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「同性しか愛せないということは、その連鎖を自分の代で絶つということだよ。四十億年の生命の歴史に対する罪だ」


 いつき朔夜 『八月の略奪者』

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(当サイトBBS『伝言』にもよく訪れてくださいます。うれしい。)

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 ……罪ってナゼ甘い香りがするのでしょう。
 罪ってステキ。
 罪に触れたい。

 今回の『徒然』は数ヶ月に一度来る、興味のないひとにはまったく興味のないお話なので「ああこれつまんない」というひとは読み飛ばしてください。

 新しいのを書きはじめた(ジュブナイルのほうです)お話。
 主人公の少年の名前がいまだ決まらず。いいのないかな……ビジュアル的には、左眉に迷彩されたジャック(差込穴)を持ち、左の鎖骨がクリスタルに改造されていて電光掲示板内蔵……自閉症気味なんです。他人と喋るにはもごもごって口の中で言って、鎖骨掲示板で表示するんです。まあ毎度のことだがいまはまだ明かすことのできない(おそらくジュブナイル的に前例のない)特殊能力ありで(笑・ていうかガラスの鎖骨電光掲示板少年もたぶん例をみない)。キャラがキワモノっぽくなればなるほど名前に悩むんだよなあ……内気で、でも芯のある、それでいて愛らしい(よくばり)感じのがいいんだけれど。思いつかない。まあ年に何回もわが子の命名に悩むことができるだなんて、考えようによってはうれしたのしなことでもあるのですが。

 しっかし。いつのまにかD用に書いた原稿の評価がもっとも低いという事態なわけで(あったのですよ発表が。もう散々)。Dが路線変更してから「BL度が低い」と門前払いだったので、今回はほかのBL誌のために書いているような直球のを投げてみたのですが、かすりもしねえ(BL度が低いという評価はなくなりましたが)。WのためにDにもアピールしていたのに、これではまったくの逆効果ではないか、とはたと気づき、ひさしぶりに雑誌Dを最初から最後まで通読してみました。

 で、D新世代のキリコミ隊長、いつきセンセの作品など読んでいるとですね、これがまたこれまでのいつき作品とはひと味違って唸らされてしまったわけでして。シュラフのシーンがぐっときました。ものすごいお約束なんだけれど、その恋する人間のとっちらかった感じが、実にね。萌える。

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 起承転結はもちろん大切。でももっと重要なことは、そこに「ドキドキ」があるかどうかです。BL小説はいわば「萌え文学」

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 ──ありがたいD編集部のお言葉。な? ってなにが。な? なのかといえば。ぶっちゃけたところ、私は男同士の恋愛になど興味ないしセックスにも興味ないし、まったくもって萌えないのである。ああ渋いオッサンを愛でるのは好きだが、性の対象としてはキレーなおねーさんのほうが好きだっていうかオッサンではイケない(実地でためしたことはないけれど)。『八月の略奪者』のセリフじゃないが、男は欲情しているフリもしていないフリもできないのである。私はBL読んで海綿体を熱くさせたことがない。

 さて、そんな私は今後、Dに向かってなに書いていけばよいのか。あなたの萌えをぶつけろと言われてもそんなものないのだからぶつけようがなく。起承転結もエロも大事だがなにより「萌え文学」として……たぶん、私には書く資格がない。なんかノケモノチックなんですけれど。Dに拒絶されている自分を感じずにいられないのですけれど。Dではいっさい書かないW作家って方向性はありなんでしょうか、そこ目指してイイですか。過去に何人かの前例はありますよね。ていうかDの変化のスピードを見ていると、Wに向けて書いているものさえ「このままでいいのだろうか」と自信を喪失してゆきます。

 『ボーイズジャム』新創刊おめでとうございます。ヲトメもはぢらう(ハート)ジューシーエッチなボーイズラブアンソロジー創刊!! 気持ちイイ(ハート)エロ、はじめました!! ……ほお。『ウンポコ』といい、この出版社が新創刊を出すたびにまがりなりにも書ける場所が広がっていっているはずなのに、なんだかどんどん追いつめられていく心境なのはなんででしょうか(笑)。笑ってる場合じゃないですが。

 Dもリニューアルおめでとうございます。「成り下がった」印象を受けたのは私だけでしょうか。

 で、考えていて。
 さっきのシュラフのシーンなんだけれど。主人公が恋している彼から、彼の友人の寝袋をわたされて、一度はそれにくるまったけれど嫉妬心がわいて「とりかえろ」と彼に詰め寄り、けれど取り替えてみたら、彼がその友人の寝袋にくるまれていることにまた嫉妬してしまってまた「とりかえろ」と……主人公、高校生だから。微笑ましいんですよね、読んでいて。まあ、私がホームセンターのカー&レジャー担当で、来週のチラシの780円シュラフを初日から欠品させていて、いま現在「シュラフ」という言葉に非常に敏感になっている、というところもあるんですけれど。だってチラシの前日に棚に並べたら、小学校の林間学校があるとかいってまとめ買いされたんだよ。売れませんとも言えないし。ああ、また「今朝の広告の品じゃないのないってなによ詐欺っ?」ってののしられて謝りたおすんだ。ああブルーだ。小学校は林間学校のしおりに「シュラフを用意」と書いたなら近所のホームセンターのレジャー担当者に知らせてくれるべきだと思う。ほんと切実に。

 話がそれた。
 そのシーンに(シュラフに対する思い入れがあったにせよ)萌えることのできた私は、そこを足がかりに次へ進もうと思ったのだった。ていうかねえ、やっぱり路線変更してからのD、濡れ場はほとんど飛ばし読みしてしまう自分に気づいたんだね、私。それによってBL新創刊をリリースし本誌リニューアルするほど波に乗りだした出版社なのだけれど、やっぱり私がここに魅力を感じるのって、まったくノンケの男でも「読める」BL雑誌を作っていたり、少女小説でも少年小説でもないジュヴナイルを発信している本屋さんだから。

 同じことをやっても勝てないならば別のことをせざるをえず、さて別のこととはなんであろうかと考えたときに、たどりつくのは「もともとほぼ100%女性作家なワールドで私は男」ということで。せつない恋心を表現したシーンは、読者の性別もヒロインの性別も無関係にうったえかける、そこに逆説的に立ち現われる真実とは「シーンの力」は、ほぼ最強の作品能力であるということ。つまるところ、ちらりと見たテレビの画面に釘付けになるというその一瞬の破壊力で勝負するならば、私は絶対的に優位だ。

 前クールのテレビ番組が終了するこの時期、なにがよかった? といま訊かれるならば、私は断言する。今回は『フタコイオルタナティブ』が飛び抜けてよかったと。男性向けライトノベルである原作『双恋』をアニメ化した第一弾『双恋』は散々なデキで途中で観ることをやめてしまったのだが、同じ原作をまったくの別手法で創り上げた『フタコイオルタナティブ』はまったく期待せずに観はじめたものの、今期最大の収穫だった。ちょうど、私がディテクティブ(探偵)ものを書いていたのと重なったという部分もあるんだろうけれど(そしてイカ大王大活躍のラスト三話ほどはいらなかった気もするんだけれど)。作品的に失敗だったという向きもあるだろうが、私はこのアニメを観ながら本当に目の醒める思いだった。ヒロインが双子であるということももはやまったく関係なく「三人でいたい」という主人公の叫びにも共感できず、それでも魅入ってしまったのは、純粋に力のあるシーンが連続して描けていたから。

 少女が涙する。
 主人公が吠える。

 理由には共感できなくてもいい。感動は共感から生まれるんじゃない。感動を喚起させるのは圧倒だ。作品世界に引き込み、とらえてのめり込ませる描写だ。よくできたアクション映画が感動を与えるのは、アクションが描けているから。一時間半のアクションの連続に魅入った観客は、別に好みでもないし共感もできないヒロインであっても、それが救われて、ヒーローと抱き合い、キスをすれば立ち上がってブラボーと涙を流す。逆にいえば、どんなに共感できる恋愛感情が描かれていても、のめり込めるシーンのない作品で、人は心を揺さぶられることはない。

 前後の状況も、登場人物の素性も、まったくわからなくても、良いシーンは客を魅了する。
 男性ヒロインな小説を読むノンケな男性読者であっても、ほかの男の匂いにくるまれた恋する相手からシュラフを奪い取るシーンには、魅入ってしまう。それは好みうんぬんの話ではなく、単に、名画のワンシーンはそこだけとっても名画であるということにすぎない。美人は小鼻だけでもきれいだとかそういうことだ。違うような気もするが。そうなのだ(という思いこみが、新しいものを書きはじめる瞬間には必要だ。特に三分の一の確率で通る最終選考を通過できなかった直後に、それでも落ち込むヒマもなく書かねば間に合わないというようなときには・涙)。

 そしてふと思い出す。
 『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』

 いまも活躍中の菅野ひろゆき氏が剣乃ゆきひろの名で書いた最後の作品にして、ゲーム世界の歴史の結節点(ノーダルポイント)。エロアドベンチャーゲーム、通称ギャルゲーと呼ばれるジャンルに属しながら、大作SF(ファンタジーか)。本当にうちふるえるほど感動した。幼き日から、大人になったいままで、分け隔てなく海外SFからC級ボーイズラブ誌のエセファンタジーまで読み込んでいる、私にとってなお『YU-NO』は世界に誇っていい純国産SFの最高峰である。某オタク系フィギュアでアート界の寵児となったヒゲの芸術家さんではないが、ギャルゲーであるという前提なしにクリーンな眼を持ってそれに触れたとき、うちふるえる感動を手にできるひとは世界中にいるだろうに、それがギャルゲーであるがゆえに触れることなく素通りしてゆくひとのなんと多いことか(オリジナルのPC98版はもう手に入れようもなく、Win版は流通していない。ということでサターン版を本体ごと電気屋街でさがすのが発見確率的にも価格的にもベストだろう。出来も良いし)。

 『フタコイオルタナティブ』は萌え美少女キャラを使って描かれた良質のせつない探偵ものだった。私はこういう世界に長くいてBL書いてまでいる男性なのでこうやって躊躇なく良いと思ったものを良いとすすめるが、多くの「え、これってあの大作映画なんかより、あのドラマなんかより、ずっと観る価値のあるものだよ」と思ったやつらは、まったく違う属性のひとにまで、自分の良いと思ったものをすすめようとはしない。

 良い美少女ものや、良いBLものや、良いアブノーマルポルノなんかは、その世界に棲む人たちに「いいなあ」と絶賛されながら、その世界の外へ行くことなく消費されて終わる。

 もったいない。
 真に名作だといわれるものはまれに時代を超えてゆくが(『YU-NO』でもおなじみエルフさんがこのたび発売する『花と蛇』もそう。たやすく想像できると思うが、私は団鬼六先生を敬愛しているので浣腸液はグリスではなく石けん液派)、過半数の人々の理解の範疇を越えるようなものだといかに狭い業界で絶賛されても、時代には残らない。
 残らないはずなのに、でも人の嗜好は一極化することはない。
 メイドブームはヲタ視されがちだが、あれは過半数の人々が「でも萌えている人たちがなにに萌えているのかはわかる」から許容されるのである。
 ブルセラショップもそうだ。
 ボーイズラブも、衆人の前で殴り合う格闘技って見せ物もそうだ。
 昨日もロリータポルノをBBSに掲示して逮捕された人がいたが、捕まるってことは、それが罪だと理解されているからである。
 団鬼六のなにが偉大だといって、排泄萌えが「普遍の美」だと言い切ったことである。
 そしてそれは支持され、歴史が許容した。

 すでに許容されたBLというジャンルで、なんの罪を描けばいい?
 私は確信しているが、最終選考ではじかれた理由は、この御時世に「自分の焼けこげた腕を喰って生き延びようかどうしようか」悩む主人公の葛藤がラストの見せ場だったことに対する「そりゃ許容できねえ」という判断だったのだと思う。
 というわけで私はいま自らの瞳をえぐり出してズームレンズを右目に埋め込んだ萌え女子中学生と鎖骨電光掲示板少年の物語を書いている。
 まあ、いいや(笑)。
 書いているうちになんのはなしかわからなくなりました。
 いつもそう。

 結局、ああそれもダメかでもじゃあこんなのはどう?
 と書き続けるしかないわけで。
 書いてます。
 私は元気。

 台風が来る。
 身近で立て続けにこの一ヶ月、車を大破させた友人がひとり、バイクを大破させた友人がひとり、ビッグスクーターを廃車にしたのがひとり──そういう時期らしいので、曇り空のなか降り始めるのだろうか雨を心配しながらバイクで出かける私も気をつけよう(奇跡的に愛車を潰した全員が、本人は無傷。マシンへの愛はそうやって返ってくるのかもしれない)。

「事故って連鎖するからなあ」

 と話していたら友人が事故ったりした今月なので、これを読んだあなたも気をつけてください。
 私はあなたに読んでもらうため、書いているのですから。
 それをなくさないで。
 待っていて。
 愛してる。

 よし、続き書いてくる。



 使用者は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり療養のために休業する期間及びその後30日間並びに産前産後の女性が第65条の規定によつて休業する期間及びその後30日間は、解雇してはならない。


 労働基準法19条1項本文より抜粋。

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 プロレス話が続いてなんですが。
 まあ、なにせ素晴らしかったので呟かせて。

 三沢光晴NOAH社長は調子に乗ってTVゲームのモーションキャプチャー撮影時に、志賀賢太郎の首を負傷させて長期欠場の原因を作ってしまったことでタイガードライバー’91という敵を脳天から真っ逆さまに落とすという技を封印中なわけで。志賀賢太郎といえば身長はあるのに痩せすぎていていじめられキャラで、ダイビングボディプレスを足から着地してファンの失笑を買うようなコで、関係者とファンのすべてが「あと二十……いやせめて十キロ太って欲しい」と願望というよりも志賀賢太郎本人があまりに不憫で応援せずにいられないというプロレスラーとしてはまったくもってダメなやつなんですが、なにせ社長の技を(しかもリング外で。ふかふかのマットの上でキャプってたはずなのに……まあそれで社長も危険すぎる角度でイッちゃんだろうけれど。ゲームなんだからデザイナーに「あとでもうちょっと危険な感じで手直ししといて」と頼めばいいことなんだが、撮影って言われちゃってるからがんばっちゃったんだな。さすがリアルさを創造する芸人プロレスラー)くらって長期欠場なわけで、まぎれもない「業務上の負傷」。NOAHも志賀くんをクビにはできません。

 先日の選手会興業(BL系サイトでもよく話題に上がります、志賀賢太郎の兄貴分でもある秋山準選手が仕切ってた。最近ヒゲが定着してきたヅンさまは、この選手会興業でも小橋建太取締役とのトークショーでホモネタに走っておりました。会場から黄色い声があがっていたので、ヅンさまの目論見は確実にNOAHファンに腐れ女子層を上積みしているようです。ファンの期待には応える。それが一流のプロレスラー。素敵)で、ひさしぶりに志賀賢太郎を見た。所属選手の私物を来場のファンにプレゼントするという選手会興業でありがちなイベントで出てきたのであって、闘う姿ではなかったのだけれど……しかし、まあ、闘うこともできないのに給料もらい続けている身としては実にさわやかな笑顔を維持していてよかった。試合がなくてヒマなので筋トレに励んでいるのか、敬愛するヅンさまを見習って食事のたびにプロテインを摂取しているのかしらないが、見た目に筋肉量の増加がわかった。あいかわらず脂肪がつかないようなんだけれど、ガリガリという印象ではなくなっていたので、そろそろ本気で復帰モードなのかもしれない。

 しかし復帰してしまうと、一ヶ月後には解雇されても仕方のない身に逆戻り(笑)。がんばれ志賀賢太郎。私は彼のことを本当に好き。

 そんな彼のことも想い出しつつ。

 早朝からジンジャーエール飲みつつ、五時間にわたる大会生中継の録画を観る。

 妻が起き出してきたころ、私は泣いていました。もうなんか四時間ほど観続けた疲労でぼおっとしているところに、新調したばかりの5.1チャンネルサラウンドスピーカーとウーハーの唸りが内臓を揺らし、ナチュラルハイに浮遊感を感じ始めたころ、小橋建太VS佐々木健介。罪だよ……うわああ、とわけのわからない雄叫びをあげながら拍手し続けていました。素晴らしすぎる。自宅で観ている私と違い、東京ドームのパイプ椅子で四時間越え耐え難い疲労が蓄積しているはずの六万人の観客が総立ちで、建太と健介の吠えては殴りを一瞬たりとも見逃すまいと前のめりになっている彼らを観ていたら、試合が素晴らしいことよりも、世界がここに在る素晴らしさに泣けてきてしまったのでした。

「プロレスファンでよかった……」

 私につきあって観るともなく観ていた妻が頬を染めてはにかむほどBLチックな弟分中嶋勝彦クン(17)が、敗れた師匠佐々木健介と抱擁している姿は、その夜の東京ドームに世界のすべてがあるかのような完成度だった。勝ったほうも負けたほうも、演者も観客もなく、ただああもう素晴らしくて躯が震えてだれかを抱きしめて生きててよかったと泣きたくなるハッピーな夜だった(観たの朝だけど)。

 同じ高校の先輩である三沢光晴のあとを追って全日本プロレスに入団した川田利明が、ジャイアント馬場の亡きあと、新団体NOAHを旗揚げした三沢光晴についてはゆかずに全日本に残り、それから五年。全日本の先を目指した先輩と、全日本を守るために残った後輩が、東京ドームで闘っているのを見つめ。罪、裏切り、決別、そんな言葉を何度も反芻しながらうなずいてしまった。同じ人生を歩み出した二人の男が、同じ理想を追い求めた結果に別れて、数年後、ひさしぶりだなと躯をあわす。笑みはなく、恨みもなく、しかしこれで最後だと、ずっと気にかかってはいたんだと攻め、あえぐ。そんな二人に、世界中の観客が惜しみなく拍手をおくる……正直、そのメイン戦よりも、建太VS健介の準メインのほうが試合としての完成度は高い。かつて同じ団体に入門して歩き出した十代の青年は、決別し再会したときには絶頂期を越えていた。三沢光晴の汗を撮ろうとカメラが寄る……この一年で目立ちはじめたひとふさの白髪が、二人の離ればなれだった時間を痛感させて、別々だったから得たものと、ずっと一緒だったら生み出せていたものに、観ている私も思いをはせた。

 最高でした。
 絶えない拍手を彼らに。

 でも二度目の防衛を果たしたGHC(GLOBAL HONORED CROWN = 地球規模の崇高なる王位)王者、力皇にやっぱり萌えられない(笑)。
 そして、志賀賢太郎はやっぱりその姿さえ見ることができなかった。
 そのことだけが残念。

 真の完璧は遠いが、三沢光晴が愛する後輩と決別してまで生み出した世界は、限りなくそこへと近づいている。少なくとも私は、世界中のどのプロレス団体を観ても、NOAHの大会を観たときのような、ちょっとすっぱいような涙をともなう感動をおぼえない。人が人の心を動かすというのは、どういうことなのか。NOAHに魅入るたび、私は考える。

 さらけだすこと。
 しかし演じきること。

 橋本の死に思ったことでもある。
 それはきっと覚悟なのだ。
 演じているうちに覚悟が高じて演じていたキャラと自らの境目が無くなってしまう……けれど演じるものはその覚悟ゆえに、すでに自身となっているキャラのさらに先の形を演じようとする……結果生まれるのは、演者の分身でありながら彼ら自身であり、しかしたゆまぬ切磋琢磨によって創造される「新しい」キャラクター。

 志賀は志賀であるがゆえに闘えないまま志賀を模索し、橋本は死の影を感じながらも橋本を求め続けてリングへ戻る前に逝った。

 彼らに拍手を。
 彼がいなければ、生まれなかったそのキャラクターに拍手を。
 みたことのないものがまだあると信じさせてくれた夜に拍手を。
 回り続ける世界と模索するすべての人に拍手を。

 今朝、私はそういうモノを観た。

noah

 

“破壊王”としてプロレス界にその名をとどろかせた橋本真也。ハッスルのリングでは“ハッスル・キング”として活躍していたが、モンスター軍の肩狩り酋長・KATAKARIに以前から痛めていた右肩にトドメを刺されて長期欠場。動かない右肩にメスを入れ、9時間半の大手術に成功した。すでにリハビリを開始し、右腕が真上にあがるまでに回復しているとのこと。ハッスルのリングで、再び“トルネード・ハッスル”を披露する日は、そう遠くないはずだ。

 『ハッスル公式サイト』橋本真也プロフィールより。

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 2005/07/11
 破壊王が逝った。
 三銃士の一人が逝った。
 リングの上ではなく、救急車で運ばれた先の病院で逝った。
 40歳にして団体所属のないフリーのプロレスラー。
 彼が彼であることだけが橋本真也を形作っていた。
 脳内出血。
 なんという身も蓋もない死因だ。

 私は新日本ファンではない。
 私はZERO-ONEのファンではなかった。
 けれど橋本真也は好きだったし、あとにも先にも似たもののないレスラーだったと思う──プロレスラーは人生をかけてキャラクターを演じるエンターテイナーである──十年後二十年後、いやもっとあとになっても、橋本真也という確立したキャラは死なず、私たちは忘れることができないだろう──同じ世代のレスラーたちが引退を表明したりするころ、私は彼のことを想いだして涙ぐむ。
 破壊王、戻ってくるの待っていたのにな、と。
 あの袈裟斬りチョップを何度も想い出す。

 プロレスラーの死。
 引退を覚悟して挑んだ肩の手術を無事終えたのに。
 その肩を使ってふたたび魅せてくれもせず。
 破壊王が逝った。
 2005/07/11

 ありがとうございました。

shinya