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 実に七年ぶりのディーン・クーンツ邦訳が出版された経緯については、前回に語り済み。

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『これほど昏い場所に』の話。

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 ちなみに新刊。七年ぶりのせいでAmazonさんもぼおっとしてしまったのか、ハーパーBOOKSがそう表記しているのか、作者名をこのところは「ディーン・クーンツ」としていたのを「ディーン クーンツ」としてしまい「ディーン・クーンツ」作品を新旧順に並べても、最新刊として表示されない。

(逆に「ディーン クーンツ」で検索すると、「ディーン・クーンツ」時代をスルーして「ディーン・R・クーンツ」名義の作品にヒットするため、二十年くらい書いていなかったひとが突然に新作を発表したみたいなリストになる。ふっと新刊はまだかいなと「ディーン・クーンツ」を検索したかたが新刊を見逃す可能性がおおいにあるので、そのうち改善されると信じたい)

 そして、その新作。
 男性向けによっている、と前回書いた。

 公式サイトが、こんな感じだ。

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Jane Hawk 公式サイト

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 オリジナルのジェーン・ホーク・シリーズのペーパーバックカバーでは、デコルテをあらわにして動物の革とおぼしきもので作られたジャケットを羽織り、ウェーブのかかったブロンドは胸にまでたれ、アゴを突き出し挑戦的な気配の女性が写っている。

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 それが邦訳ハーパーBOOKSの一冊目では、こう。

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 首まで覆うコート。襟にとどくくらいのブロンド。発砲寸前なオートマチックに、荒野の上空を飛ぶヘリコプター。

 キャラクターを前面に出したオリジナル。
 言ってはなんだが、ある種のミスリードを狙ったかのような日本版。
 ある種の、というのは前回も書いたが、ディーン・クーンツを知らないのみならず、翻訳娯楽小説というものさえ初めて手にするような層に向けての仕掛け。

 『ブラックリスト』を連想させようとしている。

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 『ブラックリスト』のシーズン3で、ヒロインのFBI捜査官エリザベス・キーンは、子供ともども、殺されかけて逃げまどう日々となる。彼女自身は、彼女を追い詰めようとする謎の結社の正体を知らない。どうやらそこには、彼女のなかでは記憶もあいまいな、彼女の父親の存在が絡んでいるようなのだが。

 という日本でも大ヒットしてテレビの地上波放送もされている人気サスペンスドラマのシリーズを、同じくFBI捜査官である女性ジェーン・ホークを主役にした小説シリーズに重ね合わせて売るのは、賢いやりかただと思う。だがしかし、実際に『これほど昏い場所に』を読み進めると、それは本当にハーパーBOOKSのミスリードなだけだろうかと疑いはじめずにはいられない。

 『これほど昏い場所に』ヒロインのFBI捜査官ジェーン・ホークは、夫の自殺が殺人ではないのかと疑がったとたん、子供ともども、殺されかけて逃げまどう日々となる。子供を安全な場所に避難させ、敵の深層へと単身乗り込む彼女のまわりには敵か味方かわからない奇怪な人物があふれかえり、どうやらそこには、彼女にとってもっとも謎な存在でもある、彼女の父親の存在も絡んでいるようなのだが。

 かつて『ベストセラー小説の書き方』のなかで、書く者はそのまえに読者たれ、読んで読んで読みまくれ、と説いた師が、いまこの世紀に、ややこしい父親をもって夫を奪われ五歳の息子を抱えて悪を討たんとする休職中の美人女性FBI捜査官の物語を書くというのに『ブラックリスト』を観ていないというほうが現実味がない。豪邸に映画館のようなホームシアターがあるのに、全米視聴率ナンバーワンをうたうドラマは「いや観ていないなあ、似ている? 気のせいじゃない?」などと言うことを恥だと思わなくなっているとしたら、それこそもうあのディーン・クーンツとは別人だ。

 絶対に観ている。そのことをハーパーBOOKSも理解したうえでの、あの装丁。
 そしてもうひとつ。

 邦題。

『これほど昏い場所に』

 原題は『The Silent Corner』。似ているニュアンスではあるけれど、本作においては、物語る前に、クーンツ師みずからが、わざわざその言葉に関する説明を記述している。

 サイレントコーナー=沈黙の場所。それは、インターネット電子網を自由に動きまわりながらも、だれにも跡をたどられない者の居場所。

 つまり『The Silent Corner』は、サイバー要素の強いサスペンス劇で、いかに敵から「電子的に」隠れる=「沈黙の場所に居続け」ながら、敵に近づいていくかというジェーン・ホークの物語なのである。

 ほら、おかしい。
 だって、サイレントコーナー=沈黙の場所、と前文で訳してある。ならばタイトルも『沈黙の場所』でしかるべき。原題の『The Silent Corner』が、インターネットとリアルな地上の、というダブルミーニングかもしれぬということを明確にしたいのであれば『沈黙の場所で』でいい。

 『The Silent Corner』を『これほど昏い場所に』と訳すのは、かなりオリジナルとは違う意味が含ませてあるように感じるのではないか。

 のではないか。と書いたのには理由がある。新規読者はそう感じるかもしれない。なんか雰囲気のある、あまり使うことのない「昏い」なんていう言葉が含まれているのは、きっとダークなお話なんでしょうねと受けとるのかもしれない。

 だ、だが、だがしかしっっ!!

 これは完全にハーパーBOOKSから私へのメッセージだ。というか私を含めた隠れ信徒へのである。隠れる必要はないが、なにが好きと訊かれてディーン・クーンツが、と答えて「え?」なに、と思われないシチュエーション以外は存在しないのだから、実質隠れているも同然。

 隠れキリシタンに逆さ十字で蜂起をうながし、シシレオーのキーホルダーでトライガーの君に気づいてもらおう作戦。

 私は気づいた。
 そして読み、ああなるほど、と、あらためてうなずいたのであった。

「これ……『心の昏き川』……」

 文春文庫。白石朗、邦訳。
 書いたヒトもちろん、ディーン・クーンツ。

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 1994年の作。
 二十五年前。
 四半世紀の昔。

 邦題に関しては、かつての作品でクーンツ師自身がチェックを入れているということを明言していたから、今回もそうであるはずだ。そうであるならば、但し書きとして、この一文が添えられていただろう。

「この「昏き」という文字は一般的にSilentの日本語訳として使用するものではありませんが御作『Dark Rivers of the Heart』の邦題でDarkに対しても同様に一般的ではないながら使われていた表現です」

 師は、ニヤリとしたに違いない。

「心に巣くう過去を表すのに使った文字を、今回の悪意の静けさに対しても使うということかい。この前後のひらがなは?」

「形容しがたいほどに「昏い場所」ながら、そこにも昏くないものが宿っている。もしくは生まれ出でる、というニュアンスです」

「希望だね」

 いや、まったくの私の妄想だけれども。『心の昏き川』が『これほど昏い場所に』の原形であることは、信徒であれば疑いようもなく気づくことだ。邦題でそう匂わせていなくても、物語のなかで、これ見よがしに師も告げている。

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 彼はジーンズのポケットから、壊れたカメオのロケットを引っぱり出した。女性の横顔がソープストーンに彫り出され、銀の楕円に埋め込まれている。左端に蝶番が半分だけ付いていた。まだしっかり蓋ができて、銀の鎖に吊り下げられていたころは、誰か愛する人の髪の毛がこの小さなケースに収めてあったのだろう。
「ママが前にここへ来て、また行っちゃったあと、川でこれを見つけたんだ。石の上に打ち上げられてた。この人、ママに似てるよね」
 とりたてて似ているところはなかったが、それでもジェーンは言った。「たしかに、ちょっとね」


 ディーン・クーンツ 『これほど昏い場所に』

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 川で見つけた、ソープストーン。

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「ただのソープストーンですよ。雉子と龍。あなたのは、その両者のパワーが必要です。雉子と龍。繁栄と長寿のシンボルです」
 チェーンをもってメダルをぶらさげながら、スペンサーはいった。「お守りですか?」


 ディーン・クーンツ 『心の昏き川』

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 謎の中国人にもらった、ソープストーン。

 どちらも、物語の進行にほぼ関与しない。首からさげたソープストーンのおかげで銃弾が防がれて九死に一生を得たりしない。それどころか、主人公たちが、身に着けたそれに愛情を注ぐ様子が描かれない。

 クーンツ師には、そういうところがある。

 感情に訴えかけるようなアイテムを出してきて、しかしそんなものは窮地で役に立ちはしない、使えるのは自分自身だけなのだ! みたいな描写を好む。そういう師だからこそ、刻まれている模様は違うにせよ、主人公がどちらもソープストーンを身に着けて「昏き場所」へと赴く描写は、偶然であるわけがない。

 『心の昏き川』の主人公はスペンサー・グラント。ロス市警の捜査官だったが、いまは心に流れる過去という昏き川に起因する正義感に駆られ、犬を連れてランドクルーザーに乗って、とある女をさがしている男。

 『これほど昏い場所に』の主人公はジェーン・ホーク。敵に知られずインターネットを使うため訪れた図書館で、熱心にポルノ・サイトを眺めている男に出逢う女。あとで知ることになるのだが、男は、図書館が有害なウェブサイトを子供には見られないようにブロックしても、言論の自由があーだこーだと鍵を外してしまう連中から、また鍵を取りもどすといった些細なことまで個人的におこなっている、いわば行きすぎた善意のひとだった。男の心には過去という昏き川が流れていて、彼はひとりででも、少しでも世界を善き方向へ傾けようと戦っている。

 ディーン・クーンツは、過去に、さまざまなペンネームでさまざまなものを書いていて、そのうち出版されたポルノを自費を投じて買いあさっているというのは有名なエピソードである。自分で書いたものを自分で買い集め、過去を消している。

 一方、別のペンネームで書いた冒険活劇の何冊かを、クーンツ名義で書きなおしてもいる。師、曰く、生きているかぎり、直す機会があれば気に入っている作品は直すとのことだ。

 そういう意味では、SFサイバーサスペンスというものは、もっとも書きなおしたくてたまらないジャンルに違いない。

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「何メガあるんだ?」スペンサーはたずねた。
「メガ単位じゃないわ。ギガよ。十ギガ」


 ディーン・クーンツ 『心の昏き川』

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 いまこの文章を書くだけに使われている極東島国の私のデスクトップでさえギガを越えてテラだ。アジア生まれの薄型折り畳み携帯電話がアメリカに上陸したうんぬん、という描写もある。四半世紀前。図書館にワールドワイドウェブ接続されたワークステーションは存在しないどころかローカルネットワークさえなく、司書は木の繊維を漉いて作られた紙を繰って幾万冊のなかから目当ての本をさがす職人だった。

 科学の力を使って主人公たちを追い詰める敵の恐ろしさを描くのに、この二十五年は手直しするといったレヴェルのことではなかろう。

 そして『心の昏き川』は、いまだクーンツ信徒のあいだでは、ひとつの伝説として語られる作品であり(ゴジラが登場することもあり、日本人たる私にとっては特に思い入れもある)、師自身も気に入っているはずだ。

「ガラケー前時代を、いまに? 書きなおしたほうが早くね」

 リメイクというか、リニューアル。
 いやあ、それにしてもおもしろいなあ『ブラックリスト』。

 あれ? 『心の昏き川』のスペンサーくんは、あとでヒロインを救いに現れる正義の味方的立ち位置にしたほうが、こういうテレビドラマっぽくね。謎のヒロインが主人公のほうが……映画化とか。いや、『オッド・トーマスの霊感』『フランケンシュタイン』に続く小説シリーズとして、まず書けちゃうんじゃないのん。

 そんな感じで書きはじめられたことを、確信しています。

 というあたりで、以下次回。
 やっと本編について語る……かなあ。
 けっこう、主要なネタをバラすとだいなしな構成ではあるので、いじりにくい。これもまた師が、この四半世紀で(いまだに)学んで進化したという部分なのでしょう。昨今のサスペンスドラマでは、視聴者の裏をかくというのは大事な要素ですから。時代に合わせる、小説職人の芸を堪能できる『これほど昏い場所に』。

 あ、もちろん、それには過去作を読まないとダメですよ。過去を知り、いまを知る。ディーン・クーンツに歴史あり、われ歴史に学ばんとす。


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 1945年7月9日。

 いまが2019年の三月なので、ざっくり言って、七十五歳に手が届いたということになる。日本では後期高齢者に分類され、自動車運転免許証の更新のさいには、認知機能検査を受けなさいと言われる年齢になった。

 そのひとが、2017年に一作目を発表し、立て続けに第二作目も。翌年、三作目と四作目。そしてこの五月に五作目という、驚異的な速度で刊行しているシリーズは、すでに数年先のぶんまで出版契約が成されているということで、どうやら師が2015年までの十年ほどをかけて七作発表した『オッド・トーマス』シリーズを冊数では越える勢いである。

 師、だ。

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『Dean Koontz師のサイン本』の話。

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 日本語のディーン・クーンツWikiはざっくりしすぎていて、熱烈信徒を自認する我が『とかげの月』の文章をデータとして求めてこられるかたも多く、おかげさまで布教の一角を担い、いまでも師の生筆『オッドトーマスの霊感』は我が家の家宝として崇められている。そんな私にとって、今回の出来事は一大事。

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 最新邦訳の本の帯。
 しかしスリラーの帝王がもどってきて書いているのはスリラーというよりはサスペンスである。怖くはない。というかもともと師の作品群は、怖かったためしなどいちどたりともないのであるが。

 『オッド・トーマス』と『フランケンシュタイン』という映像化されたシリーズで、どう考えても師は二十世紀当時よりも稼いだはずで(豪邸に移り住んだのもその後だったし)、そのときすでにカムバックを果たしていたと見るのがクーンツ好きの視点だが、世間一般的にはそうではないらしい。

 スティーブン・キングとロバート・R・マキャモン、そしてディーン・クーンツをまとめて御三家と称し、日本ではモダンホラー小説という呼びかたで一世を風靡した。今回の「カムバック」は、そこでクーンツ読書遍歴を喪失してしまった人々に向けての……

 と分析したくなるけれど、たぶん違う。

 第四作まで邦訳された『オッド・トーマス』シリーズの、その四作目の発刊が2010年の暮れ。そして第一作が映画化されDVD発売は2014年。2016年にはオッド・トーマスを演じたアントン・イェルチンが事故死するというショッキングな出来事も重なったが、続刊はなかった。ハヤカワ文庫でいつでも出せる状態にあるのではと推測するが、映画化作でありながらシリーズの発刊を途中で断念というあたり、相当な失速があったのは想像に難くない。

 その時点で、ディーン・クーンツ、七十歳越え。

 信徒ではあるが、確かに、いま読み返しても『オッド・トーマスの予知夢』について書く私の文章も、複雑なニュアンスではある。

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『オッド・トーマスの予知夢』の話。

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「『オッド・トーマスの霊感』これは文句なくだれもに全力でお勧めしたいシリーズ第一作にして、完全に完結した一冊としても読める名作である。以後の『受難』『救済』『予知夢』は、生まれ出でてしまったエンターテインメント小説界の無垢王オッド・トーマスに、ムチャブリをかけてあたふたさせ、そのさまをみんなで眺めましょう。という趣向である。人気の出た実力もともなっているベビーフェイスに対し、いかにもあつかいにくいイロモノキャラや冷血非道なヒトデナシ、そしてついにはこの世のものではない化け物までもを焚きつけて、それをオッド君がどうやってさばくのかをたのしむ……否、その無茶な世界と対戦相手たちとの紆余曲折な死闘の果てに、オッド君がどう成長するかを父みずからが予測もなく書き進めたのが、二冊目以降だと表現できる。」

 ……我ながら、褒めているのだろうかこれは。

 とてもいい主人公が生まれてみなさんにも祝福を受けたので、彼のその後を書いてみることにしました。という方向性が隠しきれない。その場合、本来は危惧すべきことがある。生まれたキャラはみんなに愛でられるすでにみんなの子。どこかのアニメのように『2』の監督が替わって「私のサーバルちゃんと違うっ」というような論争はないにしても、作者が同じならばすべて受け入れられるというものでもない。

 そして正直、小説『オッド・トーマスの霊感』続編のなかのオッドくんよりも、映画『オッド・トーマス 死神と奇妙な救世主』のアントン・イェルチンのほうが、読者の抱くオッドくん像に寄りそっている。レビューも絶賛。クーンツ師も同じく絶賛していたので、わかっているならなぜ続刊でそのほんわかオッドくんを激烈な目に遭わせる方向性で行ったのか。

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 これには、師の小説作法というものが大きく関わっているように思えてならない。それは本当に私が師を師と呼ぶいちばんの教えだと感じているのだけれど。

 キャラクターは勝手に動き出さない。

 そこを徹底しろと、ずっと言われている。書きはじめたら主人公が勝手に動き出すなどという表現をするモノ書きがいるので、それを鵜呑みにして名前をつけただけの主人公を事件の真ん中へ放り込めば小説が書き進められると考えるひとたちがいるが。あれは天性の資質を持つひとが自覚なくできていることであって、私は違う(おまえらはもっと違う)、と。

 師は、主人公から脇役まで、小説に出てこない設定までもをまず詰める。背景が緻密に埋め尽くされてこそ、それによって実際に「生み出された」キャラクターだけが活き活きと動きはじめるのであるという。

 インタビューで、師は「オッドが読者に受け入れられるとは思わなかった」と明言している。「My name is Odd Thomas. I lead an unusual life.」という一文だけを啓示として受け、最初の三十ページを一気に書き上げたという。そんなことはこれまでなかったというのがオッドくんを神格化するための追創作の一種なのかどうかは置いておいても、およそオッドくんが師の作品の主人公らしくないのは紛れもない。けれど師の予想に反し『オッドトーマスの霊感』を出した年、それまでで最多となる五万通のメールが届いてしまった(師は過去に出版社にファンレターを雑なあつかいをされて以来、自作にメールアドレスを掲示している)。

 そりゃあ続きを書かざるをえず。
 でも、天から振ってきたかのように書きはじめた一作目。ダークヒーローではないうえに超能力者で、ほんわか青年だとか。お調子者で皮肉屋な、ディーン・クーンツの仕事場で作られたとは思えない造形。
 書き進めるにはまず、第一作の舞台である、小さな町を離れて……

 結果、私は、それを褒めることになった。

 毎日、書斎に出勤して決まった時間から決まったように小説を書く、職人であるところのディーン・クーンツは、逆説的にキャラなんて動かなくても、職人技によって読めるものが書けてしまうのだった。

 まさに、かつて肉弾凶器だったプロレスラーが七十歳を越えて、ドロップキックも撃てずコーナーポストに登ることもできなくなったけれど、充分に間を溜めたまったく痛くはなさそうだが味わい深いチョップひとつで大会場を沸かせてしまうように。

 ディーン・クーンツがジャイアント馬場に似た現役感を持っていることは端から見ていてもわかる。すなわち、行けるかぎりは仕事場へ行き、そのときできうるだけのことは演じて観客を沸かす。

 戦えなくなった、と自身に認めることを許さないだろう。生涯現役、という言葉は美しいが、かつてロケット砲に喩えられたドロップキックを放っていたひとが、ロープにもたれて片脚を軽く上げるのさえ一苦労というていなのを、ただ微笑ましいだけで眺められるひともまたいない。演じる側もわかっているのだ。老いの哀愁さえも現役を続けてきた自分ならではの武器のひとつで、できることをすると誓ったのなら、それを提示するのも職人の技だと。

 メールいっぱい来たから続きを書くよ、キャラはぜんぜん動かないけれど、なあに、舞台を変えてあっと驚く展開を詰めて、何冊か書けるさ。

 ファンサービスといえば聞こえはいいが。
 そういう局面へ、クーンツ師もいよいよ……
 目を閉じて天を仰いだのをおぼえている。

 というところで。
 今回の一大事に話をもどす。

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 スティーブン・キングとロバート・R・マキャモン、そしてディーン・クーンツをまとめて御三家と称し、日本ではモダンホラー小説という呼びかたで一世を風靡した。今回の「カムバック」は、そこでクーンツ読書遍歴を喪失してしまった人々に向けての……

 と分析したくなるけれど、たぶん違うと言い切りたくなるのは、なにせ今回の出版元は、ハーパーコリンズ・ジャパン。レーベルは、ハーパーBOOKSだから。

 邦訳小説を嗜まない向きにはぴんと来ないだろう。しかし、そんなあなたも二十世紀を生きたのならば、ハーレクインという響きには、ぽっと頬を染めずにはいられないはず。

 ハーレクイン。

「恋は、本屋さんに売っている」

 あながち誇大広告でもないほどに、中毒者を出した出版社。小学生男子だったころには、同級生の母親がハーレクインかタカラヅカにハマっているというのは定番だった。いま思えば、その後の世代でボーイズラブに手を出しはじめた層を、当時は一手に担っていたのだろう。象徴のように、コンビニエンスストアには男性向けエロ小説とハーレクイン文庫が並んでいた。

 そんな、世界で恋を売ってきたハーレクインが、堅実に辞書などを売る出版社と合体して、日本でもハーレクインからハーパーコリンズ・ジャパンに社名を変更したのが数年前のこと。どちらかというとハーレクイン寄りの世界に棲む私などは、そのニュースに「もったいないことを」と感じたりもした。せっかく世界でロマンスの王国を築いたのだ。親になった世代としても、娘がBLとハーレクイン社のティーンズラブレーベルのどちらかを収集しはじめるとすれば、断然にハーレクイン社のロゴが本棚に並んでいたほうが安心である。その社名を変えてしまうなんて……

 だが継いでのニュース。ハーレクインからハーパーコリンズに社名を変えると同時に、立ち上げられた文庫レーベルの方向性に、手のひらを返して拍手する私がいた。

 ハーパーBOOKSは、世界で売れたエンタメ小説を日本で展開していくと断言したのだ。スティーブン・キングやトム・クランシーでさえ売れなくなったこの国で、いまいちど勝負をかけてくれるという。通勤電車で文庫本を開いているのが私だけということも多くなってしまった島国で、いまから洋モノを主軸に打って出るなどというのは、まさにハーレクインのやりかただ。ハーレクインは、書き手と、翻訳者を自社で育てまくって世界を制したことで知られる。そのノウハウがあれば、むしろこの国には、余地があると踏んだのかもしれない。

 世界でヒットした映画は日本でも客が入る。だが、ベストセラーになった娯楽小説の類は、売れない。売れないから大手も二の足を踏む。読むヒトがなお減る。だれも期待しなくなる。ますます出ない。最悪のスパイラル。

 だれもが頭を抱える地上でも、しかしモノ書きはモノを書き続け、読み続けるモノたちもいる。ボーイズラブという新興勢力に奪われた本好き女子が再び伯爵だヴァイキングだという男たちと恋をする女子を描くハーレクインに舞いもどることは考えにくく、かといってハーレクインボーイズやハードコアハーレクインなどというレーベルを立ち上げてはブランドの失墜。

 その立ち位置で、最良の一手だった。
 ハーレクインはハーパーコリンズに社名が変わりましたが、ハーレクインはブランドとして変わらず存続します。そして新たに生まれるハーパーBOOKSは。

 男性にも、もちろん女性にも興奮を与える各種ジャンルの海外作品をお届けするレーベルとして唯一無二の存在となる!

(でもまあ、ハーレクインが存続して大きな柱のひとつである以上、こっちはどちらかといえば男性向けにすり寄ってゆきましょうか)

 キーワードが揃った。

 海外ベストセラー作家。日本にも一定のファン層がある。新規にも読みやすい。軍事、歴史などのジャンルではなく男性向けエンタメが書ける。

 あ、はい。ちょっと歳食ってますけど、彼どうでしょうか。多作で、かつては別名で男性向けポルノも書いていて、映画化ドラマ化もされてカルトなファンを持つうえに、いま現在進行形で、いつドラマ化されてもおかしくないサスペンス小説のシリーズをハイペース刊行している。

 ディーン・クーンツ。

 ハーパーBOOKSにベストマッチ。

 というわけで、本邦七年ぶりの師の邦訳文庫が出版されるはこびとなったのですが。ここまででこんな分量になってしまったので、その内容と感想と考察は、私もシリーズ化します。
 以下次回。

 ネタバレする気満点で書くので、未読のかたは、先に読んでおいてもらえれば話しやすいんだけどなあ、買わないかなあ。売れないと次がないを散々経験しているので、心の底から買ってほしいなあ。

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 いま生まれた文庫が二十年も前のムーブメントを引っ張り出して言う「帝王の帰還」は、もちろん新規読者に向けてのものに違いない。ここから海外娯楽小説を嗜みはじめるあなたが不安になるように。

「帝王さん? 還ってきたの? その名前ぜんぜん知らないけれど、だったら新参者として読んでおかないとならないもの? 教えてくれてありがとうハーパーBOOKS」

 なんて、まんまと買うように。
 だって当時も、ディーン・クーンツが帝王だなんて呼ばれていた記憶は、信徒である私の記憶にもない。あれは犬好きの陽気で調子乗りなオッサンだ。スリラーの帝王だなんて、ちょっと本邦でご無沙汰だからって盛ったイメージを売ろうとしすぎではないかしらん、という気はする。怖くないよ。最初にも書いたが、あのひとの書くものはスリラーでさえ怖くない。本人が、この世でいちばん(モノを書くひとにとっては、なおのこと)ユーモアが大事だと言っているくらいなので、間違いない。




 幼いころ、全日本プロレスが好きだった。
 そのころにはもう、ジャイアント馬場というひとは第一線を退いて、でも現役でリングには上がっていて、のろのろした動きがモノマネ芸のネタになるような存在になっていたのだが。

 大人になってもプロレスを観続けていて。

 派生した団体も観るし、社長がなんどか変わってしかしいまだ存続する全日本プロレスも観ていると、ジャイアント馬場御大の命日は、私自身の誕生日の翌日。そのせいもあり、歳を重ねるたびに、馬場さんの逝った日だ、と数えるようになっていった。

 そんなこんなで、今週。

『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』

 という興行が打たれた。
 観た。

 いまも、頭のなかに王者の魂が鳴り響いている。王者の魂というのは、そのひとの入場テーマ曲である。勇壮な曲。そういう曲が一日中なにをしていても、仕事中も頭のなかに流れているというのは、私自身の状態が勇壮に保たれているからで、そういう状態にひとをしてしまうプロレスという競技の力をあらためて感じずにいられない。

 競技、と書いたけれど、この興行でもっとも時間を割いてリングを使ったのは、アブドーラ・ザ・ブッチャー引退セレモニーであった。

 ブッチャーというのは、尖った靴を履いてヒトを蹴りこれは自分の足の一部だから反則ではないと言い張ったり、パンツのなかに隠し持ってきたフォークで相手を刺すが相手は血が出ずに刺し返されて自分は大流血といった、悪役なんだかなんなんだかよくわからない立ち位置で全日本プロレスを湧かせた選手だった。

「あれは私のはじめたスタイルだった」

 と、インタビューでブッチャーが話していた。その引退セレモニーに、ブッチャーと同様に頻繁に来日して全日本プロレスを湧かせていたアメリカのレジェンドレスラーが出てきてブッチャーを褒めちぎりお得意の「フォオォォ」という、知らないひとにはなにがどうたのしいのかわからない雄叫びをあげて、でも両国国技館に来ているようなひとたちの大半は知っているので「フォオォォ」と声をあわせて返しながら、大きくうなずいた。

 WCWでありNWOといった略称はいまでも私を熱くさせるが、それも敵対する超お金持ち軍団というシナリオあってこそだった。プロレス界に革命をもたらした「エンターテインメントスポーツ」団体は、育ちすぎてスター選手のギャラが払えなくなるという間の抜けた終焉を迎えて身売りする。そうして名を変え、動物保護団体に難癖つけられてまた名を変え、世界最大のプロレス団体へと躍進して、むかしの選手を買い戻し、ふたたびそのシナリオに手を染めた。超大金持ちがやってきて団体を買うだのと発言され好き勝手やられる!! という壮大なセルフパロディである。大金持ちで、口が悪くて、いい奴ではないけれど、愛すべきキャラクターを演じた、そのときの男が現アメリカ大統領。ブッチャー自身の言葉を尊重するならば、ブッチャー以前に「愛すべきヒール」などというカテゴライズはなく、だとすればそれそのものを演じて結果的にアメリカ国民に受け入れられ、いまでもけっしてベビーフェイスではないヒール寄りの姿勢のままの男を大統領にまでならしめたのだから、日本の全日本プロレスというものが発した世界への波が世界そのものを変革したといってもかまわないところであろう。

 アブドーラ・ザ・ブッチャーは、もう何年も前に引退を表明していて、七十代の二百キロは体重があろうかという大男が、トレーニングをやめたら当然のごとく、特注の車椅子に乗っての来日となった。私といっしょに三歳の息子がリングを見つめていた。ブッチャーが引退を表明したのさえ彼が生まれる前の出来事で、動いて吠えていた彼の姿を知っている私でさえ、スチール製の運搬車のような車椅子に服なんだかも判然としない布を巻きつけて座る圧倒的な肉塊に傷だらけのひたいな好々爺の首がのっかっているそれは怖じ気づく物体だったのだが、三歳男子は逆に凝視していた。

「おれ、おじいちゃん?」

 そこからか。まあわかるが。あああれはヒトで、おじいちゃんだ。おとうさんも、あんなにおでこがボコボコになったあんなに大きなヒトはほかに見たことがないが。

「なにやってんの」

 その不思議なおじいちゃんを中心に、だれひとり戦うことなく全員が笑顔で、プロレスのリング上に立ち並んでいる。さまざまな団体をテレビ観戦している息子は、三歳にしてキャンプ場プロレスだってプロレスだと理解しているが、ちゃんとしたリングの上でみんながなごやかなひとときをすごしているからこそ、違和感をおぼえたのだろう。

 あのおじいちゃんは、もう戦えなくなったからプロレスをやめることにして、だからみんなが、ありがとう、と言いに集まってきているんだ。

「なんで、ありがとう?」

 その質問に、なぜだか私は潤む。それでも言葉をさがして、いちばん近いのはこうだろうと思ったことを言った。

 あのおじいちゃんは戦っているときすごかったのだよ。

 すごい、という表現を突きつめていくといろいろあるが、三歳に伝わるように選んだ、それで正しい気はする。すごいなあ、あのひとはあのひとの人生を使い切ってやがるなあ、といった感嘆。若くしてあんなにおでこがジグザグの傷痕だらけになったら、故障して引退することになってもバイトの面接も受けられないだろうに、と考えてしまう自分と、さらにその傷を目の前でひろげて血を噴くブッチャー。

 黙ってブッチャーを遠い目で見てしまった私に、彼がぼそっと言う。

「戦っているところが見たかったなあ」

 おお。三歳が、なんだかちゃんとしたことを言うようになったじゃないかと感心しながら、三歳ゆえにそれがお世辞などではなく、きっと本当にそう思っているのだろうと信じて、おまえは世界で最後に生まれたブッチャー好きかも知れないなと肩を抱いた。

 良い時間だった。

(そのあと流れた現役時代のブッチャー映像に、あーこういうのねと息子が目を背けたシーンは割愛しよう)

 その後の試合で、三歳大好きSANADAも登場し、私は歴史を想い。マスカラス・ブラザーズがご高齢ながら毎年のように日本には来ているけれど、年々足腰は弱ってきて、ついにこの大会では一ミリもフライングしないフライングクロスチョップという難解な技を披露するも大歓声。三歳も、なにあれ、と逆に笑っていたので、またプロレスの奥深さを体感して潤む。

 メインイベントで、新日本プロレスのエース棚橋弘至と、全日本プロレスの現王者宮原健斗が対戦するも、終始、歳上の棚橋先輩を立てる姿勢を崩さなかった宮原に、全日本プロレスにジャイアント馬場の教えが消えていないことを再確認して、個人的には大好きなのにヨシタツが、棚橋から受けとったエアギターをなぜだか膝でたたき折って観客にブーイングを受けたのが、いかにも彼ってそういうところがあるよね、でもアメリカも新日本も離脱した果てに全日本だからイキイキとしている彼こそ「辞めなければ陽が当たる」トンカチはトンカチなりに全員ヒーローで、よりどりみどりだからこそだれもがだれかを応援できる日本のプロレスの最先端なのかもね、と優しい気持ちになったりして充足した。

 この文脈で想い出すのは適切ではないと感じながら、馬場全日本が時代を変えていったまさにそのあたりを舞台にした映画『チョコレートドーナツ』の、適切な続編を観た気もしていた。先週、ここでドーナツの話をしていたことも関係はある。ただ、そのナイーブなテーマをあつかう映画を真正面から語ろうという気はなかった。

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 誰も欲しがらないから

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 映画『チョコレートドーナツ』

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 背が低くて太った知的な障害がある子供をゲイのカップルが愛して家族になろうとするが、その邪魔をしたところでなんの得もないはずのまわりの人間全員が彼らの敵となる。実話をもとにした、ほんの少し前の世界の雰囲気が描かれている映画だ。

 そんなのはナンセンスだ、いまはもうそんなことはない、と言いたいが、どっこい世界はさらに複雑になっているようにも感じる。今週、テニス界の女帝マルチナ・ナブラチロワが、トランスジェンダーの女性選手が女子競技に出場することに批判的な発言を繰り返していることに関して、世界では賛否両論だった。

 一方、日本人で初めて性同一性障害を公表した、いまも公的な性別は男性なプロレスラーは、昨年、女子王者のベルトをしれっと獲っているけれど、この国では大喝采しかなかった。

 ジャイアント馬場が力強く語った「プロレスのリングでおこなわれることはすべてプロレスである」(だから細かいことを言うな)、の精神と、同じくそのひとが言った「プロレスラーは怪物でなければならない」という教えは、あくまで団体の長だったそのひとが集客のために徹底したかった社訓ではあるのだろうが、結果として、外人を鬼と呼んでいた国で、奇声をあげながらフォークで日本人を刺す黒い呪術師などという通り名を持つ巨漢を愛らしいわと心底思えてしまう人々を増殖させ、まあプロレスなんだからどう見ても男の体格だけれど心が女子なのだから女子王座獲ってもいいんじゃね、などということさえ考えずに、女子プロレスのリングで戦って勝ったやつが女子王者になるのは当然だと受け止める、大ざっぱなファンまでもを育てた。

 サッカーのファン同士がとっくみあいのケンカをするような光景を、日本のプロレスファンのあいだで見たことがない。ジャイアント馬場と全日本プロレスに慣れた国民は、おじいちゃんが重いものを持ち上げただけでチケット代を払って観に来たかいがあったと手をあわす始末である。

 と、いう意味で。
 終わるものあれば、はじまるものがあり。
 今週、うちの三歳男子が声がひっくり返るほど笑っていたのは、平和な日本のプロレスをさらに推し進めひろげている団体DDTプロレスリングの両国国技館2Days興行であった。

 紅白歌合戦出場歌手の新メンバーにパンダが選ばれたり、肛門が爆破されたり(おしり爆発すんの、とものすごく集中して観ていた)。小鹿とアブドーラ・ザ・ブッチャーが「別のおじいちゃん?」というのは、私を笑わせたり(おじいちゃんということ以外、どこも似ていない)。某モンスターハウスのひとの自宅が破壊されかけた件に関してはネットニュースでも一定レベルの話題になっていたけれど、私が、おお、と思ったのは、一日目のマッスル興行ではなく、過去にもプロレスの最前線て、もしかしてここではないのかなと私を唸らせたDDT本体の興行。

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『ラリアートとキス』の話。

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 世界においても、凶器を使うプロレスというのは、映画になるほど、奇異でドラマチックなものではある。

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映画『レスラー』の話。

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 ホームセンターでも昨今は照明器具といえばLEDで、蛍光灯は本体はもう売っていなくて替えだけが売られている現状ながら、日本の凶器レスリングの老舗、大日本プロレスではいまも直管蛍光灯デスマッチというのが花形である。あれは、割れると、ぱんっ、ときれいな音がする。細かく砕けるので大ケガもしにくいし、うらはらに、わざとケガをさせようと思えば断面でざっくり斬ることもできる便利アイテムだ。

 とはいえ、うちの三歳も「あれでしょ」と天井を指さすも、そこに光るのは直管蛍光灯型のLED照明で「あれは割れないよプラスチックだし」と言えばよけいに混乱するだけで、そういう世代が今後の客層だと思えば、直管蛍光灯百本デスマッチが盛り上がるか否かという以前に、それが題材で成り立つのかという根源的な問題が立ちあらわれる。

 トランスジェンダーはルールの逸脱なのか、男性同士の口づけは暴力にまさる凶器なのか、割れるガラスのなくなった世でガラスが割れるのはリアルであり続けられるのか、などの命題を抱える現代プロレス界において、またしれっと、そういうものが提示されていた。

 プラスチック・ロボット。

「あ、ロボっとー」

 と、三歳男子も認めた、ロボットは、俗にいう収納ケースで成り立っていた。

 こういうの。

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 誤解のないように。上に表示されているのは有名どころの超頑丈で優秀な非のうちどころのない製品です。が、DDTプロレスリングで昨年から登場しているそれは、謎メーカーの妙に薄っぺらいそれ。たぶんどこかのPB(ラベルから特定しようと試みたが、果たせなかった。こちとら関西勢なもので。関東のショップさんのものだろう、きっと)。

 プラスチックの衣装ケースを、あのロボみたいに組む。

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 三歳がロボと認めるほどロボに見える。そしてすぐ壊れて、リングに置かれ、その上に選手が落とされる。

 砕ける。いい音がする。断面もギザギザで刺されば流血もしそうだが、なにせこっちの認識よりもさらにぺらっぺらのプラスチックケースらしく、昨年からなんども登場しているが流血は記憶にないまま両国国技館である。

 蛍光灯がガラスからプラスチックのLEDに変わって、調達しにくくなり、割れもしない一方、ずいぶんと前から世界中にありながら、いまになってハードコアアイテムとして巨大会場で観客を沸かす衣装ケース。

 映画『レスラー』で、ホームセンターでいま売られている商品でどうやって流血しあえるかを検討するレスラーたちの姿は、いまもやっぱり変わらず、最先端は衣装ケースだ。ジャイアント馬場が逝って二十年。同じ刻、同じ国で、世界中のプロレスを生まれたときから観てきたけれど「衣装ケースかあ」と、私を感心させる。終わりそうにない。実際、キャンプ場プロレスがプロレスで、そこもリングで、馬場御大の言葉が正しくリング上で起こることのすべてがプロレスであるならば、地上が、いや宇宙が、すべてプロレスである道理だ。あした宇宙人がやって来たら、そいつの持っている奇妙な形の光線銃を使って打投極を成し、おお、と観客を沸かせるのがプロレスラーなので、日本も馳浩あたりを派遣すべきであろう。いや、その日の朝に就職活動の解禁がどうのとニュースで語っていた元大臣が、王者の魂興行に姿を見せて、パンツ一丁になりはしなかったけれど、こっちは過去を知っているから黄色いパンツでくるくる回すひとだと思ってニヤついていた、その空気がまた実に平和そのものだった。

 なんでも飲み込めるし、なんでも「たかがプロレス」にしてしまえる。逆説的な言いかたになるが、プロレスで国民を湧かせたひとが、同じ手法で大統領になってしまったやりかたは、この国ではありえそうもないことにも安心した。大ざっぱというのは、逆から見れば醒めている。そうでありながら、悦んでいる。

 ひとことで言えば、粋(イキ)、である。

 良い時代だったと涙し、ぜんぜんいまからもだな終わらねえなと感嘆もした。とっちらかった内容になっていますが、徒然と書いたらこうなった。充実したプロレス一週間だったという話でした。尖った靴を履いて相手を蹴っ飛ばすことで世界を微笑ませ熱狂させた、ブッチャーのその先が、いまも続いている。フォークが衣装ケースになり、流血もしていないのに、あきらかに進歩している。ある種の答えが、そこにあるような気が、ひしひしとしたのです。

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