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 たららんっ
 たららんっ
 たららららららららんっ

 ……という。
 リフレインが叫んでいるのが特徴的な『ゴジラのテーマ』。

 私、これをときどき口ずさんでいる。

 その替え歌を。

 いや、もともとの『ゴジラのテーマ』には歌詞などないので、正確に記述するならば……

 『福岡市ゴジラ』

 の替え歌を。

 『福岡市ゴジラ』とは。
 坂本龍一司会の、ラジオ番組への投稿作だった。
 オリジナルにはない歌詞を創作している。

 たららんっ
 たららんっ
 たららららららららんっ

 ゴジラっ
 ゴジラっ
 ゴジラとメカゴジラっ

 ……なんという、率直な。
 『ゴジラのテーマ』に、ゴジラとメカゴジラを当てはめた。まあ確かにうまくハマっていて、もしかするとオリジナルも「ゴジラっ」と口ずさみながら作曲したのではないかと思えてしまうくらいだが、あまりに率直すぎて、それだけのネタで世界の教授サカモトが絶賛するはずもなく。

 続きがある。

 たららんっ
 たららんっ
 たららららららららんっ

 モスラっ
 モスラっ
 モスラとメカモスラっ

 ……創作だ。
 ゴジラ映画にメカモスラなんて出てこない。
 さらに『福岡市ゴジラ』はブッ込んでくる。

 ラドンとメカラドン。

 そうか。
 目に浮かぶ。
 モスラやラドンはメカ化できそうである。

 と、想像力を刺激しておいて。

 ヘドラとメカヘドラ。

 お、おおう。

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 昭和発展期公害の化身ヘドラ。汚物である。ううむ。なにをどうメカ化するのだ。ヘドロのメカ。どろりとしているのかガチリとしているのか、悩ましい。

 想像力がブーストする。
 そこへ畳みかける『福岡市ゴジラ』

 ゴジラ。
 モスラ。
 ラドン。
 ヘドラ。

 と、来て、その後。

 サザエさん一家が並ぶ。

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 メカイクラが叫んでる。

 と、来て、その後。

 アルプスの少女ハイジ。

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 メカオンジとメカクララ。
 メカペーターが攻めてくる。

 名曲である。

 名曲ではあるが、知らなくてもよかった。
 それを某格闘家が自分の入場テーマに選んでしまい、テレビ中継された。以後、私のまわりでも一時期、だれも彼もがニヤニヤしながら口ずさんでいるという時期があったのだ。

 前述のように、口ずさむのは『福岡市ゴジラ』のさらに替え歌である。替え歌というほど大げさに考えることもなく、基本はゴジラと同様の三文字であれば、気持ち良くなれる。

 はずなのだが。

 実際に歌ってみるとわかるが、たとえば私。

 タクミとメカタクミ。

 たくみっ、たくみっ、たくみとメカたくみっ

 ほら。三文字だけれど、うまくメロディーにのらない。気持ち悪いのだ。ごじらっごじらっ、の節で、たくみったくみっ、と歌えば、ぬぬぬ、となる。

 最後の一文字の音が上がる言葉が、具合が良い。

 トマトっ、ミカンっ、キノコとメカナマコっ。

 ほら。気持ち良い。
 と、書いてみて、首をかしげる。

 ナマコの最後の音は上がっていないのに気持ち良い。
 タクミとナマコの違いはどこにあるのだ。

 替え歌の常で、○ンコ、というような三文字も、好んで使用されたものだ。ちなみに、○の部分に下ネタ系のチマウ的な文字を入れると最後の音が上がるので具合が良いのだが、 伏せ字にされればだれもが真っ先に思いつく、アンコ、だと最終音が下がるので気持ち悪いために、やむなく下ネタのほうを口にしてしまうというところはある。ちなみに、口にしたところで、なんにせよそんなに楽しくはないところがミソだ。

 特筆すべきは、ペーターだろう。厳密に数えると三文字ではないのである。のばす音は半音と捉えるのか。と、いうことを考えながら色々と試していると、私立恵比寿中学の電車奴隷廣田あいか。

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 彼女のニックネームが小さな「ぁ」と書いて「ぁいぁい」である。それを当てはめてみると、おお、綺麗に回る。小さい音も半音カウントなのか。そこに気づくと、バリエーションが拡がる。

 チャーチ、チョーク、キャシーとメカ竜虎。
 ワイン、フォンデュ、アナルにメカジグソー。

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 とが、にになっているしっ、ジグソーはもともとメカだしっ。などと自己つっこみを挿入して無限ループの輪も拡張していくというものである。

 スーパーの食料品売り場はゴジラの宝庫だ。

 なすびっ、ぽてとっ、きういとメカれもんっ。
 れたす、ちーず、ばななとメカぱすたとぱすたとぱすた……

 魚売場は、なぜかぴんとこない系の三文字が多い。

 うなぎっ、あさりっ、はまちっ、あさりっ、たらこっ、ひらめとメカあなごっ。

 全般的に、ぬぬぬ、という感なのに、サザエさん一家がオリジナル『福岡市ゴジラ』の歌詞であるというところが奥深い。あなごさんは劇中に登場するのに、巧みにかわしているところがテクニックであろう(歌詞に登場するのはサザエとカツオとワカメ。あとメカイクラの連呼)。

 というあたりで、合唱をもういちど。

 モスラっ
 モスラっ
 モスラとメカモスラっ

 オンジっ
 オンジっ
 オンジとメカオンジとオンジとオンジ……

 なにがしたいのか。
 呪いの伝播である。
 こういうものは、忘れたころにだれかが次代に語って聞かせねば廃れる。その曲を入場テーマにしていた彼も、四十なかばでMMAファイターとしては、いつまでヤってくださるだろうという景色だし。廃れてもいいようなものだが、私ばかりが、スーパーに買い物に行っても、夜、ふと目が醒めて天井を見上げても、ゴジラ、ゴジラ……からつながる果てなき呪いの歌をいまわのきわまで歌い続けるのかと思ったら、あなたにも感染させたくなった。

 あしたから歌ってください。





(以下余談)

 などと書きながら、思い出したことがあった。書きながら思い出すということは、それとそれはつながっているということだ。なにを思い出したかといえば、ずいぶんと前にここでも書いたことがあるようなないような気がする、歌手、上田正樹である。

 中学生のころ、私はハガキ職人だった。関西では有名な『ヤングタウン』というラジオ番組に向けて書いていた。そのころから基本シモ寄りの筆致だったこともあるし、いまでも私は職場で仕事以外の話をいっさいしないように、当時から筆名の私と実名の私はくっきり分かれていて、学校にそれを持っていけばニュースになるに違いなかったヤンタンでハガキを読まれたらもらえるバッグやペンケースなどを複数所有していたにもかかわらず、だれにも言うことはなかった。

 その日、いつものように私のハガキは読まれていた。しかしあろうことか、関西では特に大物アーティストである、上田正樹が、なぜなのかゲストとしてスタジオにいたのだ。

 彼は言った。

「ったく。くだらんことばっか考えてへんで、おれの歌聞きに来いや。ライブ来い。モスラ、待ってるからな」

 軒下のモスラ、というのが私のラジオネームだった。たぶんおそらく、上田正樹に、おれの歌を聴きにきやがれとツバ吐きながら名前を呼ばれたモスラは、世界で私ひとりのはずだ。

 で、まあ、ぶっちゃけたところ、じきじきに御大からお声かけいただいたにもかかわらず、根性たたき直されるはずだった彼のライブには、いちどもうかがったことがなく。そのために私は、たたき直されないままに、いまだシモ寄りな、くだらないことばかりを書き綴って生きているモスラなのである。

 そんなこともあって、ゴジラ界隈のくだらないことというのは、自分の領分だという意識があるのかもしれない。少なくとも『福岡市ゴジラ』の制作者は、同じラジオ番組投稿者であり、同じようにどう見てもくだらないネタを書いていたにもかかわらず、坂本龍一に絶賛されレコード化され、私の観ている格闘技の会場で大音量で流されている。悔しいだとか、そんな大それたことを思うわけではないけれど、呪われた私は、私だってだれかを呪いたいと思ったりもするのでした。

 だったら自分のネタで呪えというところだ。
 いや、まったく。
 あいもかわらず、永遠に中学生なのだ。
 上田正樹に舌打ちされるくらいに性根が腐っていてどうしようもない。

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 前回、『Halo』の話をしていて、ああそうだ、あれに触れていなかったと思い出したので、それについて。

 『エンダーのゲーム』。

 いや、その続編の『死者の代弁者』を私は大好きなので、そちらをより深く読むために前作『エンダーのゲーム』にも触れてほしいと願うのですけれども。

 幼くしてさらわれた主人公がスーパー兵士へと成長して、異星人から宇宙を守る。よくある設定だ。いつかの『Halo』話で、私も『反逆者の月』と『Halo』サーガとの類似点について語ったことがあった。

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『Haloだけの王道』の話。

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 いつかハリウッド超大作を撮ってやるぜ的なノリの宇宙戦争モノとして、派手さを求める系譜で『Halo』を語るときには、改造された人間の子供というところを掘り下げるのが常だが、『Halo』のナンバリングシリーズの物語を私が重視するのは、別の点にもある。

 異星人との終わらぬ戦いのなかで、マスターチーフ(機械化された人間)が、コルタナ(人間的意識を得た機械=AI)とこそ、心を通じあわせるという。

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 ジェーンは抑揚をつけて言った。
「人間の心はひねくれてつむじ曲がりなもの。ピノキオはほんとうにおばかさんよ、人間なんかになりたがるなんて。木の人形のほうがよほど利口なのに」 

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 オースン・スコット・カード
 『死者の代弁者[新訳版]』

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 そう言いながらAIのジェーンは、人間であるエンダーを愛している。この造形はまさに『Halo』でのコルタナだ。系譜というならば、『エンダーのゲーム』が『Halo』サーガのみなもとにあるのは間違いないところだろう。

 そう考えると、1980年代に発表された『エンダーのゲーム』や『死者の代弁者』の後を追って、2001年に生まれたマイクロソフトXbox『Halo』が2010年代に大作映画化を立ち上げては未遂に終わるなか、映像化不可能とされていた『エンダーのゲーム』が、2014年に映画化されたのは、『Halo』陣営にとっては、リトマス試験紙の役割を果たしたかもしれない。

 少なくとも私は、映画化『エンダーのゲーム』を観ながら、ああこれで『Halo』はマスターチーフが大暴れするアクション映画方面の作品になってしまうだろうな、と予感した。

 映画『エンダーのゲーム』には、美女AIとのロマンスはない。それどころか、原作ファンが切に映画化を願っていた理由の大きなひとつであった、十歳のエンダーにとって心の恋人たる実の姉、十二歳のヴァレンタインが、湖に水着で現れてエンダーと触れあうという、作中でもっとも印象的な美しいシーンを、改変さえしてしまった。

 原作に忠実な映画化だった。原作者であるオースン・スコット・カードが、創造性の違いからどこにも権利を売らず、みずから何本も脚本化した果ての映画化である。カードが短編小説版の『エンダーのゲーム』を発表したのが1977年なので、実に四十年がかりでのこと。これで原作に忠実でなかったら、彼もやってられん。

 それゆえに、潔癖症的なところもあった。

 少女ヴァレンタインがヴァレンタインのままだった。小説ではよくても、映画では。あきらかに十歳の弟と性的な接触を交わす十二歳の姉が、水着では……問題は起きないにしても、印象的なシーンになりすぎるかもしれないということを、オースン・スコット・カードは懸念したのか。もっと単純に識者からの忠告として、映画ファンのなかには少女の水着姿を収集するためだけに映画を観ている連中もいるのだと、余計なことを吹き込まれたのか。

 ともかく、映画『エンダーのゲーム』で、湖のイカダの上で姉は弟を強く抱きしめるが、イカダは桟橋につながれているし、姉は分厚いコートを着ているので、ふたりで湖に飛び込んだりもしない。もちろん、その代わりになるヴァレンタインのシャワーシーンなどもないので、映画では少女のゆるいウェーブの金髪が、濡れて白い肌に張りつくといった描写は皆無だ。あくまで「湖のイカダの上で」というところにこだわり、改変はしてもカットはしないというところが、この映画化の特徴だった。

 結果、すべてが早送りの印象になった。四十年かけても、娯楽SF映画が二時間を越えることはない。小説は、エンダー・ウィッギン・サーガとまで呼ばれる大河小説の始まりの一冊である。よく使われる陳腐な表現だけれど、映画化は原作のダイジェスト版のようだった。おかげで、とてもストーリーはわかりやすい。

 私は、新訳版をまた買って読むような原作ファンだから、まったく予備知識がなく、あの映画を観たひとがどう受け止めるのか、想像するのは難しい。鬼籍に入られた某映画解説者さんが、かつてテレビで放送した映画の解説で悪口を言ってしまって、しかし後日、その作品をベタ褒めして、あれでおれは人生が変わったというタクシードライバーに出遭い、それ以降、だれかにとってその映画は至上のものかもしれないから、決して悪く言う解説はしなくなったという話をしていた。

 だがしかし、テレビロードショーと違い、映画館では翌日も同じ作品が上映されるのであり、非情にも観客動員数はあきらかになる。

 伝説の名作SF小説『エンダーのゲーム』は、映画化をしくじった。

 いや、むしろ潔癖症気味に完璧だったからか。苦悩する無名の十歳の少年で、世界中の映画館が埋まると考えるほうがどうかしている。できればハリソン・フォードを脇役ではなく主役に使いたいところだったが、七十歳の役者に十歳の少年を演じさせるのはさすがに無理がある。無理を通そうと思えば、原作を改編するしかない。だが、それを作者は選ばなかった。

 美しい映画化だ。
 数字的には、大成功とはいかなかったにしても。
 名作の、作品と作者に最後まで敬意が払われて、ヴァレンタインに水着も着せなかった。原作に真に忠実ならば、エンダーのスタート年齢は六歳なので、さすがに実写化できそうもないという事情もあって全体に原作よりも大人っぽかったけれども。その心意気には拍手を送りたい。

 と、褒めているのかけなしているのかよくわからない映画評をざっくり済ませたところで、だからその映画からなにを強く感じたかというところを書いておく。

 バガーやフォーミック、という名で呼ばれる、異星人。映画だけを観たひとは、なんでこれ、もっとヒトっぽい造形に(いっそ美少女に)しないんだろうと思ってしまうかもしれないが、実のところ『エンダーのゲーム』の続編、『死者の代弁者』では、ピギー族という、かなり人間に近い身体造形の異星人が登場する。オースン・スコット・カードは『エンダーのゲーム』を書いたことで得た認識を深めた結果、造形がヒトに近いほうが、より異質さが際立つのではないかと考え、見事に昇華させているのである。

 彼は、できることならば映画の異星人フォーミックを、昆虫にさえ見えない造形で描きたかったはずだ。しかし、大作映画ということで、難解になりすぎることを嫌った。原作『エンダーのゲーム』におけるバガーは、雄がナメクジのようだという表現や、女王が壮麗だといった抽象的表現にとどまり、具体的造形について言及していない。映画で、虫人間的な造形でフォーミックが描かれたのは、かなりのサービス精神からのことだった。

 異質さ。それこそがテーマだ。映画を観て、私は逆に、あんな異星人だったら、相互理解可能ではないかと感じた。

 『Halo』しかりである。『エンダーのゲーム』に影響を受け、無数に派生したそれ系統の作品のほとんどで、『エンダーのゲーム』映画化と同様に、敵異星人は理解可能な存在に置き換えられている。『Halo』では敵異星人との友情まで描かれる始末だ。

 その点、やはり祖は重みが違う。

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「ひょっとして、彼らはわれわれが知的生命体だとは知らなかったのかも。もしかして──」

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 オースン・スコット・カード
 『エンダーのゲーム[新訳版]』

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 少し前に、こんなことをつぶやいた。

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 ・NASAがまた地球に似た惑星を発見( http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/022300069/ )。「今度のは近い」と胸を張る距離39光年先。望遠鏡で見つけて次はもっと高性能なので観察するという。光の速さで39年かかる先を「見て」生き物をさがす。その技術のほうが謎なので詳しく教えてほしい。 

twitter / Yoshinogi

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 予算の関係もあるのだろうが、近年のNASAは毎年のように「重大発表がある」と言っては期待値を高め、生物が棲めそうな星をまた見つけた、と発表するのをくり返していて、本当はすでにまとめて発表できるなんらかの成果があるのに小出しにしているのではないかと、勘ぐってしまうほどだ。

 彼らが言うに、もはや地球生命体以外の生命体が宇宙に存在することは明白で、いつ確証が持てるかの段階に来ているとか。

 その向こうで、偉大なるスティーヴン・ホーキング博士は、宇宙の知的生命体が、我々の遭遇したくないものに発達している可能性を考慮すべきだと説いている。地上でもっとも宇宙に夢を抱いているはずの彼は、しかし異星人からのコンタクトがあってもガン無視をまずは決め込むべきだと言い続けているのである。

 凶悪な異星人。
 しかしまだ、コンタクトしてくるならば、理解の余地がある。映画『エンダーのゲーム』で、バガーが昆虫それもアリに似ていたのは、そのあたりを意図してのことだったのかもしれない。

 異質さが極まると認識さえ不可能になるのではないか。認識不可能な相手が、認識可能な肉体を持って目の前に現れるよりも、まだしも肉体を持たないAIのほうが人に近いという事態もありうるのではないか。

 エンダー・ウィッギン・サーガに触れると、思う。

 アリは、仲間の見つけた餌に集まってくる。ところでアリには脳がない。しかし、集まってくるということは、なんらかの会話が成り立っていなければおかしい。

 いまのところ、アリは尻から匂いを出して、それによって仲間にいろいろなことを伝えているのではないかとされている。フェロモンでの意思疎通だ。それを意思と呼んでいいものかは人間の物差しでは悩ましいところだけれど、アリはそれで社会を形成して、地上に生き延びている。

 匂いで会話ができるなら、目も耳も必要ない。

 人間の物差し、という表現をさっき使ったが、それは地球外のことになれば、もっと役立たずなものになるはずで、たとえば光の速度で何十年も先にある、生命がいてもおかしくはない惑星が、地球に似ているなどということは、だれも言っていない。水や大気があるようだというだけだ。多くの、というよりも、ほとんどすべての場合において、それらの星は地球よりもひどく大きいか小さいかであり、光が注ぐか、重力はあるのかなどの環境だって違う。

 違う、という物言いが、やはり役立たずの物差しでまだ測ろうとする浅はかさだ。

 そこに棲むのは、珪素生物かもしれない

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『珪素弁当』のこと。

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 もしくは、この記事で。

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『マーズワン計画と、虫』のこと。

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 私は、虫が本気を出したら人類なんてあっというまに絶滅すると書いている。でも、地球上の虫は、人類と同じ地球上の虫だから、本気の出しようがないだけなのだ。宇宙には当たり前に珪素生物がいる。もとから地球よりも千倍デカい星で、すくすくと進化したアリならば、人間のように宇宙船だって作って乗るかもしれない。

 で、そのアリ風異星人も、尻からフェロモンを出して会話する。彼らが人類を発見する。彼らの星の千分の一ほどしかない惑星に棲む、ケツからフェロモンを出してはいない生命体だ。宇宙船に顕微鏡でものせていない限り、彼らのサイズでは、地上のアリには気がつけないだろう。かろうじて人類には気づいたが、彼らに目はない。耳もない。

 地球に、だれかいますかの匂いを噴出してみる。

 無反応である。もちろんそうだ。人類もそのくっさいのには気づいて、空を見上げたら千倍デカい宇宙船がいて、あわてて文字盤を投げつけたり音波や電波で敵意はないと伝えようとするものの、相手には目も耳もないので、コンタクト以前のこと。

 彼らは無反応な地球のエネルギーを、丸ごと圧縮して宇宙旅行の燃料にして、去って行くだけだろう。

 ヒトが、木を薪にして蒸気機関を動かしたように。枝に、虫がいようといまいと気にも留めないように、気も留めずに。

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 このあいだ、UFC208の中継を観た。
 先月はとても忙しくて、二月中旬の開催だった大会の中継を録画はしたものの、月をまたいでから観たのだった。

 いまや日本人が世界に大和魂を見せつけるのはもっぱらプロレスのリングでのことになっているが、MMA(総合格闘技)にだってまだ彼がいるという希望の星であり、オリンピックでは特に日本を応援することのない私が、毎試合祈るような想いで見つめる(だってメダルが取れなくてもオリンピックの次回大会から日本が消えることはないし、カブキとムタとニンジャとゲイシャの伝統あるかぎりショープロレスでも日本人は必要だけれど、MMA界に日本人不在というのはありうる事態だし、そうなると私が気にしないでも気にするひとの多い日本での視聴率が振るわなくなって試合中継がなくなってしまう可能性は大いにあるのだから)佐々木憂流迦が世界のランク5位とついに対戦という、ホチキスでまぶたを留めてまばたき禁止にして観なくてはならないような一戦もある大会だったのだが。



 それはさておき、ホチキスで留めてもまばたきして二度見してしまうくらい、すべての試合を通じて私の集中力を乱したのは、マイクロソフトだった。

 『Halo Wars 2』

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 UFC208の開催はニューヨーク。もちろん中継は全世界。そして『Halo Wars 2』はアメリカから世界にその直後発信される新たな伝説。

 というわけで。

 さきほどの試合前会見の憂流迦の後ろにも。試合場の床にはもちろん大きく。コーナーポストにも『Halo Wars 2』。そんなところに広告が描いてあるのをついぞ見たことがないことに、選手が入場してきて、レフェリーの身体検査を受ける、その足もとに敷かれた小さなマットにまで大きな『Halo Wars 2』のロゴが。

 そして全世界へのテレビ中継の、ラウンドとラウンドのあいだに隙さえあらば、上のゲームパッケージに描かれたゴリラみたいな異星人が顔を出す。画面の右下に、まさにゲームパッケージ画像と同じ、燃えている棍棒かなにかを持ったゴツいのが、こっちを睨みつけている絵に『Halo Wars 2』のロゴ。

 数時間の中継のなかで、数十回も『Halo Wars 2』のロゴを目で追い、『Halo Wars 2』と書かれた黒いコーナーポストに血を飛び散らせる選手を観る。

 私の心は乱れる。

「どんだけ『Halo Wars 2』の宣伝に金をかけたんだマイクロソフトは」

 それすなわち、どれだけ売る気でいるのかということだ。悔いた。放送当日に観ていれば、これほど私の心がざわつくことはなかっただろう。しかし前述の通り、とても忙しかった。二月の大会を三月に入って観た。

 『Halo Wars 2』は、クリスチャンエラニ千十七年二月にすでに発売されている。そして翌夢見月暮春。

 我が手もとに『Halo Wars 2』は、ない。

 ない。
 もういちど書くが、ない。
 買っていない。
 無料の体験版はプレイした。新マルチプレイモード、ブリッツ (Blitz)を試してみてくれという意図での体験版だったのだが、これが。

 まったく肌に合わなかった。

 思えば、『Halo Wars』は発売と同時に購入したのだった。そして、少しプレイして、放置した。最終的に全クリアはしたのだけれど、とても時間をかけた結果、私がプレイするころには公式に『Halo Wars』は大幅値下げされているという状況だった。

 『Halo Wars 2』が、発売されることは、もちろん知っていた。しかしどうも買ったところでプレイできそうな状況にない。前作のときは、初代作だったし、諸般の事情で発売延期になった経緯もあって、英語サイトを翻訳して情報収集したりもしたのだが、今回は発売前になっても特にそういうことをしなかった。しないと、日本ではほぼニュースにならない新作のため、まったく情報を持っていないことになる。

 そこにきて、あの体験版だった。

 新ルール。説明しよう。『Halo Wars』はRTS(リアルタイムストラテジー=Real-time Strategy=実時間戦略)ゲームである。もっとわかりやすく説明しよう。

 将棋だ。

 しかし、現実の戦争をモチーフにしていて、それぞれの駒がAI搭載で勝手に動く。つまり、王の居城を守るために発進した戦車と戦闘機が、敵の飛車戦車と角戦闘機を迎撃するといったことがおこなわれる将棋だ。それも実時間で。将棋では、相手の飛車戦車が一マス攻めてきて、そこで熟考して、こちらがなにかの駒を一マス動かして対応するのだが。RTSゲームでは、常に駒を進めていいし、退いてもいい。逆に言えば、手を休めると、相手は駒を動かし続けているために、なにもしないで蹂躙されて敗北ということもありうる将棋である。

 私は『Halo』シリーズが好きだ。

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『無料のWindowsとコルタナ』のこと。

『Halo: The Fall of Reach アニメーションシリーズ』の話。

『eスポーツとしてのHalo』のこと。

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 その物語が好きだし、初代の『Halo』に受けた衝撃が、忘れられないというところもある。『2』以降の、ネットで常時つながって全世界のひとと毎日スポーツするように『Halo』するというスタイルの確立は、まぎれもなく私の生きかたそのものを変化させた。

 初代『Halo』はFPS(ググってください)であり、その後のナンバリングタイトルもそうである。アクションゲームだ。将棋ではない。スポーツである。

 そこで話が戻るが、くだんの体験版。
 ブリッツ。

 それは、将棋をスポーツにしようという試みだった。もっとスポーツライクな、本家『Halo』のような感覚でプレイできる『Halo Wars』にしてもらえないものかと、世界中から要望があったのだろう。

 ブリッツはカードである。
 つまり駒である。
 将棋では、取った相手の駒を、自分の兵隊として盤面に戻すことができるが『Halo Wars 2』のブリッツモードでは、なんと駒が最初から何種類も手もとにあるのだ。試合前に、戦略としてカードの種類を選んでおく。そして。

 試合開始と同時に、敵の王の目前に飛車を打つ!!

 まあ無茶なので、相手も打つ! 打たれたがまだ駒はあるのでさらに打ち返す!!

 体験版をプレイしつつ思った。

「こりゃもう将棋でもねえ……」

 私は将棋が好きだ。言っちゃあなんだが、強いほうでもある。だからこそ、金角飛車の駒を何枚も試合前から手もとに置いてはじめるそのルールは、あっというまに勝負が決まってそれはスポーツと呼べなくはないかもしれないが、一種の知的ゲームに対する冒涜とさえ映った。

 いや、言っておくが、『Halo Wars 2』におけるブリッツは一モードにすぎず、前作から継承されたまったりモードもある。やり始めてしまえば、一人プレイのキャンペーンモードも面白いに決まっている。RTSという玄人好みなジャンルをハリウッド映画化も目論まれる『Halo』フリークたちに向けて送り出すにあたり、さくっと軽めなスナック感覚も兼ね備えなければならなかった結果なのだろうが、それを発売直前のテストプレイとして出されると、玄人勢が「なにこのスイーツ」と嘆くことになるのは諸刃の剣である。わかっていてやったことだろうが、それでも真の『Halo』信者であるならば玄人はぶつぶつ言いながらも買うだろうから心配ないという計算だったならば、私は彼らの想定した真の『Halo』信者ではなかった。

 もうすぐ発売日だというのに、わくわくしなかったし、これだけ『Halo』好きな私がわくわくしないというのは、ちょっと問題あるんじゃないかとさえ思った。UFCのナンバリング大会で、『Halo』ナンバリングタイトルのごとくに広告費を湯水のように使う、マイクロソフト翁の振る舞いにも、大丈夫なのかこれと思ってしまったのである。

 『Halo Wars 2』は、『Halo』前史を描いた『Halo Wars』の登場人物たちが、コールドスリープしていて目覚めたら数十年経っていて、最新作『Halo5』の後史を描くという無茶なプロットを採用している。ナンバリングタイトルの開発に時間がかかるために、ともかく『Halo』史を前に進めて広げないと観客が飽きるという危機感は持っているようだ。

 『Halo Wars 2』では、コルタナではない、新女性AIイザベルが初登場する。

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 コルタナは、いまやWindows端末におけるコンシェルジュAIとしても活躍する『Halo』ユニバースを飛び出た存在のため、軽々しく本編以外で新エピソードを語ることは難しい。神のごとき崇高なるゲーム界の女神それとも……という存在となったいま、神格性をたもつのにもっとも有効な手段は、多くを語らないことだ。

 そこで新女神。ショートカットで小生意気。戦争の素人。端的にいって妹キャラ。敵だって初登場だ。反逆のゴリラ、アトリオックス。

 えっと。あれ、待って。それって、敵も味方も新キャラだと、シリーズである意味がなくないなんてことは……

 そこですよ!!

 新キャラを中心に描いた『Halo Wars 2』のトレーラーは、めっちゃ魅力的。



 イザベルもアトリオックスも超私好みだ。

 これ、CGアニメとして、これだけで売ってくれたら迷わず買うんですけど。『Halo』信者なので。正史となるならば抑えておく義務があるので。買うけれど、このムービーのあとに将棋はじまるんでしょう。その次のムービー観るために将棋を指さなくちゃいけないんでしょう? あのさ、将棋、好きだけれど。ご存じのように『Halo』信者なので、発売から一年以上経つが、いまだ毎日私がプレイしているゲーム『Halo 5: Guardians』なわけですよ。一試合十分ほどだとはいえ、社会人の平日のゲーム時間て、そのうえにもう一作とか、しかも将棋とか、ハードル高いのですよ。

 なぜその開発時間と金とを『Halo 5: Guardians』のマルチプレイ用新マップに投じない。それ迷わず買うから。ていうか、ぜったい世界的にそっちのほうが儲かるのに、いつものクセだが、マイクロソフトは、広大な土地をおのがものとしたがる。

 いつか買うけれど、いま買ってもプレイするころには値下がっているのが目に見えているので、いま買いません。ファン失格。ええけっこう。今日も『5』をプレイ中。

 『Halo』史は奥深い。
 『Halo Wars 2』発売直後ですが、あなたにはナンバリングタイトルの最初からをプレイして欲しいです。『Halo Wars』の『1』ではありませんよ。

 『Halo』の『1』を。

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 こちらはもうとっくにお求めやすい価格になっておりますので。公式が、こういう大幅値下げ版を出すから、待っていいものは待つようになってしまうところもある。