られた「R.」の遺伝子を残すことが怖くて自分自身、妻とのあいだに子供を作らないようにしているとクーンツは告白している。愛と正義の人は、自分の中の劣性遺伝子に怯えきっていたがゆえに形成されたのだ。そして一方、母親が人工授精によって叔父の精子提供を受けたのではないかという疑いを、結局、叔父の死まで確認できなかったクーンツは、いまだに自分の父が実父だったのかを疑っている。

 自分の中の悪に怯える主人公。
 研究所で作られたアイデンティティーを持たない人工生命体。

 クーンツがのし上がっていった時代の主要テーマは「犬を飼う余裕なんて子供時代のぼくの家にはなかった」彼が子供を作らずにゴールデン・レトリーバーを飼い、作品中にたびたびその犬を登場させるのと同様に、まったくのフィクションとは呼べない生々しさがある。そしてそれらのテーマを手放し、サスペンス調の作品が増えていった九十年代、クーンツの名から「R.」が消えたことには、切なささえ感じさせるクーンツの自らの人生と血脈に対する葛藤が見て取れる。

 時は過ぎ去り、新世紀。
 聖書と聖人をモチーフに希望に満ちた物語を紡いで私を喜ばせ泣かせた、クーンツの名に「R.」がつけられたのはどういう意味なんだろうか? 背表紙はディーン・クーンツのままだし、公式サイトも「ディーン・クーンツ・オフィシャルサイト」のままだが、ひっそりと作品名義だけが昔のように「R.」に戻っている。なにかの決意のように、私には見えてならない。

 この国での発刊が五年も遅れたことで、それは不幸なことだが幸せな面もある。向こう五年、クーンツは毎年作品を発表しているしベストセラーも出している。大好きな作家がいい作品を書いてくれている未来がすでに視えているこの一時的な能力は、待つにしたって非常にストレスが溜まらずにすむ。幸せだ。

 「そろそろあなたも歴史に残すような作品を書くべきじゃないの?」と手紙してきたかつての恩師に、クーンツが言った言葉。

「その時代の娯楽小説が、あとになって歴史に名を残す名作と呼ばれるのさ」

 その時代、いくつもの並列世界のなかに存在する一つの枝道で、そこにいる自分と格闘しながら、なにかを見つけ、なにかと折り合いをつけ、読者を楽しませる作品を書くことを心がける──まさにそれこそが、小説書きにとっての「この片隅を照らす」行為なんだ。とクーンツ作品に触れると信じられる。今朝の新聞も、まるでこの世が終わりない闇夜のなかにあるような記事で埋め尽くされている。だとしても、ささやかな希望はもてる。

 この指先でも、世界を照らせるのだ。
 ほのかな、片隅を照らすだけの明かりでも。
 それが紡ぎの糸になる。

(追記……今回の私の『徒然』を読むとなんだかクーンツの新刊が説教くさい本のように思えるかもしれないが、それはあなたがクーンツを知らないから。文庫本の帯にかかれた宣伝文句を引用しておこう……「パワーアップした王者クーンツ待望の新作」「1ページ先は予測不能。異能の巨匠クーンツが帰ってきた!」「みんなまともな奴じゃない」「神童vs殺人鬼。鬼才クーンツの魅力全開!」「ノンストップ・サスペンスの本家クーンツ。魅力全開!」……すべて誇大広告ではなく、純然たる真実。聖書じみたメッセージをノンストップで読ませる職人技はもはや崇め奉りたいほど。クーンツ作品はものによってまったく色合いが違うので、ある一冊が肌に合わなかったために次の一冊を読まなくなる人が多いのだが(二千円オーバーの文庫本はなかなかフリーク以外には買いにくいしね)、今回はまさに「R.」時代のクーンツ的魅力全開である。私もしばらくは、この作品からパクった各種キャラでキャラ造形には困らないだろう。まともでないキャラとジェットコースターストーリーで王道のメッセージ。娯楽小説の神業の一つがここに。自信を持ってお薦めします)

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