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「60年代の香港で日本映画はNo.1 だった。彼らは私のアイドルだったんだ」


 ジョン・ウー

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HALO2
 米Microsoftは、米国における11月9日の発売以来、Xbox用『Halo2』がワールドワイドで500万本売り上げたことを明らかにした。また、90万のユーザーがXbox Liveを利用して「Halo 2」をプレイ。累計プレイ時間は2800万時間に達したという。

「吉秒さんゲーマーですよね。やってますアレ」

 と職場で私に話を振ってきた彼の言っているのは言わずもがな「発売3日間で出荷本数300万本を超えた」例のRPG新作のことなのだけれど。私にとっては500万本売れて90万人と対戦している「アレ」が「アレ」。ということで彼と私の会話は平行線。
 一日プレイしないと腕がなまる、という実感を持ったのは『バーチャファイター2』以来です。私を惨殺しまくるヤツラってすでに『Halo』の世界に棲んでいるのだろう。『ドラクエ』『ヘイロー』の経済効果は合算1000億円を超えるだろうとか分析されているが、あきらかに世界中で部屋に閉じこもっているやつが増えて、経済生産性が落ちていることをきっちり計算している経済学者はいないものだろうか。特に『Halo2』で異国のだれかに惨殺された悔しさで仕事も手につかない、という状態は「クリアすれば終わる」一過性のRPG熱よりも、ずっと深刻だと思います。

 私はおかげでネット対戦をテーマに近未来なBLを書いて「さてこれをどこで扱ってもらえるものか」と気づく(笑)。無駄な労働だ、私自身に思い入れがあるぶん、すばらしく良い短編に仕上がっているのだが、哀しいかな私と同じカテゴリーでくくれるゲーマーのなかに、BL読者などいそうもないというところが不毛なのであった。『耽美ホモHALO』なんてジャンルでは、同人会場でも人が集まりそうにないこと鬼のごとしである……どうせハマるならドラクエやおい本のほうが需要はあるというのに、なぜヘイロー、ていうかそもそもなぜホモ、というような自らの根幹にまで踏み込んでため息をつくほど「ああおれこいつに心を奪われすぎている」、ヘイローな日々であります。そして困ったことに殺傷能力が『1』に比べてがたおちたオートマチックを両手に握っての「二丁拳銃アクション」に美学を見いだしてしまっているので、ハマっているわりに勝てないのである。

 ぱんぱんぱんぱん(私が二丁拳銃で突っ込んでいく音)。
 どむんっ(散弾銃一発で私の頭が吹き飛んだ音)。
 しゅぱーん(私の死体になおどこかの物陰からスナイパーライフルで狙撃)。

「アーオリネーチッタッカカッー!!」
 (何語かはわからないが、そんな武器でオレが倒せるかよ、というようなことを私の死体に向かって言っているらしい)

 復活まで五秒。
 私は決意する。

「二丁拳銃でリベンジしてやる」

 ……これもまた不毛なプレイスタイルなのである。

 そんなわけで、最近、逆に二丁拳銃萌え復活ってことで『ハード・ターゲット』『ブロークン・アロー』に引き続き、ハリウッド進出第3弾として手掛けた『ジョン・ウーの狼たちの絆』を。

 全22話を!!
 何度かスルーしてきたこいつを、ついに観はじめました。
 期待通りの薄っぺらさです(笑)。

 そもそも、香港映画の最後の金字塔、ジョン・ウーといえば『男たちの挽歌』シリーズと、そしてこれ。
 『狼たちの絆』
thief
 映画好きで、BL好きで、でもなに香港映画なんて「ホモっていえば『ブエノスアイレス』?」(『恋する惑星』という映画史に残る恋愛映画を作ったウォン・カーウァイが、香港の裏側ブエノスアイレスで繰り広げられる「閉じた」男たちの恋愛を描く問題作。潤滑剤を使わない生々しい男同士の濡れ場に「実際のところゲイの人たちってそうなの?」というような議題で盛り上がったおぼえがある。私のまわりだけか)くらいにしか思っていないそこのあなた。
b
 観ておいたほうがいい。
 ライトにしてキュート。
 完成されたアクション。
 理想の娯楽作です。
 やわらかくホロリと泣いている自分に気づいて、
「なんでこの映画で」
 と泣き笑いに首を傾げます。
express
banka
 『男たちの挽歌』で帝王への道を歩き始め、ついにはハリウッドで王様と坊様を演じることになる「亜州影帝」チョウ・ユンファが、B型肝炎による1年間の休養からカムバックを果たしたのがこの『狼たちの絆』。
 そして。
 同じく『男たちの挽歌』で綺羅星への道を歩き始め、ついには『欲望の翼』『さらば、わが愛 霸王別姫』で世界の名優に数えられるようになったレスリー・チョンが、『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』のあとそのあまりのアイドルなプライベートなき日常に「この作品で芸能界を引退する」と宣言したのがこの映画。

 『五福星』『新・Mr.Boo!お熱いのがお好き』などでおなじみ(?)の女優チェリー・チェンもマニア心をくすぐる。
 その内容たるや、まさに王道。

 ジョー(チョウ・ユンファ)とジム(レスリー・チョン)はパリで名うての名画専門窃盗コンビ。
 いわゆる「怪盗」である。
 しかし、その生活にむなしさをおぼえはじめたジョーは、次の仕事を最後に足を洗い、幼なじみの恋人チェリー(チェリー・チェン)とともに香港に帰ることを決意する。

 ところが、そのあとお決まりのような銃撃戦。
 ジョーは崖から車ごと転落し、行方不明。

 数年後、香港へ帰ったジムとチェリーは、結婚していた。

 平和な日常。
 だがある日、ジムはパリで最後に盗みそこなった……ジョーを失うことになった……一枚の絵が、オークションにかけられていることを知る。
 あれはおれたちの絵だ。
 ジョーへの複雑な思いから、その絵の強奪を計画するジム。
 平和な日常を壊したくはないチェリー。

 ジムは、それでも決行する。
 そして、綿密に計算したはずだったが、そもそも無謀なその仕事は失敗しかけた……
 そのとき。

 車椅子姿にはなったものの生きていた。
 ジョーが現れ、瞬時に復活した名コンビは息を合わせて窮地を抜けきった。

 そしてそのあとには、せつない展開が待っている。
 車椅子で踊るチョウ・ユンファ、三人の育ての親である悪徳美術品コレクターの登場。
 揺れるチェリー。
 愛と友情と葛藤がごちゃまぜのレスリー・チョン。

 全編がライトタッチで描かれながら、
 ジョン・ウーの真骨頂であるアクションの連劇。
 男たちの瞳をアップでとらえる画面。
 苦笑いに幾千の意味を込めるアジアの純心。
 身悶えするほどの、傑作です。

 そしてまた、この作品は前述したように、ユンファの復帰作でありチョンの引退作(その時点では。ご存じの通り、彼はその後引退宣言を撤回した)。
 現実世界でも『男たちの挽歌』という香港映画を世界のブランドに押し上げた男たちの友情と別れがオーバーラップして、ユンファがちょっと哀しげに笑うたびに、胸が締めつけられるのである。

 その後、ジョン・ウーはユンファでもう一本を撮り。
 ハリウッド進出となる。

 ジャンクロ。
 トラボルタ。

 あーいいねえ、ハリウッドで金使ってのジョン・ウー・タッチ。
 でもトラボルタの二丁拳銃ってかっこよくない。

 第三弾。
 テレビシリーズ。

 ジョン・ウーは『狼たちの絆』のプロットを使いまわすことを決めた。
 だからおそらくそれは、確信犯なのだろう
 王道のストーリー、二丁拳銃のアクション。
 爆発。男二人に女一人の三角関係。
 だらだら泣いたり、心臓がバクバクいったりはしない。
 ワイン片手に一時間、観て。

「あーおもしろかった」

 その完成型である。
 ハリウッドで初テレビシリーズ。
 もちろん、主人公は白人になった。
 薄っぺらいのは、やむをえない。
 トラボルタがどうやっても二丁拳銃が似合わないのと同義だ。

 あの時点で、「亜州影帝」と呼ばれていたチョウ・ユンファと、私生活が消失するほどの追っかけに引退まで決意したアイドル、レスリー・チョン
 その二人が見つめ合い、ともに戦う。
 代わりを演じられる役者など、世界中さがしてもいはしない。

 このテレビシリーズを観て、思ったのはそういうことだ。
 王道の物語。完成型の娯楽。
 そこで観客が酔うのは、キャラに対してなのである。

 フレディとジェイソン。
 エイリアンとプレデター。
 キャラが立っているなら、物語はシンプルがいい。

 ユンファとチョン。
 『狼たちの絆』は、そういう映画だった。
 まったく別ものとしてドラマシリーズも良いできだが、それもまたあらためて『狼たちの絆』という娯楽映画の美しさを際だたせることになった。

 B級アクション作品こそ、人を描け。

 胸に刻みました、ウー先生。
 ウー先生の自宅に若かりし日の小林旭や高倉健のポスターが貼ってあるように。
 私の家には、二丁拳銃のチョウ・ユンファが立っている。
 いつか、私もぼそっと呟いてみたい。

「90年代の日本で香港映画はNo.1 だった。彼らは私のアイドルだったんだ」

kizuna

 あのサイトはまるで第二の我が家のように思えたが、同時にそれが外からまる見えの金魚鉢であることは、前からわかっていた。友人の家のリビングルームのように居心地はいいが、一種のテキストベースの放送である以上、だれかがアクセスしようと思えば、その内容がそっくり入手できるわけだ。


 ウィリアム・ギブスン 『パターン・レコグニション』

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 電脳世界に純然たる意味でのプライベートはない。
 ところで私は、レストランで食事をするのが嫌いだ。
 五人以上のメンバーでなら酒屋で飲むのもアリだが、二人きりならどちらかの自宅かホテルの一室がいい。
 マクドナルドのチーズバーガーでさえ、できることなら家に持って帰って食べる。
 たいていにおいてマクドの店舗はガラス張りなので、一階席には座ったことがない。
 孤独が好きなわけではない。
 ただ、背後にだれかの視線を感じるのが不安なだけだ。
 別に、命を狙われる、なんらの理由もないのだけれど。
 職場の食堂でさえ、左腕が壁に触れていないと落ち着いて食べられない。
 
 『モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス』で、こんなコントがある。

 レストランに入ってくる一組のカップル。
 席に着き、メニューを開く。
 と、すぐそばの席に座っていたバイキング(?)たちが、歌い出す。

「SPAM、SPAM、SPAM!!!」

 と、なぜかその店の店員も歌い出す。

「SPAM、SPAM、SPAM!!!」

 むろん、最初は眉をひそめていたカップルだが。
 「SPAM」の大合唱に囲まれるうち、ついには注文してしまう。

「SPAM!!!」

 ちなみに「SPAM」とはHomel Foods社の味付け豚肉の缶詰の商品名。
 ちなみにこれ。

 で、このコントが転じて、現在、頼みもしないのに大量に送りつけられてくる広告メールのことを「スパム・メール」と呼ぶ。

 「SPAM」缶のメーカー、Hormel Foods社は、迷惑メール対策会社が社名に「Spam」を用いることが自社の商標の価値を損ねたとして裁判を起こしたことがある。Hormel Foodsは、迷惑メールとしてのスパムは「spam」と小文字で表記して自社の製品と区別するように主張している。

 価値をそこねた?
 いや、「スパム」の語源を調べて、あの出来の良くない「スパム缶バーガー」のサイトにたどりつき、後日、百貨店の地下で「スパム」ハムを見つけてしまい、喰ってみて「あぶらばっかりじゃないかっ」と叫んだ人が世界中にどれだけいるか。
 「スパム」ハムの売り上げの九割はそのケースで占められていると思うのだが。

 ギブスンの『パターン・レコグニション』を読了した。
 現代を舞台にしたサイバーパンク。
 我々の棲む星で、我々の営むこの毎日はなんて奇妙なんだろう。
 モンティ・パイソンのコントもそうだが。
 作者は風刺というよりもおもしろがってそれを演じていて。
 そこには、でもおれらってそういうとこで暮らしてんのな。
 という達観めいたものがある。

 ともあれ『パターン・レコグニション』は、私が初めて読んだ、あの9/11同時多発テロをモチーフに使った作品だった。
 おれたちってこういうとこに生きている。
 そういうにはあまりにも非現実的で破壊的なあの出来事も。
 やはり、我々の日常なのだと、納得するしかない。

 ところで、SF翻訳界の大御所、朝倉久志氏(最近知ったのだが、氏の筆名は「アーサー・C・クラーク」のアナグラムだとか。言われてみれば。なんという純粋な人だ)が「訳者あとがき」で明かしているが、ギブスンが作中で「google」を動詞として使用しているのを、邦訳するさいに自分の保守的な姿勢のために「ググる」や「ググった」と訳せなかった、と。

 『パターン・レコグニション』の中で、何度も出てくるし、私の現実の生活のなかでも近頃はよくある。
 名前しか知らない相手と初めて逢って。

「なんでそんなことまで知っているの?」
「googleで」

 ──いや、私自身は別の検索エンジンを愛用しているが。
 ギブスンの二作前ではスパイの仕事だったその手の情報収集が、いまでは我々の手の中にある。
 わかんないことはとりあえずググってみる。
 料理のレシピも、あの人の素性も。

 まして、どこかの仕事でスタッフ・ロールに名を連ねたり、名を名乗ってウェヴ上に文章を載せたりしているならば、初対面の相手が自分のなにを知っていてもおかしくはない。逆に言えば、ググればわかることさえ知らない相手と出逢ったときには「ああこの人は私の名をググったことがない」くらいにしか関心を抱いていないのだと思って間違いない。
 奇妙な世界だが。
 世界はいまや、そういう場所だ。
 舞台は現代。
 しかしサイバーパンクの新作なのである。

 モンティ・パイソンのコントが現実になり。
 ウィリアム・ギブスンのサイバーパンクが現代になった。
 我々の頭の上にビルの破片が振ってきたあの光景も。
 結節点ではなく、ただの日常の一部だ。
 花びらが一枚、舞い落ちる。
 それで世界のなにが変わるわけでもない。

 ドリームズ・カム・トゥルーの『go for it!』という曲で「あなたの好きなのは好きじゃない」一例としてモンティ・パイソンがあげられる。その後、やさしい気持ちになった彼女は彼の好きな『サンダー・バード』は観なおしてみるがモンティ・パイソンは観なおされない(笑・という話だと私はあの歌をとらえているのだが、正確な歌詞を知らないので耳で聞いた印象だけだ。ジュリー・アンダーソンは観なおされるんだよね、確か。それとも女優のほうか?)。

 想像もつかない毎日が。
 一緒なら、無敵の毎日が。
 音をたててやってくる。
 それぞれの引力が違えば、もっと世界が広がっていく。

 確かそんな歌詞。
 ま、そんなもんじゃねえとは思うのだが(笑)。
 まったく趣味が違う相手とのほうが、世界が広がるってことはある。
 だいたい、そんな相手を好きになった時点で、あなたの世界は広がっている。

 でも、モンティ・パイソンは好きじゃない。

 あなたが好きだからみなおしてみたけれどやっぱり嫌いだわ。
 というのも、ひとつの発見。

 でも、モンティ・パイソンは好きじゃない。

 私は好き。
 世界に端っこがあるという思想が好き。
 そこから飛んでゆくの。

 奈落まで。
 でも、モンティ・パイソンの描く奈落って、なんだか素晴らしい場所のような気がする。

 ギブスンのおかげで、私はいまの自分の毎日がSFに見えてきた。
 コンチハッ。
 初めてお逢いしますねコンニチハ。
 ローマ字でも書いておこうかな。
 KONNICHIHA。
 最後の「HA」は「WA」と発音します。
 あなたは私が好きですか?
 顔も知らないあなた。

 私は好き。
 愛してる。

 今日も新聞の一面では、爆発した電車の写真。
 殺し合うヒトとヒト。
 そんな日常。

 バイク乗って買い物してこよう。
 ソーダが切れているんだ。
 私の日常。

 追陳──『徒然』のlivedoorへの移行は中止します。規約を読んでいると、blogを「投稿」と言ってみたり投稿者に文章削除の権限を与えないとか──どうも、文章の権利を書き手に有させず、二次使用する気満々に思えてきたので(あの規約では、ある日突然『LiveDoorBLOGの愉快な仲間たち』なんていうおもしろブログをまとめた本が出版されても、そのブログの「作者」にはなんの権利も発生しないことになってしまう。イチ書き手として、そんな規約を認めるわけには断じてならない)。新たなプラットフォームを探してさまよう日々です。ちくしょうMEMORIZEめ。来月中にどうにかせねばならない。忙しい月なのになあ。それはさておき、昨夜の『新選組!!』では鴨が斬られたわけですが、私の予想に反して、藤原竜也の綺麗なほっぺたに鴨の汚い血がびしゃっと……という『BR』を彷彿とさせる演出は採用されませんでした。ていうか、まったく血の流れない惨殺シーンだった。例の小学六年生女児の同人小説のおかげで映画『BR2』のDVDも無期限の発売延期だっていうし。なんかなあ。どうもそれとこれとは違うだろうという気がそこかしこでして、憤懣やるかたない吉秒なのです。

 なのでした。

William Gibson
 パッと死んじゃえば、お父さん、お母さんと出会えるかもしれないと思うときがあるんです。小さいころ、そこに行けば、父と一緒にいられるって強く思ったこともあった。私、怖いことってないんです。ぶっちゃけ、死んじゃってもいいかなって思ったこともあるし。だから、自分がやることに、涙が出るほど怖いと思うことがないんです。


 一青窈

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 それなのに、涙の歌で有名になった一青窈。
 その名前の由来が知りたくてちょっと彼女のことを調べる。推測ではローマ字で書いて「hitotoyou」ということで「人とあなた」? みたいなことを思っていたのですが。

 本名なんですね。

 ところで、冒頭引用は、とあるインタヴューで彼女が語っていたことなのですが。
 台湾人の父につけてもらった「窈」という名前、女性らしい奥ゆかしさをあらわすというその字に、父親の死後、母親の名字であった「一青」(石川県ではポピュラーな名字らしい)を名乗り始めて「ひとと よう」。
 その母親も亡くした彼女が語っている。

 自分のやることに、涙が出るほど怖いと思うことがない。

 ──おかしな表現です。
 とてもひっかかった。
 そもそも、

 自分のやることを怖いと思う。

 という表現が、違和感を感じる。
 いや、日本語としてはおかしくない。
 けれど──

 自分の行いが、怖い。

 そんな場面が「ない」のだと彼女は語っているのだが、そんなもの私にだってないし、おそらく多くの人が、とっさには思いつかない。
 怖い、と思う時点で、人は自らにブレーキをかける。
 動物なのだから、当然のことだ。

 で、あれば。
 他人から見て「怖いよあの人の行動は」というような行動であっても、本人は怖くないから行動に移せていることが大半なのである。
 血まみれで刀を振り回すヤクザであったとしても、そのヒト本人は「自分の行いが怖い」などとは思っていない。むしろ、頭で決めたのに行動に移せないことだけを「怖い」と感じ、それを精神が凌駕したからこそ、行動している。

 強いて言うならば、こんな場面が思いつく。

 だれかにヒドいことを言いながら、頭の片隅で「表情も変えずにこの人にこんなヒドいことを言っている」──そんな自分の行いを「怖い」と感じる。

 逆説的ではあるけれど。
 自分のやることを怖いと思う。
 そういう瞬間とは、言いかえればそういうものだ。

 「怖い」と思っていない自分が「怖い」。

 私が彼女の発言に違和感を感じたのは、だからきっとそういうことなのだろう。
 彼女は、それが「ない」と言っているから。

 逆の逆は、正なのである。

 「怖い」と思っていない自分が涙の出るほど「怖い」
 ──そう思う瞬間が私には「ない」。

 なぜなら、

 ぶっちゃけ、死んじゃってもいいかなって思ったこともある

 から。

 はやくに亡くした父や母と一緒にいられると思うから、死ぬことが怖くない。

 その思想はわかる。
 けれど、そこに「だから」とつながるから違和感が生まれる。
 
 自分のやることに、涙が出るほど怖いと思うことがない。

 それは、おかしい表現だ。
 それは、ただまっすぐに言うならば、

 死んでもいいかなとか思ったこともあるけれど私はいまここに生きているんだからいまではなんでも平気。

 と、そういうことなのである。
 それはとてもポジティブな思想。
 それなのに「涙」や「怖い」などという言葉で逆説的に語られているから──だから私は違和感を覚えたのだった。

 彼女の書いた『アリガ十々』という詩のなかにある──「ふたりがもし出会わなきゃあたしは生まれなかったの 1千回も1万回も アリガ十々アリガトウ」──その言葉もまたそうだ。

hitotoyou

 ふたりが出逢ったからあたしが生まれた。
 だから何度でもありがとうと言いたいの。

 ──それをすべて逆説で書く。

 ふたりがもし出逢わなければ。
 私はここにいない。

 逆の逆は、正。

 でも私はここにいて。
 死にたいと思っていない。
 生きている。
 だからなんにも怖くない。
 泣くほど怖いことなんてない。
 私は私の行いに肯ける。

 とても強く、自然で、きれいな思想だ。
 それを、逆にして読んで見せる。
 言葉の遊び。

 ダークファンタジーの唯一無二の代名詞であるジョナサン・キャロルの言葉を引用しよう(ところでキャロルのひさびさ久々ほんとにひさびさの新作『Kissing the Beehive』邦訳は完了して今年発売のはずだが。東京創元社、はやくアナウンスをくれ。もしもキャロルを知らない人がいたら、あなたはとても幸運な人です。まだ未読のキャロル作品があるのだもの。ちなみにキャロルはかのスティーブン・キングもファンレターを書いたと公言している、まさにホラーでありファンタジー界の生き神様)。

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 基本的に、私は、私が知っているものについて書きます。
 私の書く文字は、文字通りの意味でしょうか?
 いいえ、すべての文章は、あなたの混沌を形作っているのです。


 ジョナサン・キャロル

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kiss

 私が知っているものについて書く。
 すべての作家が、そうなのだろう。
 一青窈は彼女の知っているものについて語る。
 素直な逆説を語る。

 私のカオスを形作るために。
 私は彼女の言葉にひっかかる。
 そして彼女の素直で強い想いに触れる。
 立ち止まったのは、彼女がまわりくどい言い方をしたからだ。
 彼女は、知っていたのである。

 詩人は偉大だ。